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言語化したい①「希望」

“他人に期待しない、自分にもっと期待しない。”

 僕はいつ何時も、これを意識して生きることにしている。このスタンスで常に自分の腹にナイフを刺しているので、殴られる機会がそもそも減るし、そのダメージも相対的に小さくなる。

 “自己肯定感が低い”みたいな話題の「他人の褒め言葉が本当か疑ってしまう、素直に受け取れない」みたいな内容に対して「それって人のこと信用してないだけでしょ?」と言われているTwitterユーザーをたまに見かける。自分も、言われたことがある。これも、一理ある。あるにはあるけど、これは「自分を信じれない」の延長にあんだわと言いたくなってしまう。確固たるものが自分にあるとはどうしても信じれなくて、それゆえに他人から評価されるとは到底思えない。自分に期待できないから、他人に期待することは論理的にできない。

 少し前、「今の恋人と付き合う前に、自分が相手から好かれてる自信ってありました?」と他人に聞いてみた時があった。そしたらその人は「いや、ないです」と即答していた。こういうのを聞くと「自分が間違ってるよな」と、自分の正解を世の中の不正解に入れられる気になる。
 これは素朴な疑問なのですか、恋人になって以降はその人への期待や“好かれてる感覚”は言語や実感になるもんなんでしょうかね。もし仮になるとして、じゃあ「そういう人が自分にもいてほしいな」とか思うのかと言えば別に違う。正確に言えば「違ってほしい」。違ってもらわないと困る。
 “手段と目的が逆”な人がどうも自分は嫌で、自分がそうなるわけにはいかない。人生の思い出が欲しいだけのやつだけは避けたい。自分への期待から始まってしまったらその人たちと同じになってしまうから、自分への期待はまず最初に押し殺す必要がある。「自分はそんな人間じゃなかっただろ」とこれまでの人生を反芻して、そうであることに理論武装する。「恋愛という人間の営みに参加条件がある」だの、「そのせいでレベル1で急に県大会とかのステージに立たないといけない」だの、「好かれる人生じゃなかった」だの、「これまでの21年でできなかったものはもうできるようにならないなんてのは流石にわかる」だの、「他人と行きたいところなんて考えたことないから浮かばない」だの、「1人の方が時間もお金も自由」だの、ごたごたごたごた。

 だけど手段と目的が順当であれば良いというわけでもない。初手の“自分への期待”がそもそもないから自惚れることもなくて、他人に期待するには至らない。


 「他人に期待しない」は、あまり伝わらない。「自分にもっと期待しない」も、あまり伝わらない。相手の「そんなことないですよ」を理論武装で木っ端微塵にしてやりたいけど、それも伝わらない。「考えすぎ」で一蹴。

 考えすぎても、まだまだたりてないですけどね。


#361  言語化したい①「希望」

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