代わりなんていくらでもいる

 ふかわりょうさんのエッセイに、「自分の代わりになる人がいるからこそ、自分を選んでくれたことに感謝するべきなのでは」というようなことが書いてあった。それを読んで「確かにそうだな」と純粋に思った。
 改めて考えてみても、この世に「自分じゃないといけないこと」なんて一つも見当たらない。誰かに必要とされてる感の薄いこの世の中で、一生懸命”いくらでも代替が利くこと”をする。唯一無二じゃないしオンリーワンじゃない。誰にでも座れる椅子に座らせてもらえている自分に、価値を無理やり見出してもいいんじゃないか、と気が付かされたような、されてないような、そんな気持ちになった。


 伊藤朱里さんの『きみはだれかのどうでもいい人』という小説を少し前に読んだ。その中に登場する役所に長年勤務するベテランパートの”田邊”が登場するが、ひとつ印象的な思考がある。

ずっと疑問だった。困難に立ち向かうとき、あるいは己を見失うほどの絶望から立ち上がるとき、人は「だれかのために」と言う。仲間のため、友達のため、家族のため、愛する者のため、あるいは彼らと生きる未来のため。では、だれの顔も思い浮かばない人間はなんのために頑張ればいいのだろう?自分のため?
 私でなくてはいけないと言ってくれる人など、この世のどこにもいないのに?
小学館文庫, 伊藤朱里『きみはだれかのどうでもいい人』, p324

 人は「だれかのためだと頑張れる」と言うけど、なんで頑張れるのでしょうか。何のために?何があるから?
 "田邊"の「自分のため?」という部分が刺さって痛い。世の中は「それでもいいんじゃない」と(嘲笑も含めて)言ってくるだろうけど、それに限界があることは分かっている。それが生きがいや生きる目的になってくれないことも分かっている。”だれか”を作らないと、生涯を全うする頃には完全に全ての人にとっての「どうでもいい人」になってしまう。
 自分のために頑張るのは、「自分でなくてはいけないと言ってくれる人」のため。「自分のため」は原動力にできない。


 「アイデンティティのための恋愛」ということについて書かれた論文をいくつか読んでみたことがある。その論文では「アイデンティティが確立されていない人同士の恋愛は長く続かない」ということについて分析がなされていた。まず、アイデンティティが確立していないとそれを恋人に委ねてしまう。そうして獲得した束の間のアイデンティティや自信には限界があります。簡単に言うと、付き合い始めてから時間が経過するにつれて「自分の好かれている箇所」が言語化できないことに気が付きます。そうして関係が崩れていき、別れてしまえばその程度のアイデンティティや自信は消えてなくなる。(ただし、だからと言って長く続かないというわけでもないし、アイデンティティが確立しているもの同士の恋愛は長く続くと言うわけでもないと思いますが。)
 あなたの元恋人にもそのうち新しい別の恋人ができるでしょう。元恋人の「自分じゃないといけないと思っていた場所」に別の人がいるわけです。あなたの代わりなんていくらでもいますね。そこで一旦絶望してください。思い上がっていた日々を思い出して自己嫌悪にでも陥ってください。運命の人だと思ってしまった瞬間があるならその思考回路を捨ててください。
 「自分の代わりなんていくらでもいる」というたった一つの事実を一番生々しく体験できる方法を使える人たちのことが僕はとても羨ましいです。


#326  代わりなんていくらでもいる

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