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恋愛についての個人的な考察②

 高校以前を振り返ると、”恋愛”というヒトの営みを行うためにはなんらかの”参加条件”のようなものがあったな〜とぼんやり思う。小学生の頃は足が速い人がモテたり、中学では素行不良や運動神経が良い人、顔が整っている人がモテたり、高校では勉強が得意な人がモテ始めたり。そういった”参加条件"を一度も満たした実感は無い。
 数年来の地元の友人とお酒を飲んだ時、恋愛の話になった。自分に話のターンが回ってきた時は本当に困った。別にこっちから望んで聞いていたわけではないけど、「他の人の恋愛の話を聞いといて、お前は話さないのかよ」と思われたくない。でも、話すことがない。恥ずかしがって言うのを渋ってるとも思われたくない。でも、本当に話すことがないから許して欲しい。数年来の友人だし、素直に「本当に何もないんだよね」って言ってみると、「気になる人とか一人もいなかったの?」とさらに詰められてしまった。
 恋愛の話をしなくてはいけないターンが回ってくる状況は、高校生の時もあった。その時は「モテない」って言えばそれに同調してくれる人がいて、”参加条件”が存在していることを逆に免罪符にできていた。飲み会の時、大学生では「モテない」で言い訳ができなくなっていることを悟った。それは同時に高校より後では”参加条件”が撤廃されていることをも表している。今それを言い訳に使おうものなら、「お前が何もしてないからだろ」「お前が悪いじゃん」で容易くねじ伏せられてしまう。(何も知らないくせに。)
 よわい21、「オレ、好きな人とか居たことないやんね」と斜に構えるのはしたくない。大学生で人生経験に乏しいのは、”意気地がない”意外の言いようがないなと自分でも思う。ただ、「人生経験が乏しいからこそ、意気地がないんだよ」とも思ってしまう。回覧板をお隣さんの家に持って行く時にインターホンを10分押せなかった時や、家の玄関前に生きているかもしれないセミがいて30分家に入れなかった時と同じ。人間性はそう簡単に変われない。

 そもそも、恋愛という意味での”人への好意”なんてものは、おおよそ9割は勘違いだと思う。”意気地がない”と言われればそれでおしまいではあるが、僕の場合は勇気が出るよりもその好意が消え失せる方が圧倒的に早い。自分にとってどうでも良い人のこと改めて「どうでも良い」と抑えなおすことに労力はかからない。
 期待を抱かなければ、裏切られない。人のことを好きだとすら思えなくて良い。

 人には向いていること、向いていないことがある。自分にはまずコミュニケーションが向いてない。大学の人と喋っても、バイト先の人と喋っても、初対面の人と喋っても、上手くいかない。経験の乏しさを埋めようとしてももう無駄。いくら頑張ってもできないものはできない、だって向いてないから。だから言ったんだよ、「無理だ」って。何より、生きることに必死な自分は滑稽で見ていられない。だから、”恋愛”という営みを放棄することにした。一人で十分幸せな気がするし。

 少し前、祖父母の家に久しぶりに行った。祖父母の家のテレビには写真のスライドショーを流す端末が接続されていて、親族が写真を逐一送れるようになっている。それを祖父母は、毎回嬉しそうに見せてくる。
 もう10年は会ってないいとこの長男が小学生だったり、新たな命が誕生していたり、マイホームを建てていたり。いつの間にかいとこたちはどんどん結婚し、そこに人生を感じる。祖父母に写真を見せられるのは構わないが、正直、いとこの子供の名前は全員わからないし会ったこともない。
 ただ、自分が祖父母のスライドショーの端末に写真を送ったりしている姿は全く想像できないなと思う。

 ”大人”と会うと、人生で目を背けたい部分を見る時間が増える。介護とか子育てとか。(小説を読んでそこは意識してたつもりだったんですけどね。)
 自分のためだけに自分の人生を使うのは正直不可能で、自分のために時間を使ってくれている誰かという存在がいるように、自分の時間を捧げる何かがある。
 この先自分が”恋愛”という営みを放棄し続けると、いつか「自分のために時間を使ってくれる人」がいなくなる。それはもちろん、「自分の時間を捧げたい誰か」がいなくなることも意味する。自分の時間を自分のためだけに使って、死んでいく。それが純粋に「寂しかもな」と思った。 

 別に自分に子供がいなくても、別に自分にパートナーがいなくても、自分にとってはそれで良い。だた、それが誰かの人生の1ピースであるかもしれないと思うといたたまれない気持ちも浮かんでくる。誰かの人生から「孫の顔を見たい」「結婚式は大きくやりたい」みたいな1ピースを奪って自己満足の人生を歩むのは、それはそれで違うなという気もしてくる。「自分の人生なんだから」とフォローされてしまうのも、それはそれで違うなという気もしてくる。誰かの人生をちょっとずつ踏み躙ってまでしがみつけるほどたいそうな人生の芯や軸は持っていない。
 親戚の結婚式の写真を見ると、どうしても「自分にはできないな」という感情が勝ってしまう。その場の主役感に拒否反応が出てしまう。自分じゃなければ良いけど、置き換えてしまうと急に恥ずかしい。ただこれも、誰かの人生の1ピースを担っていたりする。
 全て「自分のために」「自分のしたいように」では誰かしらの何かをたくさん踏み躙ってしまう。


 ここまで考えてようやく、「”恋愛”という営みを放棄する」のをやめるということが少しだけ頭に浮かんだ。


 「会話むずいっすよね、話すことないっす」という話を一緒にしたバイト先の後輩が、「彼女と遊びたいんで今度土日のシフト変えてもらうんすよ〜」と言っていた。バイト先の先輩から「この前かれピと別れた」という話を聞いた。バイト先の後輩から、男の人とカラオケに行った話を聞いた。
 僕は高校生の時から”恋愛”という営みに関して悩んで無駄に考えて、できないこと・しないことを精一杯の理屈でどうにか誤魔化して、諦めて、欲の時点で断ち切って、それでも現実を突きつけられて、6年を贅沢に使ってようやく「”恋愛”という営みを放棄する、のを諦めても良いのかも」なんていうほうきでかき集めたカスみたいな結論にしか辿り着けなかった。「モテない」を一緒に振りかざしていた高校の同級生はとっくに先に歩いていって、足踏みをしているのはおそらく自分だけ。そこまで分かっていてもなお、「できないものはできない」と思ってしまう。ここまで自然にバイト先の人に人生の”営み”を振りかざされて、情けないなと思わされる。

 ”恋愛”という営みが当たり前のように周りで遂行されている。バイト先に買い物に来る人も例外ではない。ただ、別にその人たちは僕みたいに6年うじうじ考えたり悩んだりしてるわけじゃない。(「苦労なんてないんだろうな」と言いたいわけではないので悪しからず。)あえて言うなら、自分を卑下する必要のない生き方を教えて欲しい。生きてて苦しくないのか、聞いてみたい。自分のことがことが心の底から嫌いで嫌で、抜け出したくても抜け出せなくて、何にも触れないでいることしかできない夜はないのが、聞いてみたい。




 自分の好きな芸能人が結婚したりお子さんが生まれたりが、ここ数年立て続いている。心の底から嬉しい気持ちになる。だけど、それを聞いて自分も”恋愛”という営みをしたくなってしまうから良くない。


 こんなことを誰かに長々喋るわけにはいかないので、noteに失礼しました。


#345  恋愛についての個人的な考察②


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