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肩書きもなき主夫の想い

吾輩は何者なのか。何者でもない。
名は、司運(しうん)と言う。
いまは亡き爺ちゃんにつけてもらった名前だ。

結婚2年目で、生後7ヶ月になる息子がいる三人家族のパパ

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結婚した当初は、荷台に建てた小屋(モバイルハウス)に夫婦で暮らしてたので「荷台夫婦」と名乗り、夫婦から家族になったいまは「荷台家族」と名乗っている。
さすらいながら一家三人で荷台に住むにはさすがに狭すぎるので、今年の夏に捨てられた家と土地を買って住所不定の漂流家族から地主の定住家族となった。
荷台家族という呼び名は、"荷台からはじまった家族のものがたり"ということで家族が荷台に住んでいることを指しているわけではない。

ぼくのいまの肩書きは、
強いて言うなら「主夫」だと思う。
住所不定無職から抜け出したが、いまだに定職にはついていない。

大学を卒業して新卒で入った会社をたったの5ヶ月で辞め社会に通用する肩書きを捨ててから、自分なりの生き方を模索するために「生きる実験家」とそれらしい肩書きを自ら名づけて名乗ってみたりもした。けど、どれも自分を表すのにピタリとしっくりくる肩書きは見つからなかった。逆に肩書きを名乗ることでその「型」に自分をハメなきゃいけなくなって自由を失い、生きづらさを感じた。

20代の頃の自分は何者かになろうと奮闘してきた。
何者かにならなければ社会には通用しないし、誰からも認められないと思っていた。誰かに自分の存在価値を承認してほしかった。だけれど、20代を終え、30代を迎えた今、何者かになろうとする生き方に限界を感じている。
何者かになるということは、言いかえれば何かでナンバーワンになることである。ナンバーワンになるということは、決められたルールの中で戦い、誰よりも努力して他の人より優れた結果を出す人のことだと思うのだが、自分には心の底から好きで、努力してなりたいナンバーワンなんて見つからなかった。

反対にナンバーワンを目指すことで抱いたのは劣等感と自己否定だった。一時的には何者かになれた気がして躁状態に入ったかと思えば、その次に待っているのは自分より優れてる誰かと我が身を比べて自分なんてダメだ、、と自己否定に陥って鬱になり引きこもるのをなんども繰り返した。本当にナンバーワンになりたければきっともっと努力したり方法を変えたりするのだろうが、そもそも自分の本心はどうやらナンバーワンではなくオンリーワン "ただ自分らしく生きていたい" だけだった。

それは誰かと自分を比較して自分の価値を見定めようとするのではなく、競争して勝ち取るものでもなく、何かをDoingするんじゃなくて、ありのままのBeingな自分を取り戻すことだと悟った。

人間は英語で“Human Being“と記される。
わたしたちは何かをするために生まれたわけではない。
誰かに認められる肩書きを手に入れるために生きてるわけじゃない。
ただ、あるがままの自分を生きれれば、それでいいのだと思う。

だから、息子の名前は「 福生(ふう)」と命名した。

本当はあなたもわたしも、生まれながらに幸福な存在なのだから
という想いを込めて。