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コルグとDSD (その1)

私がコルグに入社したのは2002年4月。当初は「OASYS」、「Korg Legacy Collection」といったシンセサイザーの信号処理を設計していましたが、2004年に研究部門に移り「1ビット・オーディオ (DSD)」の研究開発をスタートさせました。2011年から数年間シンセサイザー・プラットフォームの技術開発に専念していた時期もありますが、その他の多くの期間はハイレゾ・オーディオ技術の技術開発や製品開発に携わってきました。

今回は、私自身の自己紹介も兼ねて、コルグのDSD/ハイレゾ関連技術の歴史を振り返ってみようと思います。

研究のきっかけ

コルグはシンセサイザー・メーカーとして、'80年代から現在に至るまで常に様々な楽器のサンプリングを行なってきたわけですが、サンプラーの周波数も最終製品のサンプルレートも、31.25kHz、32kHz、44.1kHz、48kHzなど時代やプラットフォームによってまちまち。オシレーター波形はシンセにとって最も重要な源泉ですので、将来も見据えて、様々な製品に利用できるサンプリング手法の追求というのは、シンセサイザー・メーカーとして一つの命題とも言えます。

私がコルグの研究開発部門に配属になったのは2004年春ですが、コルグではそれ以前から1ビット・オーディオ・レコーダーを使ったピアノのサンプリングを行っていました。「将来を見据えて出来るだけ良い音質で」「様々なサンプリング周波数の製品に対応できるようにできるだけ高いサンプリング周波数で」という発想がそこにあったものと考えられます。

当時、既にGENEXやTASCAMなどからSACD制作用のDSDレコーダーが市販されていましたが、コルグは早稲田大学の音響研究室 (山崎芳男研究室) が開発した最新のレコーダーを借りて1ビット・サンプリングを行っていました。サンプルレートは (DSDレコーダーとしては一般的とは言えない) 6.144MHz。私に与えられた課題は、このレコーダーでサンプリングされた1ビット信号を次期デジタル・ピアノ用に48kHzに高音質でダウンコンバートすることでした。

山崎芳男教授は1ビット・オーディオの第一人者であり、実は私も山崎研の出身だったのですが、学生時代は1ビット・オーディオの研究には直接携わっていませんでした。ただし、その頃から1ビット・レコーダーの試作機は身近にたくさんありましたし、それを持って、世界各国の世界遺産の音 (サウンドスケープあるいはインパルス応答) をサンプリングする、という何とも贅沢なプロジェクトにも参加させてもらっていました。そういう意味では、コルグでの研究開始前に、1ビット録音の長所だけでなく面倒な部分もたくさん経験済みで、これがコルグでの研究活動にも大きな影響を与えました。

初期研究 ('04~'05)

DSDをPCMに変換する原理は、実はそれほど難しいことではなく、簡単にいうとLPF (低域通過フィルタ) で高域をカットし、一定の割合でサンプルを間引いていけば良いだけです。肝となるのはそのフィルタの組み方で、フィルタを何段で組むか、各ステージのフィルタのインパルス応答 (周波数特性・位相特性) や演算精度をどうするかが、音質の決め手となります。

前述の通り、当時のミッションは6.114MHzのピアノ波形を48kHzに変換することでしたので、まず最初に着手したのは、入力した1ビット・オーディオ信号を任意のフィルタ特性でPCMに変換できるツール (Windowsアプリ) でした。下図がそのスクリーン・ショットですが、入力ファイル (DSD) の周波数特性 (FFTスペクトル) が表示できたり、出力ファイルのサンプリング周波数や変換フィルタの特性を1Hz単位で設定できたり、GUI上でそのフィルタ特性を図示できたり、といかにも研究ツールという感じですね。これが後の「AudioGate」というソフトウェアの開発に繋がっていきます。

1bitオーディオ研究用ソフト群

DSD→PCM変換が完成してしまうと、逆にPCM信号をDSDに変換する機能も入れたくなるのがエンジニアというもの。デルタシグマ変調器の研究も始め、徐々に1ビット技術にのめり込んでいきます。作ったツールとしては、最大7次のデルタシグマ変調を使ってPCMをDSD変換できるものなのですが、デルタシグマ変調器の特性 (信号特性と雑音特性) を任意に設計できる仕様となっており、当時はこの結果を聞きながら、最適な係数を求めていきました。

1ビット信号の波形を見てみたい、波形編集をしてみたい、という欲求もあり、この時期にそのようなソフトウェアも試作しています。ただし、こちらの技術は「AudioGate」には入らず、日の目を見たのは5年後の「Clarity」でした。

MRシリーズとAudioGate ('05~'06)

本来、DSD録音されたピアノサンプルをPCM変換するだけだったはずの仕事でしたが、すっかりディープな領域にまで入り込んでいった私は (今考えると、会社もよく何も口を出さずに放置してくれたなぁ、と感謝しています) 、徐々にコルグでも自社のDSDレコーダーを開発すべきではないかと考えるようになりました。

当時、私はDSDレコーダーを製品化する上で3つの点に拘っていました。

(1) 誰でも手軽に使えるDSDレコーダーとすること (DSDの民主化)
当時、DSDレコーダーというとSACD制作用のプロオーディオ機器、あるいは研究室レベルの研究試作機しかなく、ミュージシャンがDSD録音を試せる機会は殆どありませんでした。SACD vs DVD Audioというフォーマット競争も残っていた時代でしたが、同一ソースでDSD vs PCMを聴き比べできる機会すらありませんでした。誰でも購入できる値段で、専門知識なしに簡単に使えるDSDレコーダーを市場に提供すること (DSDの民主化) は、私たちの使命だと思っていました。

(2) SACDの倍の周波数である5.6448MHzに対応すること
当時、5.6448MHz対応のレコーダーは研究室レベルでは存在していましたが、市販品だと最高峰のプロオーディオ機器でさえも2.8224MHzまでの対応となっていました。ゴールがSACDと考えた時はそれが自然とも言えなくはないのですが、私は絶対に5.6MHz対応のレコーダーを出したいと思っていました。その理由は単なるスペック競争ではなく、デルタシグマ型ADコンバータとDAコンバータが、PCM録音時とDSD録音時とでどのように動作しているか考慮すればとても自然な考え方なのですが、ここでは割愛します (いつか本ブログで時間をかけて解説したいと思います) 。いずれにせよ、当時、私の5.6MHzへの強いこだわりが社内でも厄介者扱いされていたのは、今となっては良い思い出です(笑)。

(3) DSDをPCで扱えるようなソフトウェアを付属すること
当時、既にオーディオ・ファイルをPC (iTunes) で管理して、iPodで持ち歩くというのが一般的になっていました。一方でDSDファイルとなると、PCで再生して内容を確認することも、CDに焼くことも、不要な部分をカット編集することすらできない。これではせっかくDSDレコーダーを出しても、DSDのネガティブ・キャンペーンになってしまうのでないかと考えました。そこで「AudioGate」というWin/Macソフトウェアを新たに開発し、DSDレコーダーに無償でバンドルすることを決めました。ここに前述の研究成果に加え、下記の機能が搭載されました。
・DSDの再生 (リアルタイムPCM変換)
・DSDの簡易編集 (ファイル分割、フェード、ゲイン変更)

こうして、2006年12月にDSD 2.8MHz録音に対応した「MR-1」、2007年1月にDSD 5.6MHz録音に対応した「MR-1000」が発売となり、両者ともに「AudioGate v1.0」が付属されました。いずれもDSDだけでなく、最大192kHz/24bitのPCMにも対応し、これがコルグにとって記念すべき最初のハイレゾ対応製品となりました。

MR-1/1000とAudioGate

次回は「Clarity」などUSBオーディオへの取り組みについて書いてみようと思います。

[参考] DSD年表(その1)

1999年にソニーから世界初のSACDプレイヤー「SCD-1」が発売されてから、コルグ「MR-1000」が発売されるまでのオーディオ業界の流れ

DSD年表1


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