見出し画像

コルグとDSD (その3)

過去2回、コルグとDSD技術の変遷を振り返ってきましたが、今回は、2014年から「Live Extreme」を立ち上げるまでの経緯について書こうと思います。

DSD Live Streaming 4社共同実証実験 ('14~'15)

2014年4月に技術開発部という研究開発部門を統括する立場になったことで、多くの電子楽器系の技術に携わることになりました。一方、何か1ビット・オーディオの技術開発プロジェクトも立ち上げたいという思いから、日々新しいネタを探していました。既に、ハードウェア (DS-DACシリーズ) もソフトウェア (AudioGate 3, iAudioGate) もそれぞれの製品開発部門が担当していたことから、それとバッティングしない技術を模索していたこともありますが、当時の私の興味はUSBオーディオでもソフトウェア再生技術でもなく、ネットワーク・オーディオ技術でした。

そこで、DSDの新たなネットワーク・ストリーミング手法などを実験していたところ、同年8月頃にオノセイゲンさんからお声が掛かり、IIJ本社ビルでの打ち合わせに参加しました。そこにはセイゲンさんやIIJ社員のほか、顔馴染みのソニーやソニーCSLの面々もいたのですが、話を聞くと「来年4月の東京・春・音楽祭で、インターネットを通じたDSDライブ・ストリーミング配信を行いたい」ということで集められたメンバーでした。

当時、オーディオのインターネット・ストリーミングというと、海外ではSpotify、国内にはSony Music Unlimitedなどが存在していましたし、インターネット・ラジオを聴ける環境も普及していた。しかし、いずれもビットレートが低く抑えられていたため「ストリーミング=低品質」というイメージが定着していたのを覚えています。(海外でDeezerやTidalがロスレス配信を始めたのは、2014年秋に入ってからでした。) その固定概念を一気に覆すことのできる世界初の画期的なプロジェクトでした。

こうして半年間の開発期間を経て実現したのが、後に「PrimeSeat」としてサービス利用されるDSD 5.6MHzライブ配信システムでした。コルグはClarityのコードをベースに、ライブ・エンコーダーとストリーミング・プレイヤーを新規に開発し、ADコンバーターはMR-0808Uをそのまま投入しました。

DSD 5.6MHzライブ配信システム

当初「東京・春・音楽祭2015」にて1日限定で使われる予定の実験システムでしたが、翌週にはベルリン・フィルハーモニー・ホールから、国境を超えたライブ配信も実現しました。

東京・春・音楽祭2015より

PrimeSeatサービス化 ('15~)

実証実験の時点では、DSD (2.8MHz & 5.6MHz) のライブ配信にしか対応していないシステムでしたが、実験終了後も独自に改良を重ね、間もなくPCM配信 (44.1kHz~192kHz)、オンデマンド配信、疑似ライブ配信にも対応することができるようになりました。また実証実験の時には対象外だったソニー製やコルグ製以外のDACとの再生互換性も高め、最終的には殆ど全ての環境でハイレゾをストリーミング再生できるようになりました。

商用利用に耐えうるシステムに仕上がったことで、2015年12月に、IIJによるハイレゾ音源のストリーミング・サービス「PrimeSeat」が満を持して開始されました。現在はオンデマンド配信がメインとなっていますが、当初はライブおよび疑似ライブ配信がメインの構成となっており、毎日5.6MHzのDSDデータがライブ・ストリーミング配信されているという、(良い意味で)クレイジーな状況でした。

PrimeSeat

サービス開始後も、技術面にはDRM/有料コンテンツ対応、IPv6対応、HTTP Proxy対応、URL scheme対応など地道な改善を重ねてきましたが、大型のアップデートとしては2017年7月にDSD 11.2MHzオンデマンド配信に対応 (一度も使われたことがありませんが、実は同時にPCM 352.8kHz & 384kHz 配信にも対応しています)、同年8月にDSD 11.2MHzライブ配信に対応、2018年6月にはiPhoneでのハイレゾ再生にも対応しています。

DS-DAC-10RからNu Iへ

PrimeSeatが始まった2015年頃になると、DSD対応USB-DACという製品はそれほど珍しいものでもなくなっていました。コルグには「他社がやらないことをやる」という社風があり、次の方向性として再び録音機能に舵を切ることになります。それが2015年11月発売の「DS-DAC-10R」で、DSD 5.6MHzのステレオ録音が可能な世界初のUSBオーディオ・インターフェイスでした。

DS-DAC-10R

この方向性は、次世代真空管「Nutube」搭載、11.2MHz録音対応の「Nu I」(2018年11月発売)に繋がっていくのですが、私自身もNu I向けに以下の2つの技術開発を担当しています。

Nu I

AudioGate Recording Studio
Nu Iには同一のPCに最大4台のNu IをUSB接続し、8chのオーディオ・デバイスとして動作させる機能が搭載されていました。8チャンネルのPCM録音に対応したDAWソフトウェアは幾らでもありますが、DSD録音となるとPyramixくらいしか無い状況。そこで開発したのが「AudioGate Recording Studio」(コードネーム: Clara) で、Clarityのコードを流用し、8トラックのDSD録音を行うことができます。

諸々の事情によりオリジナルのClarityにあった多くの機能(トラック数無制限、カット編集、クロスフェード、ミキシング、MIDIコントロールなど)の搭載は見送られ、あくまでも録音に特化したソフトウェアになっていますが、Mac対応などClarityにはなかった機能も搭載されています。

機能限定版とはいえ、かつての研究用コードを製品レベルまでリファクタ/デバッグできたのは大きな進歩です。今後状況が許せばこのコードをベースに開発を継続することができる、新たなDSDプラットフォームが構築できたと考えています。

AudioGate Mastering Studio

S.O.N.I.C.リマスタリング・テクノロジー
かつて、AudioGateでPCMをDSD変換して聴くというのが一部のオーディオ愛好家の間で流行っていた時期があります。技術者として、これを「高音質化」とは呼ぶのはどうかなと思っていますが、最終的な出音が変化するのは間違いなく、音楽の楽しみ方の一つになっています。

一方、制作現場では「DSDマスタリング」という手法が用いられることがあります。これはミックスダウンされた音源がアナログまたはPCMであってもDSD経由でリマスターして、SACD(DSDファイル)化、またはCD(PCMファイル)化する手法です。この過程でAudioGateが用いられることもありますが、本質的にはその前後のプロセスでEQやコンプレッサをはじめとする信号処理によって「高音質化」がなされています。

S.O.N.I.C.は、マスタリング・エンジニアとして有名なオノセイゲンさんにDSDマスタリングのノウハウを提供してもらい、そのエッセンスをNu Iのオーディオ・ドライバに組み込んだものです。再生アプリではなくドライバにというところがミソで、これによりウェブ・ブラウザなどOSの全てのオーディオ出力をこのDSDマスタリング・エンジンを通して再生することができます。元々の開発モチベーションは「YouTubeの音を少しでも良い音で聴きたい」というところであり、実はLive Extremeに先駆けて動画配信の高音質化を目指した一つのチャレンジでした。

オノセイゲン氏

動画配信 (Live Extreme) への挑戦

話が少し前後しますが、PrimeSeatサービス開始直前の2015年10月に「第17回ショパン国際ピアノコンクール・受賞者コンサート」が YouTube と PrimeSeat で同時配信されました。この時、私はワルシャワには行かず、一般視聴者として自宅で鑑賞していたのですが、映像付きだけど低音質のYouTubeと、高音質だけど映像のないPrimeSeat、これのどちらかを選択しないといけない状況に強烈な違和感を覚えました。高音質なPrimeSeatに映像が付いていれば答えは一択なのに... この日から映像のストリーミング配信技術を意識するようになりました。

これまで公にしたことはありませんでしたが、実は2016年10月の時点で、PrimeSeatのライブ・エンコーダー「PrimeSeat Broadcaster」とストリーミング・プレイヤー「PrimeSeat」を改造して作ったフルHD + DSDのインターネット動画配信システムの初期プロトタイプが既に動き始めていました。再生にウェブ・ブラウザではなくnativeアプリが必要、というのが後のLive Extremeとは大きく異なっていますが、エンコーダーのGUI構成など、既にLive Extremeの原型が確認できます。ただし、映像のソフトウェア・エンコード/デコード性能、映像と音声の同期など数多くの課題が見つかり、当時は一旦開発を断念しています。

フルHD+DSD配信システム (試作)

再度挑戦を始めたのは2018年11月、iPhone対応など当初計画していたPrimeSeatの新規開発がひと段落した頃でした。2年前のプロトタイピングで動画ストリーミング・プレイヤーをスクラッチから書くことの難しさを痛感していた私は、技術開発の焦点をライブ・エンコーダーに絞り、プレイヤーはウェブ・ブラウザに任せることとしました。実は2年前とはウェブ・ブラウザをめぐる環境が大きく異なっており、MP4形式のFLACをChromeやFirefoxが正式サポートしている状況だったのです。結果的にこの方向性が開発スピードを向上させただけでなく、ユーザーの利便性にも繋がりました。また、ウェブ・ブラウザとの互換性が確保できたことにより、逆にOS標準のAPIを使ったnativeプレイヤーが簡単に作れる状況になっていたことも嬉しい誤算でした。

こうして2019年12月に、まずは山崎先生を会長とする「1ビット研究会」でプロタイプ・システム「4K映像+1bit音声ライブ配信システム」を技術発表、2020年9月に「Live Extreme」という名前で正式発表するに至りました。

コルグ・ハイレゾ15周年

今年2021年は、コルグが最初のハイレゾ/DSD対応製品であるMRシリーズを発売してから15周年のアニバーサリー・イヤーです。動画配信システムである「Live Extreme」が突然電子楽器メーカーから発表されて驚かれた方もいらっしゃるかもしれませんが、コルグにとってはこの15年間に蓄積してきたハイレゾ技術、ストリーミング技術、そしてウェブ技術が交差した一つの到達点であると考えています。

次回からは、いよいよLive Extremeを支える技術について解説していきます。

[参考] DSD年表 (その3)

DSD年表3


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?