『遊びと勝負の境界』を読んだ、僕の見るリアリティ

ここ数日、眠れば眠るほど疲労が増している気がする。
暇を与えられると、逆に体調を崩す気がする。心が腐っていくのだろうか。


「ぷよぷよの今のコミュニティリーダーはりべさん?」という質問を、先日投げかけられた。
こういうとき僕は決まって、主観的視点と俯瞰的視点を切り分けて考える。
主観的に見た僕は、リーダーと呼べるほどコミュニティをまとめ上げられている気はまったくしない。
俯瞰的に見た僕は、周囲のトップ層よりは各プレイヤーの実情に目を配っているし、明確な指針も出すように努めている。
なので、僕はこう答えるしかない。「事実上、そういう立ち位置になっている気はします」


皆が個人主義すぎて、代わりがいないからこそ、その位置に収まってしまった感覚がある。
必要としている社会の仕組みこそが、僕をコミュニティリーダーに仕立て上げている。
それがどうにも、僭称のような気になって心苦しくなる。このことでまた、いわれのない謗りを受けることもあるかもしれない。
「覇王」も「世界王者」もそうだったし、結局は仕方ねえか~と思って甘んじるしかない。
視点を複数持つように心がけてからというものの、自らの心情に沿わない行動を取らなければならないことは、いくらでもある。
選択肢の価値を比較して、自らの心を殺して、公にとってより良い選択肢を選ぶだけのロボットだ。
生来の感性を犠牲にして、公益、功績、結果、信用、みたいなものを得ている。


『大会に出場しても勝ち上がれないことに慣れてしまい、以前より悔しい気持ちが小さくなってはいないだろうか。』


僕が昨年末頃からずっと感じていることだ。
ブロンズコレクターとしてのキャラクターの恩恵とか、自分より飛躍してくれそうな若手の活躍を喜ぶ気持ちとかがあるおかげで、負けてもすぐに僕は笑える。
でもその笑いは同時に、悔しいと感じる僕を、主観的な選手としての僕を、自らの手で縊り殺している行為だ。
これは立場上、今ある現実を即座に受け止めて、俯瞰的視点でより良い選択肢を迫られてきた数々の経験による慣れなのだろう。
雑念による自我の支配であり、選手としては致命的過ぎる痛手でしかない。
自分が勝たなくてもいい選択肢を心のどこかに用意しているのだから。


多くの中堅世代は、すでに俯瞰的にモノを見る立ち位置に来てしまった。
だからこそ、選手として一線を引いていたり、選手としての結果も振るっていなかったりする。その判断はもとより、多くの葛藤ありきだ。
彼らはそれぞれのリアリティを持っていて、それぞれの選択をしている。
2010年代初頭のぷよぷよを支えてきた実力や魅力。彼らの個々の力は素晴らしいにも関わらず、今向いている方向はバラバラだ。
それは、何の拘束力も存在しない中ででもどうにかして一部だけでも束ねて、形にしなければあまりにも勿体ない。


と思っているのは、果たして僕だけなのだろうか。
空虚なコミュニティリーダーという肩書きだけが、背負う重荷を余分に増やしていく。
誰も保証なんてしてくれない未来の中で、僕は自己責任で、自分のリアリティを追わなければならない。
勝てないリーダーに求心力はない。



僕が勝つには、もっと狂うしかない。

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