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ニコライ2世の皇后アレクサンドラ・フョードロウナの生涯

今日は、ニコライ2世の皇后であったアレクサンドラ・フョードロウナについて執筆します。アレクサンドラ・フョードロウナについては3記事か4記事ぐらいまとめて書きます。

今日はアレクサンドラの誕生から息子・アレクセイ皇太子の誕生まで書きます。

アレクサンドラの生涯は、身内の悲劇から始まり、ヒステリックと内気な性格によって、ロシア宮廷や国民から不人気となり、血友病抱える息子への苦悩・そしてラスプーチンとの関係、意志の弱い夫操る強い妻というイメージが付きまとい、ロシアの国民からの反感買い、最後は家族皆殺しという運命迎えます。


誕生

1872年6月6日、ヘッセン大公ルートヴィヒ4世とヴィクトリア女王の次女・アリス・モード・メアリーの四女として誕生した。

洗礼名は、ヴィクトリア・アリックス・ヘレナ・ルイーゼ・ベアトリーチェであった。代父母は、イギリス王太子エドワード夫妻(後にエドワード7世)と、ロシア皇太子アレクサンドル夫妻(後にアレクサンドル3世)だった。

幼少期は、明るくて愛くるしかったらしく、母親・アリスは、彼女のことを「サニー」と呼び、ヴィクトリア女王への手紙で、「愛らしく、朗らかなちびちゃんで、いつも楽しく笑い、片方の頬にえくぼを浮かべてます」と書いてある。

幼少期は陽気だったアリックス

アリックスの生まれたヘッセン=ダルムシュタット家は、


母親に抱きかかえているのがアリックス

しかし、アリックスが6歳の時に悲劇が起こる。母親・アリスと一緒に過ごしていた妹・マリーがジフテリアに感染して亡くなったことが、アリックスの性格に大きく影響してしまう。それ以降、彼女は笑い見せることもなく、ヒステリックな性格になり、気難しい女性になった。

母・アリスの葬式。

アリックスの祖母であったヴィクトリア女王は、アリックスのこと特別に可愛がり、アリックスはヴィクトリア女王のお気に入りの孫の一人であった。

しかしアリックスのヒステリックな性格と崩れやすい健康は、祖母・ヴィクトリア女王も気づいていた。女王は後に説明している。「あの子は両親失っていたので、責任持てるのは祖母の私だけだった。緊張すると神経病むことのある子だった。親のいないアリックスの頼る先は私以外なかった」と語っている。

少女時代のアリックス

ヴィクトリア女王の庇護下、イギリス人の家庭教師に育てられたアリックスはルーテル派の信仰に目覚め、国際政治に関心抱きつつ、真面目で内気で、常に張りつめた英国風の貴婦人として成長した。

人前に出ると赤面し、身体の調子が狂うと発疹起こし、坐骨神経痛と胃痛で寝込むこともしばしばだった。アリックスには、独断的で頑固な一面があり、人々の気持ちや状況誤解しやすかった。このようなアリックスの性格や考え方が、後にロシアの宮廷やロシアの国民との摩擦やずれ生み出してしまう。そしてそれが、彼女の孤立化、破滅に導く。

1889年ごろのアリックス

成長したアリックスは、背が高く、すらっとした体型で、身のこなしの優雅で、豊かな金髪と碧い瞳、高い頬骨したアリックスは水晶のような美人であったが、いじらしいまでに繊細で、神経過敏なところがあった。

1890年ごろのアリックス

知識人でもなく、高度の教育も受けていなかったが、彼女には「鉄の意志」があった。これがのちに彼女の政治的な特徴として現れ、ロシアの国民の反感買うきっかけになる。

アリックスの兄・エルンスト・ルートヴィヒ大公は、「妹は素晴らしい女性だが、彼女支配し、彼女に手綱つけて導いてくれる優れた存在が必要だろう」と証言している。

アリックスは感受性の豊かな情熱的な女性でもあった。後に息子・アレクセイの家庭教師が「彼女の誠実そと証言している。ただし、アリックスは、笑うことはあまりなかった。

未来の夫のニコライとの出会い

1884年、アリックスの姉・エリーザベト(愛称・エラ)とロシア大公セルゲイ・アレクサンドロヴィチとの結婚式に同行したときに、12歳のアリックスは、16歳のニコライと出会う。

ニコライは、12歳のアリックスのこと気に入った。

アリックスの姉・エラとセルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公夫妻
この2人の結婚式でアリックスは将来の夫・ニコライと出会う

アリックスは、姉・エラがロシア皇室に嫁いだことで、折に触れてモスクワやサンクトペテルブルク訪れていた。しかしロシア皇室は、誰もアリックスのことに関心を示さなかった。ぎこちなく、垢ぬけないアリックスのことが気に入らなかったのだ。

1889年にサンクトペテルブルクに訪れたアリックスは、そこで未来の夫・ニコライと出会う。再会した二人は、語り合い、一緒にダンスした。手紙のやり取りから始まり、二人はお互い「ペリー1世」、「ペリー2世」などの暗号名で呼び合いつつ手紙書いた。アリックスの姉・エラとセルゲイ大公夫妻はアリックスの保護者役務め、ニッキーとのロマンス後押しした。

ニコライはすでに1889年頃には、アリックスとの結婚を望み、日記には「わたしの夢は、ヘッセンのアリックスと結婚することだ。ずいぶん前から好きなのだが、彼女がサンクトペテルブルクに来て過ごした六週間過ごした1889年ごろから彼女のこと深く愛するようになった。わたしたちはお互いに同じように思っていると確信している」と日記に書いてある。

1890年1月29日、アリックスは冬宮の舞踏会で社交界デビューした。最初のダンス相手はニコライだつた。

しかしニコライの両親のアレクサンドル3世とマリア・フョードロウナは二人の結婚に強く反対した。二人とも反ドイツ主義であり、ドイツ出身のアリックスが気に入らなかった。もう一つはアリックスの性格であった。アリックスは前述どおり内気でヒステリックな性格のため、ロシア皇后の務められるか不安視していた。さらにアリックスの実家のヘッセン家には悲劇が相次いでおり、その悲劇がロマノフ家に持ち込まれるという不安だった。(結局結果はそうなったが)

アレクサンドル3世は別の目的もあった、二月王政のフランス王ルイ=フィリップ国王の血引くオルレアン家出身のイレーヌをロマノフ家に迎えることで、露仏同盟を確固にしようとした。

ニコライの母親・マリア・フョードロウナも、ニコライとイレーヌの結婚に賛成して、後押ししていた。

オルレアン王女イレーヌ

しかし、ニコライはイレーヌのことが気に入らなかった。日記にも「ママは、イレーヌののことを私に強く勧めてくる。私の望みはアリックスとの結婚なのに」と書いてある。

1894年にアレクサンドル3世の健康状況が悪化すると、アレクサンドル3世はしぶしぶ、ニコライとアリックスの結婚を許した。マリア・フョードロウナも、しぶしぶとニコライがアリックスへプロボーズすることを許した。ニコライは有頂天になり、アリックスに尋ねた。

アリックスは、ニコライを愛していたのにも関わらず、ルーテル教会から正教会に改宗することは消極的であった。(ロシア皇太子妃になるには、正教徒になるのが必須である)。1893年11月8日、ニコライ宛てに「私は良心に反して正教会に改宗することはできない」と送っている。

1894年4月、アリックスの兄・エルンスト・ルートヴィヒとヴィクトリア(愛称・ダッキー、後にロシア大公キリルと再婚)の結婚式に出席したときに、ニコライはアリックスにプロポーズし、正教会に改宗するように2時間かけて説得を試みた。アリックスは拒んだ。

その後、正教会に改宗したアリックスの姉・エラは、アリックスに「正教会に改宗するために、ルター派を捨てる必要はないと」説得した。アリックスは翌日にヴィルヘルム2世と、ニコライの叔母・マリア大公妃(アレクサンドル3世の弟・ウラジミール大公の妃)に話をして、ニコライのプロボーズ受け入れた。

1894年4月にニコライとアリックスは、正式に婚約した。

1894年9月、アレクサンドル3世の病状は悪化していた。9月21日、アレクサンドル3世は皇后マリア・フョードロウナと息子・ニコライに伴ってクリミア・リヴァディア宮殿に到着する。アレクサンドル3世の健康は、日々衰えていった。

皇帝が、医師に「本当のこと言ってくれ 私あとどのぐらい生きられるのか」と言った。医師の回答は、「それは神の思い召しによります。ただ奇跡的に回復した例もあります」と答えた。

婚約時代のニコライとアリックス

1894年11月1日、アレクサンドル3世が49歳で死去した。翌日にはアリックスのロシア正教会への改宗式が行われ、アレクサンドラ・フョードロウナと呼ばれることになった。

1894年11月19日に、アレクサンドル3世の葬式が行われ、その1週間後の11月26日(この日はニコライ2世の母親マリアの誕生日だった)ニコライ2世とアレクサンドラは、結婚式を挙げて、晴れて夫婦になった。一部の人はアレクサンドラがアレクサンドル3世が亡くなった後にすぐに来たため、アレクサンドラのことを不幸を呼び起こす人だと見なしていた。

ロシア宮廷との不仲とロシア国民の不人気

アレクサンドラは、ロシア社交界に馴染めなかった。周りの人はアレクサンドラのこと冷淡で傲慢、無関心に映った。姑・マリア・フョードロウナとも不仲で、社交界好きで、派手好きな姑・マリアのことを軽蔑していた。
アレクサンドラが社交界や舞踏会のレセプションを担わない代わりに、その役目を、姑・マリア・フョードロウナが担うことになった。

他のヨーロッパ王室と違い、ロシアは皇后よりも皇太后の方が上位であるという独特な風習だった。そのため姑・マリア・フョードロウナとの確執は深まっていた。

1895年ごろのアレクサンドラ

アレクサンドラは、ロシア社交界の公用語であるロシア語とフランス語習得するのに苦労した。(アレクサンドラは英語やドイツ語はマスターしていた)

アレクサンドラは、人と接するのがあまり好きではなく、舞踏会やパーティー嫌い、貴族たちのゴシップ好きも、陰口に熱心なところも嫌っていた。貴族社会の軽薄で自由な風紀、なかには自堕落な生活を送っている貴族がいることも嫌っていた。アレクサンドラは、そうした彼らが皇帝の権威を弱めているのだと疑っていた。

そのため、アレクサンドラは、あまり社交界に出席せず、ツァールスコエ・セローにあるアレクサンドロフスキー宮殿で家族と静かな生活送ること好んだ。そのことはロシア皇族が、彼女への不信感高めるきっかけになった。

アレクサンドラは、熱心的な王権神授説の信奉者で、ロシア国民が自然と皇帝と皇后を愛して、崇拝していることと、皇帝の専制政治を支持していることを彼女は強く信じており、政治的な面でも国民の意見を聞く必要はないというのがアレクサンドラの思想だった。そのためニコライ2世とクリミアに旅行に行ったときに、何百人の農民が、皇帝夫妻を待っていた。ニコライ2世は窓のところにいって手を振っていたが、アレクサンドラは、カーテンを開けて、民衆に対して手を振ること拒否した。

祖母・ヴィクトリア女王は、孫娘・アレクサンドラがロシアに馴染めないことに不安感を感じ、「皇后としての最初の義務は、国民の愛と信頼を勝ち取ることです」とアレクサンドラに手紙を書いたのも、アレクサンドラは、祖母のアドバイス受け入れず、「あなたは間違ってます。ロシアはイギリスではないです。ここは人々の愛を得る必要はありません。ロシア国民は皇帝を神聖な存在として崇拝してます、サンクトペテルブルクの社会については無視してもいいです」と返信した。

家庭生活と出産


ニコライ2世とアレクサンドラの家族

アレクサンドラは、1895年に長女・オリガ出産した。その後も、タチアナ、マリア、アナスタシアと4人立て続けに女子であったため、後継者が生まれないことが、2人にとって悩みの種だった。

ロシア宮廷や国民からは不人気だったアレクサンドラだが、家庭では良妻賢母で、子供に愛情を注いだ母親だった。当時の皇室の慣習に反して、自らの母乳で子供育てた。

ロシアは、エカチェリーナ2世の息子・パーヴェル1世が、1797年の帝位継承法でロシアの君主は男子しかなれないという法律を制定したため、アレクサンドラの生んだ女子には帝位継承権はなかった。そのため、もしもアレクサンドラが男児産まなかったら、ニコライ2世の弟のミハイル大公か、そうでなければアレクサンドル3世の弟であるウラジミール大公とその息子・キリル大公に移ることになる。

ニコライ2世とアレクサンドラは、男児を授かるために様々な手法を用いた。

まずミッツイア大公妃(モンテネグロ公国の王女、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の王妃エレナの姉であった。)に紹介されたフランス人の神秘家・フィリップに頼る。この男は、似非医師であり、怪しげな経歴以外何者でなかった。そのため、ニコライ2世の母親マリア・フョードロウナや、アレクサンドラの姉・エリザヴェータ・フョードロウナは、二人にフィリップに近づかないように警告したが、二人はその警告に耳を傾けなかった。フィリップは、1901年終わりにアレクサンドラが妊娠予兆が出たときに、「男子です」と予想した。しかしアレクサンドラの妊娠が想像妊娠であることが判明するとを、アレクサンドラは失望し、フィリップを追い払った。

次はロシア正教会に頼り、正教会は、皇帝夫妻の痛悔(カトリックの告解に相当)聞く立場になったフェオファン紹介した。男児を求める夫妻の神秘主義への傾倒を自分たちのところへ誘導しようとした。

1903年7月アレクサンドラとニコライ2世は、サロン修道院のわきにあった奇跡の泉に自らの身を沈めて、男児を授かるように祈った。

このような夫妻の努力が実り、1904年についに夫妻にとって念願の男児が生まれた。しかしこの男児は、ヴィクトリア女王から血友病の遺伝子を受け継いでいた。

夫妻の喜びは、どん底に突き落とされることになる。

続く

参考文献

「ロマノフ朝史1613~1918  下巻」
「ロイヤルカップルが変えた世界史」
  アレクサンドラ皇后のWikipedia(英語版)

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