自分史「冬の時代を経て春へ」

こんにちは。文芸社に応募した自分史です。
文章は「だ、である調」ですが、半生をまとめた手記です。良かったらお読み下さい。


私が生まれたのは東京の都下の調布市だった。

小さい頃からよくいじめられた。運動音痴だったし、何か言われてもすぐに言い返す事ができなかった。

それでも家ではそんな事は一切言わなかった。家族は両親と弟妹の5人家族。母からはよく怒られた。それでも、優しく仲の良い家族だったと言えよう。

私は小さい頃から絵を描くのが好きだった。下手だったが、描いていると辛い事を忘れられた。

中学校に入って引っ越して環境が変わっても、周囲からいじめられたり、避けられたりして、友達はできなかった。

高校2年生で、進路を決める事になり私は美大を選択した。そして美術の予備校に行く事になったが、ここではとてものびのびできた。友達とお喋りして、楽しかった。

美大受験にことごとく失敗した私は、浪人生活に入った。予備校も大手の予備校に変えたが、結局二浪して短大に合格した。

2年間の短大生活は、のんびり穏やかに過ぎていった。私は教職課程を選択し、教育実習を希望したが、不安でいっぱいになり、街を泣きながら歩いていたら、知らない女性に声をかけられ、高額なセミナーに契約させられそうになり、母にクーリングオフしてもらい事なきを得た。若い頃はこのように宗教の人等によく勧誘されていた。

教育実習は生徒達と意志疎通も取れず、挫折感を味わった。その時のショックが尾を引いて、二学期からの授業によく遅刻するようになり授業の単位も落とし、卒業も危うくなった。

そんな時に、ある友達に誘われ韓国系のキリスト教会に行くようになった。当時作業系の会社にアルバイトする事が決まっていたが、そこと教会と並行して通う事となった。

私はそこでも人間関係が上手くいかず、作業も人より遅く、周りの人達の負担となったようだ。

一方教会では、お祈りしたり聖書を読んだり、どんどんのめりこんでいった。

そんな時、会社で作業中に流しているラジオが、まるで自分の事を言ったり歌ったりしていると感じる事が度々あった。

そっちの世界がリアルになり、毎日躁鬱を繰り返し、頭がおかしくなりそうだった。

私の生活は聖書中心となり、不安定な日々を過ごした。そんな中で短大は何とか卒業したが、仕事中に聖書を読んでいる所が見つかり、会社をクビになった。私は躁鬱を繰り返し、ただ生きているのが辛かった。

この時、初めて精神科に行った。そこで薬をもらい服薬し、数ヶ月で状態は良くなった。

ところが、薬をやめてしばらくしてまた症状が再発した。

今度は、ある歌手に恋焦がれ深くのめり込む事となった。彼の作る曲は全て自分の為に書いていると思い込むまでになった。躁鬱で頭がおかしくなり、食事もろくに取らず、街を徘徊した。神経過敏になり、行き場のない怒りで部屋を荒らした。

そのうちに夜、どこかに連れて行かれ、意識を失った。目醒めた時は手足を縛られ、奥まったクワイエットルームにいた。精神病院に入院したのだった。

最初は辛くて毎日の服薬も拒否する事があったが、そのうちに施錠された個室に移り、秋には2人部屋に移る事ができた。

その部屋の人が、何かと話しかけてくれて段々と聖書を読むのをやめていった。

両親も、週一回面会に来てくれた。父はお菓子を食べさせてくれ、母も以前より優しくなった。母を許せるようになったが、母からは私の何倍も許され、愛されていた事に気づいた。今では母とは大の仲良しである。

病院の人達は何かと気遣ってくれて、私はどんどん良くなっていった。5ヶ月後の冬私は退院した。

だが、病院で統合失調症と診断され、私は障害者となった。症状は軽くなったが、これから毎日服薬しなくてはならなくなった。

昔から秘かにあった、自分は凄いという感覚は完全に打ち砕かれた。自分は平凡であるのだという悲しい諦めがあった。だがそうして私は随分生きやすくなった。

退院後、私は月一回通院しながら、そこの病院のデイケアに通う事になった。友達もできて生活は安定した。絵も始めた。

28歳の時にアルバイトの面接を受け、採用になり、デイケアを卒業し、家から近い病院に転院した。

新しい病院の先生は、私の薬を少しずつ減らしてくれて、私は元気になっていった。

漫画喫茶はとても良い職場だった。一人体制で同僚とも普通に接する事ができた。仕事を任される事で、少し自信がついた。

アルバイト3年目で、本社の男性と付き合うようになった。私達はとにかく会うのが楽しかった。彼の車で色々出かけたり、幸せだった。ただ、帰りはいつも午前様になった。当時は両親も心配していただろう。

一年後、職場が閉店する事になり、何人かは新店舗立ち上げの為に残ったが、私は妹に誘われて保険会社の研修を受ける事が決まった。

だがこの頃、彼に段々とときめかなくなってきた。マンネリを感じて悲しかった。彼もその頃から、私に何やら浮気してもいいかとほのめかしてきた。

彼は家に送ってくれた時も決して家族には会わなかった。

付き合って2年半経った頃車の中で私が

「これから(私達)どうする?」と言った途端、別れ話になってしまった。

あまりに急な展開に私は泣いてすがったが、彼は表情を変える事はなかった。私達はそのまま別れた。

保険外交員は上手くいかず、その後職を転々としたが、スキルアップもできた。アート関係の会社では、仕事はきつかったが、パソコンとデザインの事を教えてもらった。パートをしながら、夜間職業訓練校に通って、描画ソフトやHTMLの基礎を覚えた。

この頃から、段々と運が向いてきたように感じる。

一年任期の就職を終えて、次の就職をハローワークで探していたが、就職斡旋の人が、障害者枠でも探してみようと言ってくれた。抵抗はあったが、障害者枠の求人も探してみる事にした。

障害者枠はピンからきりまであった。一件目は、正社員登用試験があったが、難しい関数を使ったり、全く歯が立たなかった。

もう一件の会社も正社員として応募した。都心の綺麗な会社で、面接の後、実習を受けさせてもらえた。その結果、事務補助として採用された。

初めての障害者雇用は、思ったより居心地が良かった。トラブルが全くなかった訳ではなかったが、相談できる人は沢山いたし、皆善良だった。体調も気遣ってもらえた。とても良い職場だった。しばらくして、とても助かっているよ〜と言われて嬉しかった。

絵も公募展やギャラリーに出品したり充実していた。38歳の時はカフェで二人展を企画して沢山の人に絵を見てもらった。

この頃から、少しずつ婚活をするようになった。抵抗はあったが、アプリに登録したり、いいなと思った人に会ったり。だがなかなか上手くいかなかった。

婚活アプリでは、3人マッチングしたが、一人は会う直前にドタキャンされ、もう一人にはあなたは理想とは違うと言われてしまった。

もう一人は、50代の男性。山梨県上野原市という初めて聞く所から、車で来てくれた。

他愛もない話をして、今回もダメかなぁと思っていたが、先方は私をとても気に入ってくれた。これが主人との出会いだった。私は40歳になっていた。彼とのデートは充実していた。帰りは必ず家まで送ってくれた。

結婚の話も出て、3ヶ月後にはレストランで両親と会ってくれて、皆の食事代も払ってくれた。逃げ腰だった元彼とはえらい違いだと思った。私も上野原まで行き、高齢のお母さんとお会いした。

不安もあったが、あれよあれよという間に結婚式場も決まりそうで、弟妹にも会ってもらったり、どんどん話が進み、私の心は置いてけぼりでマリッジブルーも味わった。

一番辛かったのが、会社を辞めないといけなかった事だった。メンバーも増えてリーダーとして、仕事もバリバリこなしていたのに、寿退社。

とても悩んだが、彼と山に登る事があった。その日彼は電車で来た。山を下山してから、私の具合が悪くなってきた。この時彼はとても心配してくれて、家まで送ろうと言ってくれた。

私は、いいよ、悪いよ。と言ったが、彼は譲らなかった。

私は内心泣きたい程嬉しかった。電車の中でも私を座らせ、ずっと手を握っていてくれた。彼の家は逆方向で帰りは何時頃になるのだろうと、ふと考えて申し訳ない気持ちになった。

だが、これ程優しい人と一緒なら大丈夫だと思った。上司にも、翌年退職する事を告げた。秋には結婚式場に行き、結婚式の打ち合わせ等で忙しくなった。

そして41歳の夏に結婚した。沢山の人が祝福してくれた。

遅い結婚ではあったが、7年経とうとする今も私はとても幸せだ。その間に義母は老人ホームに入り、私は八王子の会社で障害者として働いている。家族も皆元気でいる。

若い頃は、不安でいっぱいな冬の時代を過ごしたが、やがては季節も巡り、暖かい春になるのだな、と実感している。日々色々あるが、優しい主人達と、充実した毎日を過ごしていきたい。

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