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他人のアクビは不快なノイズ

一月十七日

ほんじつはYawn、Gähnen、つまり欠伸のことから筆を起こそうか。隣の爺さんの気の抜けたアクビの「声」にいささか悩まされているからだ。かつて私は平田学さんという人の経営する「まんがびと」という会社との縁で、「10分で読めるシリーズ」として二冊の電子書籍を出している。そのなかの一冊が「ライティング・セラピー」にまつわるものだった(内容の薄っぺらさことを思うと黒歴史に他ならないのだけど)。ただでさえ短い本の内容をさらに要約するなら、ムカつくときや哀しいときや死にたいときはそのことを白紙に書きまくれと言うことに尽きます。かりに職場や学校に殺したいほどムカつく奴がいるなら本当に殺して御縄になるより、非公開のウェブ日記かなにかに「○○死ね死ね死ね」と書きまくったほうがノーコスト・ノーリスクでそこそこ楽になれていいよ、ということ。誤解しないでほしいのだけど私は「殺人はよくない」とかいう通俗倫理(道徳)を反復したいわけではない。どんなときでもいちおうタテマエを貫かざるをえない「教師的立場」を私は知らない。古今東西、殺人という行為を無条件に否定する定言命法(Kategorischer Imperativ)をほんきで主張しているのは、一部の宗教者だけである。自分が殺されそうなときでさえ正当防衛権を行使せず無抵抗を貫けという聖者の倫理は気高い(おもわず私は非武装中立の絶対平和主義的「九条解釈」のことが頭を過った。そういえば五木寛之がどこかで、そんな「過激な理想論」のために滅亡する国というのが一つくらいあっても面白んじゃないかと冗談半分で語っていた)。正義論の文脈ではそんな「義務を越えた努力」のことをsupererogationというけど、凡人のなかの凡人である私はそんな努力を強いられたくはない。都合上、場合によっては誰かを殺めることだってあるかもしれない。このごろますます短気になったし。それに泥酔すると何をするか分からない。まこと貧すれば鈍するで、生身の人間は追い込まれれば何をするか皆目予想が付かない。飢えれば万引きもするだろうし、詐欺だってするだろうし、しまいには強盗殺人さえやりかねない。いや面倒臭いのでしないかな。それより福祉のおこぼれに与るか、お金のいっぱいある友人に金をせびるかだな。
ともあれ、「犯罪」というのは国家の決めた刑罰法規の構成要件に該当する行為であり、したがって国家の正統性(legitimacy)を前提としないアナーキストにとっては、そんなものは端から問題にならない。私は警察も裁判官も嫌いだ。ついでにいうとに人間同士の結合に法的承認を与えるという婚姻制度(marriage system)も嫌いだ。こんなキモい制度に違和感を覚えない愚鈍なやつと杯を交わせる気がしない。
「書き散らす」という精神安定策は、私にとってごく当たり前のことで、見ての通りnoteでも日常的にやっている。ただしこのアカウントはフェイスブック(つまり実名)に繋がっているのでいまはいささか抑制はしているものの、それもやがて無くなっていくかもしれない。本性上わたしはウソを書けない。馬鹿野郎のことは馬鹿野郎と書いてしまう。嫌なものを嫌だと感じる感性を殺してはならない。
それより問題はアクビである。気の抜けたアクビをいつもしやがる隣の爺さんである。どうしてこう配慮できないんだろう。口から平気で音を出せるんだろう。これを一概に年のせいにすると他の御老人に失礼だ。周りの人に配慮できる御老人だって世にはたくさんいる。若くて品のないのもいっぱいいる。くしゃみや咳を気分よく威勢よくやりやがるのは老若男女を問わずいる
。そんなれんちゅうはがいして「教養」がないのだ。精神が下等なのだ。だから他人の痛みや不快に想像が及ばない。たのむからおまえらもっと成熟してくれ。俺も頑張るから。
俗にアクビは伝染するという。同居者でわりと気の合う人ならそれもあるだろう。生活時間だってほぼ同じだろうから。でもそうでなければただひたすら不快なだけである。無自覚のうちに伝染しないぶん、みょうに「気に障る」ということになる。悪いかたちで滞留するのだ。他人のアクビの声はどこか「押しつけがましい」。情緒的侵入といってもいい。そこには「俺は眠いんだよう」とかいう「構ってほしいエネルギー」が潜在している。だから平然とは受け流せない。右から左に受け流せない。
昨日は休館日。大村大次郎『世界を変えた「ヤバい税金」』を読む。乳房税とかヒゲ税とかトンデモ税がぞくぞく紹介されていたが、それよりもなにより「逆進性(regressivity)」の疑いのある消費税というものこそトンデモ税の一種なのではないかと思わされた。まあこれについては諸説あるので断言は避けます。原則すべての物品・サービスを課税対象とする一般消費税については種々の先行研究を参照しまくらないとその全貌はなかなか見渡せない。給料からの源泉徴収(withholdig tax)を普及させたのがナチス期ドイツであるとは巷間よく言われることだ。日本はそのドイツに見習い、一九四〇年(昭和十五年)、源泉徴収を制度化した(年末調整が始まったのは一九四七年)。遡ればナポレオン時代のフランスにもあったとかも言われる。世界の税制史に関する書籍はおそらく汗牛充棟に及ぶくらいあるだろうから、あまり単純なことは言えない。時間的余裕があればこんご仔細に研究します。
いずれにしても源泉徴収がより効率のいい戦費調達手段であったことははっきりしているようです。なにより税務当局にとっては取っぱぐれが少なくていい。給与生活者もわざわざ計算・納付する手間を省ける。それゆえ源泉徴収制度は徴税側と納税側の双方にとって都合がいいということになっている。うん、一応ね。
けだし人生で確実なのは死と税金と不愉快な隣人だけだ。
ご飯がとっくに炊けている。とろけるチーズをのせたカレーを食って、ライブラリーに向かおうか。

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