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豈はからんや、風雲だけし嬢、デリダ、モーツァルト、友は旅に出た、今宵は飲もう

四月二十日 

八時起床。「ウエハース・チョコレート」、紅茶。朝の礼拝。
きのう友人とひさしぶりに温泉に行って九〇分あまり湯に浸かった。だからなのか熟睡できて寝覚めがいい。たいへん好ましいこと。ただモーニングアタックがしつこく、鼻の機嫌がいささか悪い。
いまワイヤレスヘッドホンでフリードリヒ・グルダによるモーツァルトのピアノソナタ集を聞きながら書いています。いつの録音か知らないが、グルダにしてはシンコペーション控えめ。もっと野蛮に崩してもいい。どう演奏してもモーツァルトの天衣無縫性は損なわれない。詞のある歌だと書きだす言葉と摩擦を起こしかねないが、ピアノ曲や管弦楽曲を聴きながらだとむしろいい相乗効果をもたらす。爺さん対策でもあるけど、このごろは読むことに気を奪われ過ぎていて音楽の快楽をなかなか享受できていないので、こういうスタイルもいい。ただ夏は耳が蒸れるのでこのスタイルを長く続けることは出来ないだろう。とまれ音楽は心身の強張りをもみほぐしてくれる。
誰某いわく優雅な生活こそ最高の復讐である。

きのうに引き続きハイデガーについてのデリダの講義録を読む。『声と現象』もぱらぱら読む。ハイデガー読解は世にありふれているが、彼ほど念入りにやる人はあまりいない。デリダはフッサールの精密な読解者としてもよく知られている(彼のさいしょの著作は二十代に修士論文として執筆された『フッサール哲学における発生の問題』(みすず書房))。フッサールとハイデガーはとちゅうから「決別」したとされているが、デリダはその二人の思索に対し同じくらい「深入り」している。あたかも両者のよき「調停者」であるかのような軽快な足さばきで。彼の著作を読んでいると、「読むとはこういうことか、ここまでしないといけないのか」と自分の至らなさを痛感しないではいられない。私は読解と思索を切り離し、前者より後者に重きを置いているが、徹底した読解はもうすでに思索の作業を含んでいるのかも知れない。思索もまた「所与的な経験(いまここ)」の読解なのだ。超越論的還元(transzendentale Reduktion)や形相的還元(eidetische Reduktion)と呼ばれている方法的操作も、思索における読解作業とみていい。
この講義録は、一九六四から一九六五年にかけてのものだというから、デリダがおよそ三四、三五歳あたりのころのもの。ことし三五になった私としては自分の分身を前にしているようだった。たしかにデリダは私の伴走者として物足りない。走って向かっている方角が違う気がする。彼は「何かが既に常にある」という《突拍子もない事実》に驚愕していない。「存在がほかならぬ《私》として《このように》現出しているのは何故か」という法外の問いを前にして立ち止まっている様子がない。あるいは「内心」では驚愕してはいるのだがそれをあまり素朴に表出するのは「プロ哲学者」の沽券にかかわることだと意識しあえて「自重」しているのだろうか。そんな俗物的な衒いとデリダは無縁であると信じたい。ハイデガーは講義録『形而上学とは何か』において、冒頭からこの問いを愚直なほど連発している。「存在の謎」に魂を揺り動かされていることを包み隠そうとしていない。デリダも彼くらい「素直」になればいいのに。およそ優れた哲学者は「感激家」なのだ。彼の著作物が一見いかに韜晦に満ち溢れたものであっても、その思索的出発点には必ず偽らざる感動がある。プラトンは『テアイテトス』のなかでソクラテスに、「タウマゼインとパトスこそ哲学の唯一の始まりなのだから」と言わせている。さしあたりタウマゼインとは「驚き」で、パトスとは「感動」と思っていい。岡本太郎のいう「なんだこれは!」の衝撃的契機なしでは思索は始まらない。タウマゼインもパトスも欠いた哲学者もまた文字通りの「精神のない専門人(Fachmenschen ohne Geist)」なのである。それは「無のもの」なのである。

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