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哀しみの「か」、「お前の消滅の美学を押し付けるな」って言わないでくれ、宇宙の「う」、

三月二九日

大人なんかに夕日の何が分かるだろうか? 安全装置みたいにガチガチでコンクリートみたいにコチコチ。おれにはもう家がない。

タハール・ベン・ジェルーン『気狂いモハ、賢人モハ』(澤田直・訳 現代企画室)

午前十一時四一分。紅茶、チンした昨日の混ぜご飯。いくら寝ても寝たりない感がこのごろ強いね。皿皿皿血血血、倦怠。最近の新聞一面は紅麹ばかりだ。ネタニヤフはもう狂人だ。眼をみればわかる。世界は愚物と狂人とガキばかり。嫌になっちゃうわ。このごろ酒を飲むたびいつもなぜか身近にある岩波文庫の与謝野晶子歌集を開く。啄木の歌は娑婆苦と自己愛が端々に染みわたっているので俺にはどうも生々し過ぎる。耽美志向の強い晶子の方が却って接近しやすい。

切崖のうへとしたとに男居てもの云ひかはす夕月夜かな

流星の道

というのにひと目惚れした。

母に似ず地獄と云へるところをば幻にだに見も知らぬ人

瑠璃光

は何度口に出して読んでみてもよく分からない。学が無いせいかも知れない。只ならぬ迫力は感じるんだけど。

おのが身も秋の御空も澄みとほり銀河流るる涙流るる

太陽と薔薇

は、最後の「るる」の重ね着にやや「臭み」を感じないでもないけど、「生の悲しみ」の表現としては端的で雄大、美しい。俺もいちおう歌人なんだけど人様に見せるようなものはまだ作れていない。なら名乗るな。お前はなんでも自称だからな。自称俳人、自称作家、自称書評家、自称エッセイスト、自称翻訳家、自称哲学者、自称社会学者、自称イラストレーター、自称革命家、自称プロニート、自称人間。

貞包英之『消費社会を問いなおす』(筑摩書房)を読む。
まあまあよかった。勉強になった。もちろん「消費社会」をやみくもに否定するバカ本ではない。だからといってそのまま肯定するバカ本でもない。「資本主義社会」は基本的に生産過剰になりがちで、だからそれに見合うだけの購買者をつねに必要としている。価格を下げるとか、外部の市場を開拓するとか、かつてヘンリー・フォードがやったように従業員の賃金を上げて彼彼女らをも消費者にするとか、企業はさまざまな努力をしてきたし今もしている。その構成員がどんなキレイゴトをほざいていも、企業は原則として利潤を最大化するよう運命付けられている経営体である。とにかく売らねばならないのだ。どんなに「不必要」なものでも買ってもらわねばならない。「記号価値」を持つ商品が流通するに至ったのは、消費社会が「成熟」し過ぎたからである。「使用価値」を表示するだけではもはや商品は売れない。こんにちに消費者のほとんどは、自覚の有る無しにかかわらず、ある商品を所有することで自分が何者であるかを示そうとしたがる消費者である。かつてソーンスタイン・ウェブレンはそういう財力を誇示するための消費を衒示的消費(conspicuous consumption)と呼んだ。安くて乗り心地がよく壊れにくい車なんて日本ではどこでも手に入るのに「成功者」はとりあえずジャガーとかフェラーリとかに乗っている(という何かしらの「イメージ」が既に共有されている)。シャネルとかグッチといったブランド品も「私の尊厳」を勝手に示してくれる(ような気がする)。じゃあ財力が無い人々はどうすればいいのか。そこで「個性」というのが出てくる。聴いている音楽や読んでいる本やカバンにぶら下げているヌイグルミや「推し」のアイドルや好みのスイーツなどによって「自分の個性」をまわりに表示する人々が出てくる。
本書によれば近年の消費社会の傾向として、ブランド品と100円均一商品の「共存」が挙げられるという。100均ストアと聞くと小汚い貧乏人が群がっているそんな印象を抱く人もあるかもしれないが、そんなことはない。100均ストアは「賢い買い物ができる私」という自意識満々の消費者にとってもはや欠かせない場所になっている。ブランド品を身につけた「貴婦人」が100均ストアをうろうろしていても、だから少しも不思議ではない。俺はこのまえダイソーの駐車場でメルセデスの「高級車」を見たけどべつだん驚かなかったよ。もうそんなこと日常茶飯事だから。
本書では、マイバッグといった「エコ商品」についてもいろいろ語られていた。そうした商品の使用は「エシカル消費者」としての自己愛を得られる点では有益といえるが、「地球環境問題」に対してそうした個々人の「意識的消費」がどのていど「有効」なのか、私も疑問を抱いている。私は国連による「持続可能な開発目標(SDGs)」には好意的になれない。「人間文明」は非暴力的・非強権的なかたちで「漸次消滅」を選ぶべきだと考えているから(それが「知性」の証明だ、とも)。地上から「苦痛」を無くすための「近道」は、苦痛を感じうる生物主体をこれいじょう生み出さないようにすることだ。そしていま生きている生物がこれいじょう苦しまない社会環境を作り出すことだ。だから、「だれひとり取り残さない」(No one will be left behind)というスローガンに対しては「共感」することが出来る。
そういえば著者はベーシックインカムの可能性についてかなり積極的に書いていた。誰もが消費者として生きざるを得ず、その消費の仕方によって尊厳を支えざるを得ない以上、そうした「再分配」は必要不可欠のように思われる。だいたい「食うために働く」なんてのは悲惨以外の何ものでもない(このことを理解していない人間が多すぎる)。まずは「食えなくなること」への不安を一掃し、誰もが一定の「消費活動」によって基本的自尊心を保てる社会をつくること。そして静かに人間は地上から「退場」すればいい。

もうそろそろ三時じゃん。よし昼飯だ。きょうは文圃閣行くぞ。6000円下ろそう。眼精疲労が深刻だ。まじ。

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