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流しながら生きる

何かと流すようにしている。

流すことと言えば「流し」がある。今風の言葉ではないので、少し付け足すと、台所のシンクのことである。

私は流しの排水溝を掃除するのが嫌いだ。数週間放置すれば、ぬめって臭いを放ち、流れがよどむからだ。一度よどむと、次の排水が行き場をなくして、逆流する。ネットの中にあった食べ物のカスまで逆流してきて大変だ。

しょうがないから重い腰を上げて、
ぬめった排水溝の蓋をはずし、ネットがかけられた丸いゴミ受けバスケットをはずす。そのさらに奥には、下水道へと繋がるパイプに、ゴミが流れ込まないように調整するための内蓋があるので、これを反時計回りに回してはずす。

はずしたパーツを、スポンジでゴシゴシ洗う。細かいところは、使い古した歯ブラシの毛先を差し込んで丁寧に洗う。すると、あっという間に見違えるほどキレイになる。

排水溝掃除をしていて、ふと思う。掃除をしてやらないとどんどん汚れていく無機物と違って、人間はすごいなぁ、と。
人間の身体は、口から取り入れたものを分解し、栄養素と不要なものに分けて、吸収と排出ができる。細胞たちのおかげだ。身体は、自動清掃装置なのだ。

でも、私たちが、取り入れるのは口からだけではない。日々自分の周りで巻き起こる事象に触れるたびに、全感覚神経を通じて、意識的あるいは無意識に感じる「感情の洪水」をも取り込んでいる。身体が持っている自動清掃機能は、心にもあるのだろうか。

あるような、ないような気がする。すっかり忘れられる時もあれば、ずっしり心に溜まることもある。身体に比べると、手動の清掃も必要そうだ。「そろそろ溜まってきているぞーー」という心のアラートに気がついたら、自らが心の洗濯ならぬ、心の清掃をしてあげて、流してやることだ。でないと、そのうち汚れっちまって、流れなくなってしまう。

-おわり-


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