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四谷怪談は実話だった!?前編

今回は、太字と細字で発言者を分けています。
キュイ 太文字が発言内容
な お 細文字が発言内容

昨日は“幽霊の日”だったから、『東海道四谷怪談』の映画を観たんだ。あれって、元禄時代にあった実際の事件がモデルなんでしょ?怖いよね~。
 

いや、違うキュイよ。元禄の一つ前の貞享のころに、モデルとなるなんらかの事件が四谷界隈で起きていたのかもしれないキュイが、実際の事件だったと確かに言える証拠はないキュイ。
 

えっ、そうなの?だって、幕府の公式文書の中にも、四谷怪談とまったく同じ話が記録されてたんでしょ。たしか、町年寄の孫右衛門と茂八郎という人物が、1827年(文政10年)に幕府に提出した『於岩稲荷由来書上』という調査報告書だったような。この文書は国会図書館に所蔵されているんじゃなかったけ。
 

すごい!詳しいキュイね。そうそう、『於岩稲荷由来書上(以下書上)』は、各町に古来から伝わっている逸話や地誌について江戸幕府に報告するために書かれた『文政町方書上』という書の中の『四谷町方書上』編の付録なんだキュイ。
 

そう、それ!四谷左門町に田宮伊右エ門(31歳)と妻の岩(24歳)が住んでいた、って記されてるんでしょ?伊右エ門は婿養子の身でありながら上役の娘と重婚をして子供をもうけてしまい、そのことを知ったお岩は狂死してしまう。やがてお岩の祟りによって、伊右エ門の関係者は次々と死んでいき、最終的には18人もの人々が悲惨な最期を遂げた、と書いてあったはず。

これってまさに、四谷怪談じゃん!
 

確かにその話だけだと、『書上』が原典になったんだと思えるけど、実は『書上』が書かれたのは『東海道四谷怪談』の初演の2年後なんだキュイよ。
 

え~、そうだとしたら順序が逆じゃん。じゃあ、なんで公文書にそんな話が書かれてるの?

歌舞伎狂言を実話だと役人が勘違いして書いちゃったワケ?
 

う~ん、一説によると、作者の鶴屋南北が自分の歌舞伎を宣伝するため、袖の下か何かで役人に書かせたんじゃないかと言われてるキュイ。
 

じゃあ、全部つくり話なの?いや、でも確かほかにも四谷怪談に関する文献があったはず。え~っと、山東京伝が編纂した『絵本東土産』と、『なんとかなんとか今怪談』。
 

『模文画今怪談』キュイね。『書上』とほぼ同じ内容の話が書かれてるけど、『東海道四谷怪談』よりも『絵本東土産』よりも刊行は早いキュイ。ただし、『模文画今怪談』には、お岩という名前が出てきていないキュイ。
 

じゃあ、とりあえず全部がつくり話なわけじゃなく、先行文献からかなりの部分を引用してるんだね。お岩の名前がないということは、それは鶴屋南北の創作かな。
 

ううん。多分、お岩の名前は創作じゃないキュイ。最も古いと思われる文献は『四谷雑談』で、それにはすでに、お岩という名が書かれていたキュイ。夫は伊右衛門でイケメンだキュイ。

刊行は1727(享保12)、『東海道四谷怪談』が上演される約100年も前に、話の骨子はすでに成立してたということキュイ。
 

おっ、お岩と伊右衛門いた!その『四谷雑談』には、歴史的事実と一致してる記述はないの?
 

それが、あるんだキュイ。徳川幕府の正史である『徳川実紀』や『御当代記』、『元禄世間咄風聞記』、『甘露叢』といった文献に記されている、1694年(元禄7年)に起きた「多田三十郎事件」という騒動が、『四谷雑談』にも出てくるキュイ。

史実の方は、こういう内容キュイ。

当時旗本だった多田三十郎という者が仲間と共に吉原に遊びに行き、そこで喧嘩を起こしたあげくに斬り殺されてしまうキュイ。 喧嘩の果てに無名の武士に殺されてしまった多田の体たらくは言うに及ばず、一緒に吉原に行っていながら、多田の仇を取らずに逃げた与力2名も、武士の恥として打ち首に処されたキュイ。この与力の一人の名が伊藤喜兵衛キュイ。
 

あっ、喜兵衛!!お岩の殺害を画策したヤツ!喜兵衛も、やっぱりいたんだぁ。『四谷雑談』では、喜兵衛はどんな話になってるの?
 

隣家に住んでいる、お岩の入り婿・田宮伊右衛門の上司キュイ。妾をふたりも囲ってて、伊右衛門をいいように使っていたが、生まれつき醜い顔の(ついでに性格も悪い)お岩が妻ならば、自分の妾に手を出すんじゃないかと邪推して、妾のひとりお琴にハニートラップをしかけさせるキュイ。

妻と上司に義理立てしていた伊右衛門だったが、次第にお琴に魅かれていき、お琴もまんざらでない感じになってくキュイ。そんな頃、喜兵衛はお花を懐妊させていたことを知り、彼女が邪魔になるキュイ。

喜兵衛はお花を伊右衛門に押しつけることを企て、伊右衛門は家に帰らなくなり、お岩に冷たい仕打ちをするようになるキュイ。そして、喜兵衛はお岩を心配するふりをして、うまいこと伊右衛門とお岩を離縁させるキュイ。

離縁後は奉公に出ていたお岩だが、自分が謀られたことを知ると、発狂しながらどこかへ走り去って行方不明になってしまったキュイ。

その後、お琴と子供をもうけ幸せに暮らしていた伊右衛門の家と、伊藤家には次々と奇怪なことが起こるようになり、伊右衛門方は7人、喜兵衛方は3人お岩にとり殺されて、その後家は長い間断絶するようになったキュイ。
 
ゲッ!こっちも、かなりきつい話だね。やっぱり喜兵衛、悪いやっちゃな。お岩さんは、美人でなく醜女で、性格も悪いんだ。でも、どこが史実と一致してるん?
 
物語のなかで喜兵衛は養子をもらってて、その養子が2代目喜兵衛を名乗ってるキュイ。この2代目喜兵衛が、「多田三十郎事件」の喜兵衛の役を演じてるんだキュイ。

遊び仲間の多田三十郎たちと吉原に一緒に行ったんだが、三十郎が別行動中に(偶然会った別の悪友と金銭トラブルを起こして)斬殺されたのを知り、とばっちりを受けたくなくて逃げ帰るキュイ。これがバレて、喜兵衛はお家取り潰しのうえ、牢屋にて首を斬られたキュイ。南無~。
 

ふむ。多田三十郎事件の喜兵衛が本当に2代目なら、お岩さんたちがいたのは1694年(元禄7年)よりも前になるわけだ。

なんか家系図みたいな、だれが何年頃いたかがわかる資料ってないの?

……あっ!お岩さんを祀ってる神社があったはず。新宿区左門町にある「於岩稲荷田宮神社」だ!この神社を代々守っている田宮家は、お岩さんの子孫。現代の当主は、田宮家第11代目だったけ。

よく気づいたキュイ!実は、田宮家の菩提寺である妙行寺(豊島区西巣鴨)に、お岩のことを記した田宮家の過去帳があるキュイ。

それによれば、お岩は田宮家2代目の田宮伊右衛門の妻で、1636329日(寛永13222日)に死亡したとされてるキュイ。お岩の名が書かれている過去帳の写真の実物は、『幽霊の本』(学研、1999)などに掲載されていて、確かに得証妙念と記された下に、「於岩田宮氏」という注釈が書き加えられていることが確認できるキュイ。
 

おお!あ~、じゃあやっぱりお岩さんは実在してたんだ。夫の名前も伊右衛門だし、亡くなったのが1636年なら『四谷雑談』の刊行より前になるので、つじつまが合う。


それに、お岩の墓がこの妙行寺にあって、墓石には「得証院妙念日正大姉塔」と、お岩の法名が彫られているキュイ。石でできた五輪の塔の立派なお墓だキュイよ。

お岩様の墓の立て札が左下に立っている
 妙行寺にあるお岩さんの墓についての説明書き

じゃあ、お岩がいたのは確定だ!お墓が実在し、過去帳が残され、子孫もいるんだから、『東海道四谷怪談』は実際に起きた事件だったんじゃない?

それはどうキュイかな?

                 中編へ続く

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