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四谷怪談は実話だった!?後編

今回は、太字と細字で発言者を分けています。
キュイ 太文字が発言内容
な お 細文字が発言内容

どう?山浦家が田宮を名乗った説、信ぴょう性が出てきたキュイ?

於岩稲荷田宮神社の当主は現在11代目。江戸時代から続いている他の名家を調べると、田宮家は現在18代目ほどになっていないと、年代が合わないそうキュイ。

また、田宮家は本当は5代目で途絶えていたのではないかと、妙行寺の住職に取材をして、「入り婿が後妻をもらったので血筋が途絶えていると言えば、途絶えている。一度没落はしたが、田宮家は檀家として、家は続いている」という回答をもらったホラー漫画家がいるキュイよ。

なお、田宮家の墓は文化年間(18041818)のものが古い方で、あとはのちに立て直されたのか比較的新しいようだキュイ。お岩さんの墓とされているのは近世に建て替えられたもので、オリジナルではないようキュイ。


つまり、初代から5代目までの墓というのは現在の田宮家にはないってことか。文化年間というと『書上』が書かれた1827年と近いし、山浦家=田宮説はいよいよ濃厚になってきたな。

現在あるお岩さんの墓は、江戸時代の人が考えていた“2代目の妻がお岩さん”というのを受けて、後世建てたんだ。だから戒名が彫ってあるし、中には遺骨が入っていない!

ちなみに田宮家には、お岩さんに関するまったく別の説話が残ってるキュイ。田宮家に残る言い伝えでは、お岩は実は貞女の鑑であり、田宮家中興の祖ということになってるキュイ。

あらすじはこうキュイ。

伊右エ門とお岩は仲睦まじい夫婦であったが、2人で暮らしていけないほどお金に窮していた。そのため、ある日2人で話し合いをし、一時的に夫婦別れをして、互い別々のお屋敷に奉公に出ることにした。 お岩は奉公先の家の庭にあったお稲荷に向かって、「1日も早くまた夫婦で暮らせますように」と毎日願を掛けては、大変熱心に働き、また2人で住む日のためにこつこつと蓄財に励む。
その一途な姿が奉公先の主人に認められて、伊右エ門が呼ばれて御手先組へと取り立てられ、夫婦して組屋敷に住めるようになった。めでたし、めでたし。

お岩は、これは毎日祈願した稲荷大明神の霊験であると考え、奉公先の家から自分の家の庭に稲荷を勧請して祀り、それが今に残る「於岩稲荷」となったそうな。
田宮系家の言い伝えを元に説明する
於岩稲荷田宮神社の看板

いい話。でも、もしもこれが実話だとしたら、 『
四谷雑談』のお岩の話は創作になるね。『四谷雑談』は、「多田三十郎事件」など歴史的事実を反映している部分もあるから、すべてが作り話ではないだろうけど、今で言うところの『実録小説』なんだろうな。話にリアリティを持たせるために、当時話題になっていた事件や、わざと詳しい日時を載せたり工夫したんだと思うよ。

『東海道四谷怪談』が実話かどうかは『四谷雑談』がどこまで史実を反映しているかにかかってくるけど、まぁ、これもほぼフィクションだろうね。たとえ、田宮家に伝わる話の方がつくり話だったとしても、時代考証的に実話にひっくり返ることはないだろう。

そもそも、祟りなんてねぇ…ないんじゃないかな。

そうキュイね。田宮家が5代目で一度断絶したときの、原因となった事件を元にしたフィクションと考えるのが妥当キュイ。もしかしたら、田宮家ゆかりの女性が失踪した事件とかもあって、それを参考にしたとかなのかもキュイ。

なんにしても、謎が残るなんらかの事件が起きると、後々尾ひれがついた都市伝説になっていくものキュイ。

別件だけど、四谷左門町に於岩稲荷がふたつあるのはなんで?

田宮家が守る於岩稲荷の他に、道を挟んだその正面に、陽運寺というもうひとつの「お岩稲荷」が建ってるよね?お岩さんが浸かった産湯の井戸なんてのもある。そっちもお岩さんを祀ってて、本家争いしたことがあったような?

最近じゃ、両者どちらが本家かということには、お互い一切触れてないっぽいキュイね。

陽運寺がある場所は、江戸時代には御手先鉄砲頭美濃部八蔵組同心桜井欣次郎の屋敷跡に当たってて、お岩さんとは何の関わりもないキュイ。ついでに、陽運寺そのものが昭和になって創建された寺院だキュイ。

於岩稲荷が火事で焼失したため、田宮家9代目が明治13年に、お岩稲荷を京橋の越前堀(中央区新川)に移動させたんだキュイ。

名物のお岩稲荷がなくなってしまって困った地元の有志は「四谷お岩稲荷保存会本部」を左門町23番地に設置して、お岩尊という小祠を建てたのが、お岩稲荷が2つある原因キュイ。

その後、お岩さんのネタを聞きつけて、こりゃ金儲けになりそうだ!と戦後のどさくさに紛れて空き地になっていた左門町18番地に、お岩稲荷を再建したのが今の日蓮宗の陽運寺なんだキュイ。

なるほどね〜。中央区新川に引っ越した於岩稲荷が焼失しちゃって、戦後再び田宮家の屋敷内に戻ってきたから、向かい合うように2つあることになっちゃったんだ。で、新川の神社も再建されたから、お岩稲荷が東京に3か所存在するようになったんだね。

不義密通を働いた伊右衛門をお岩が祟った事から、お岩稲荷は浮気封じに利くと信じられ、花柳界の女性たちが多く訪れたそうキュイ。稲荷への浄財にとどまらず、彼女たちが買って帰る土産で地元の経済が活性化したので、それにあやかろうとしたキュイね。

明治期の新聞には、小川某なる者が、何度ももうひとつのお岩稲荷を作ろうと画策したことが、すでに記事に残されてるキュイ。


へ〜。だからこの陽運寺、ちょっとしたパラダイス寺の様相を呈してるんだね。縁結びや悪縁切りのご利益を掲げていたり、水掛け福寿菩薩もあり、ご利益のデパート状態だもん。

演芸上達や厄除けのご利益もあるよ♪
神仏習合!?
お向かいだから、使わせてもらってたのかな?


男の浮気封じと、悪い男との縁を切りたいという女性の「信心」だけが今に残り、薄幸の女性お岩が、本当は誰だったかのかということは、もはや人々の関心事にはないのかもしれないキュイね。


うん、そうだね。結局、現生利益がみんな欲しいんだな。

そういえば、四谷怪談の制作発表する時に、関係者一同でお参りしないと祟りがある!って逸話も残ってるね。芸能人や歌舞伎役者が、舞台中ケガ人が出ないように、四於岩稲荷田宮神社にお参りするっていうじゃない。

仕掛け舞台や特撮映像の撮影現場は、もともと事故が起きやすいので、もし事故が起きたとして単なる偶然キュイ。それを話題性を持たせるために「祟り」と吹聴したんじゃないかなキュイ。

歌舞伎で上演する際は、役者が安全祈願をするのが伝統化しているようだし、祟りよけのために参拝を始めたわけじゃないと思うキュイよ。

なんにせよお岩さんは、実在していたような居なかったような、まさに幽霊みたいな存在だったね。

上手いこと言うキュイ〜。祟りについても、信じるか信じないかは、アナタ次第キュイ!


 



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