握られたメス

「優しい人は、何もかもを隠したくなる。」
 アイヴィは、ゲイビーに微笑んだ。
 「でもあなたの秘密が、私を私にする。」
 彼女は微笑んでいたのではなく、もともとそういう顔をしていたことを彼は思い出した。
 「僕は普通になりたかった。でも、僕が普通じゃないから世界はまともなのだ。」
 彼は、屋敷に火を放った。そこには、アイヴィが創った「Gに捧ぐ」が聞こえていた。
 
 海軍の水兵ゲイビーは、チップ、オジーとともに24時間の上陸許可を与えられた。ニューヨークでの休暇を満喫しようと街中に繰り出す。地下鉄に乗り込んだ3人は、「ミス地下鉄」としてイベントに出演していたアイヴィ・スミスと遭遇する。
 「私を一人にしないで。」そうつぶやく彼女の姿を、ゲイビーは忘れることができなかった。
 その夜、ダンスパーティーに向かうため3人はタクシー運転手のヒルディー、レセプションのクレアという2人の女性と出会い、チップとオジーがそれぞれヒルディー、クレアと恋に落ちる。5人はエンパイア・ステート・ビルディングの30階に入り、そこに警官たちがやって来る。ある事件の参考人としてアイヴィを探しており、聞き込みに出くわしたのだ。
 ダンスパーティー中にゲイビーはアイヴィのダンスコーチに出会い、アイヴィがコニーアイランドにいることを聞き出す。すぐに彼女の元に向かうが、途中で警察と海軍憲兵隊に発見されてしまう。追跡を振り切ったゲイビーはコニーアイランドでアイヴィと再会し、彼女がショーガールだったことを知るが、ゲイビーは彼女へ想いに気づき、気づいたら伝え終わっていた。
 
 ゲイビーは幼い頃からニューヨークの浮浪者であった。両親の顔を知らず、孤児院で育てられた身。豊かな暮らしを夢見た彼は、ある日海辺で物思いにふけっていたところ、沈みそうになっていた船の持ち主である男キャラウェイを救う。彼はどうやら名のある富豪らしく、ゲイビーは推薦されるがまま水兵になった。
 一方、アイヴィは夢見る少女であった。生まれはジョージア州の農村で、それほど裕福なわけではない。それでも歌手になりたかった彼女は、ブラッディ―ビーナスという曲を作ったのち、家出してニューヨークに向かった。レコード会社に直談判するも相手にしてくれる人はおらず、キャバレーでショーガールとして働き始めた。そこで鉄道会社の重役の目に留まり、キャンペーンガールとしてこれからスターを目指そうとしていた。
 「誰かに見つけてほしい。でも、誰が私に興味を持つというの。だって近くにいたって、まるで何かの景色みたいに映っているわ。フォーカスのあっていない被写体は、どうだっていいの。」
 ゲイビーは、生き別れた母ハニー・チャールストンの面影をふと思い出した。
 「人が人にあうことに、理由はない。もし君が何か手放せない”もの”を所有しているとすれば、それに君が所有されていることに気づいていないだけだ。今日は明日じゃない。」
 
 幾日たって1965,××,××、ゲイビーも水兵中佐としてベトナム戦争に向かうことと相成った。ゲイビーは出発前にアイヴィに会う。
 「僕は、あの日君を見つけた。でも僕には、見つかっていないものが一つ残っています。アイヴィも自分で見つけて。」
 「私も見つけたわ。これで救われる。」
 
 出発してすぐ悪天候に見舞われたため、ゲイビー一行はフォークランド諸島に一次漂着した。この島は、もとよりアルゼンチン、フランスとイギリス、そしてスペインが領有権を争っていた地域であった。そして1833年、イギリスは再びこの島に国旗を掲げることに成功し、現在まではイギリスの支配下におかれる。要は、イギリス領の南アメリカ大陸に浮かぶ島である。
 「アメリカ水兵だ。天候不順で一時停泊させてほしい。」
 「アメリカ。まさかアルゼンチンではないだろうな。いや、お前のその面はアイリッシュか。」
 「我は米水兵ゲイビーだ。ゲイビー・ジャック・チャールストン。」
 「なに、今なんと。この地を知っての訪れか。」
 「どういう意味だ。」
 ゲイビーはフォークランドについて間もなく、「メス(、、)のような短剣」を渡された。
 「これを見て、何か思わないか。己の血を知りたいと思うか。」
 ついていくと、そこは森の中の屋敷であった。「SINNER」と刻まれた石碑には、その横にアイルランド国旗とハニー・チャールストン、そしてJTRと刻まれていた。
 「本土でジャックは気安く名前を言えぬ人であるが、ここではたくさんの命を救ったお方なのだ。あなた様は、ジャックの子ハニー・チャールストンの息子なのだ。」
 
 アイヴィは、ゲイビーの帰りを待っていた。だが、気になることが一つ、ゲイビーは何を探しているのだろうか。そして、彼女はゲイビーの出生やこれまでの人生について知りたくなり、友人水兵の2人を尋ねた。
 「あいつは、ギネスビールが好きだ。よくわからないけど、アイヴィのことを”Galway Girl”って呼んでいた。」「そうだ。わけを聞いたら、生き別れた母の言葉で覚えているだけだといっていたがな。」
 「ゲイビーは養子らしくて、母の形見だというこの本は俺らが預かっているよ。」
 そういわれて渡された本は、カトリックの聖書だった。表紙の裏には「Éire(エール)Slán(スローン) ハニー・チャールストン」、裏表紙には「反クロムウェルのガリバー旅行記、いや、ロビンソン・クルーソー JTR」とあった。
 一年後あまり経ち、アイヴィにオペラの出演依頼が来た。演目はリヒャルト・シュトラウス作「サロメ」、言わずと知れたオスカーワイルドの戯曲である。劇中に出てくる「7つのヴェールの踊り」は1枚1枚サロメが服を脱いでいき、ヘロデ王の歓心を買うための、一種の煽情的ダンスとして知られる。その褒美としてサロメはどんな宝物よりも預言者ヨカナーン(イエス・キリストに洗礼をした聖者)の首を所望し、ついにはその生首にキスをする。最後は、恐怖したヘロデ王の命令で殺されて幕となるのだ。ラストシーンでは、サロメはヘロデ王の命令で衛兵たちに殺される前に、自らの手でナイフをわが身に突き刺し、ヨカナーンの首の傍らに、あたかもヨカナーンがまだ生きているかのようにマントを広げた横に、倒れ込む。サロメは一対一の対等な女と男として、ヨカナーンと触れ合いたかっただけだった。欲望は人類にとって最大の敵かもしれない。だが聖書はこう言っている、「汝の敵を愛せよ。」
 上演初日、アイヴィは半身をサロメに捧げながらゲイビーの言葉を思い出した。
「ときより、首を裂きたいという欲動が芽生える。実母の姿をみてしまう。私は何か大事な部分が欠けているのだろうか。」と。
 オペラ終焉後、チップとオジーがアイヴィのもとを訪れた。
 「ゲイビーはベトナムに行かずに、フォークランドという島にいると手紙が来た。それと一緒に、愚行、SINNER.JTRという言葉も添えて。俺達には、意味がわからない。何か知っているか。」
 アイヴィは、足早にフォークランドへ向かい、船アルゴーに乗った。
 
 ゲイビーは天候が向上しても水兵たちの船に戻らず、島に留まって生活をつづけた。日々短剣を形見離さず、寝るときもすぐそばに置いた。思い出すのは、母の記憶。思いふけるのは、母の父の存在。女性の首を切り裂いたサイコキラーJTRことジャック・ザ・リッパーである。自分の首元に短剣を近づけると、何もかも忘れられるような恍惚に呑まれそうだった。そこで沈黙を破ったのは、メスのような短剣であった。なぜ自分の血縁者は、女性の首を裂くことに執拗に取りつかれていたのか。そして、それが自分にあるか。
 「私のサロメは、愛する人の首にヴェールを付けて最後の時を過ごしたわ。狂わしいほどある人を信じるものの憎しみは、自分を一人にしないでほしいという熱情に代わっていくものなのね。」とアイヴィは言った。
 ジャック・ザ・リッパーは、アイルランドに生まれた。当時、凶作に苦しんでいた上に、望まれない妊娠でありシングルマザーの貧しい家庭に育った。それでも、母は強くジャックを愛し、どうにか学校に通わせていた。そんな母の暮らしを楽にしたいと考えた彼は、寄宿学校で奨学金を得、医学部へ進学する。その一方、自立する息子に対して息子がすべてだった母は、息子離れができずにアルコールでその穴を埋めるようになっていった。やせこけ、まともな会話も難しくなっていった母に、自分は何を間違ったのだと激しく悩む。外科医になった彼には精神病の治療を施す手立てがなく、自分の病院に入院させるも拒否され逃走されてしまう。
 自分の母の奇行が病院に知れ渡ることになり、彼は職場を追われることになる。何もかも失い絶望した彼は、母のみならず母に似通った特徴の女性を手にかけて、雲隠れしようと考えた。正気を失くしていたなかで、彼は単純に首を切り裂く殺害法を取った。これは、瞬時に命を奪うためであり、もう母の声を聴きたくないという思いの現れであった。殺害された中には、彼の隠し子の母親もいた。自分の母に刺激を与えないために、パートナーの存在を他の人から隠していたのである。これが紛れもなく、ハニー・チャールストンであった。
 「あなたは私が見つけたの。私は何も知らない。」
 屋敷に火を放った二人は、海に飛び込んだ。来ている洋服を短剣でさき、海に浮かんで近くの島に漂着した。帰還する水兵軍艦に拾われたゲイビーは、アイヴィに支えられ衛生兵として再出発することを決意した。



『踊る大紐育』(1949)のプロットや登場人物をもとに、ギリシャ神話他のエッセンスを加えて構想。

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