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「ゆらめき」

 「光車よ、まわれ!」
天沢退二郎、筑摩書房

 子どもの頃、鞄を横掛けにして、走って物乞いに来る人がいた。母が枡に米をはかり、鞄の中にあけてやると、敬礼をしてまたどこかへ走り去っていくのだった。引きしまった顔で鮮やかに敬礼する姿と、無駄なことを言わず米を入れてやる母の姿とが、ひとつの絵のように眼に焼き付いている。「あの人はだれ?」母にそう尋ねた事があったかもしれない。だが、詳しいことは忘れてしまった。もうひとり、物乞いに来る人がいて、彼は縁側に座り込んでは、大人たちに話しかけていた。日に焼けて無精ひげをはやした人だった。その人の口から出る言葉は、流暢だけれど辻褄があっていなかった。大人たちが適当に相づちを打っているのが、子どもの私にもよくわかった。彼は川のそばに掘っ立て小屋を作って住んでいた。食べ物より着るものを乞うので、お古のコートやセーターを渡すと、自転車の荷台にくくりつけて帰って行くのだった。
 社会から少しはみだしたその人たちを、いやだと思ったことはない。それどころか、訪ねてくると、つまらない一日が華やぐ気がした。あやしさとゆらめきをまとったその人たちは、「あちら」と「こちら」が交じり合う「夕暮れの街」に住んでいて、自由に行き来していた。彼らが運んで来る夕暮れの気配を、私は嫌いではなかった。
 天沢退二郎の本を読んだ時、真っ先に思い出したのは、夕闇のむこうから漂ってくるような怪しさだった。
子どもの頃、夕暮れを境に、見知った場所は、まったく違う世界になった。「早く帰らないと人さらいが来るよ。遠くに売られてしまうよ」その言葉を裏づけるように、風は湿り、心細い犬の声を運んできた。みるまに光の世界と闇の世界が交代する。夢中になって遊んでいても、気ぜわしくさよならを交わして別れた。
物語の中には、あの時と似た緊張感が、ずっと漂っている。気を張り詰めているときに、何かが床に落ちただけで、びくっと震え上がってしまうように、行間から漂う不気味さに体も心も預けて本を読んでいるうちに、何気ない言葉でイメージを喚起されている。
 ある雨の日だった。主人公の少年、一郎は異様な光景を見る。真っ黒なぬるぬるしたものに身をくるみ、頭巾をかぶった化け物が教室に入ってきたのだ。ぎょっとして立ち上がる一郎だったが、次の瞬間、その化け物たちは、同級生の姿に戻っていた。見えないものが見えたことで、一郎は事件に巻き込まれてゆく。仲間になった龍子、ルミ、トミー、さっちゃんたちと共に、一郎は「死の国の王」と呼ばれる敵と対峙することになる。水を武器にして迫ってくる敵は、水たまりや池、排水溝の底にある反対側の世界の住人だった。「光車」と呼ばれる光の輪をみっつ集めると、敵をやっつけることができる。一郎たちは地霊文字と呼ばれる不思議な文字に助けられながら、輪を探す冒険に繰り出していく。
物語の最後、「死の国の王」の正体がわかる。なんとそれは、一郎たちを助けていた龍子の祖父だった。いや、正確に言うと祖父の心に住む悪の分身だった。作者は、人の心の闇と光を見据えて物語を書いている。
 光と影、生と死、善と悪。背中合わせに存在するこれら二つの世界は、相手を打ち負かそうと、絶えずゆらめいているのだろう。その中で、私たち自身もまた、やじろべえのように、バランスを取ろうとゆらめいている。


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