信じることへの回帰|「引き寄せの法則」研究所

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これまで二十回に渡って、「引き寄せの法則」について現実的な解釈の可能性を探ってきました。

なぜそのようなことをしたかと言えば、「神」や「宇宙」などを用いたようなスピリチュアルな説明では、ただ「それを信じるかどうか」という問題でしかなくなり、そこにあるパワーを有効に使える人が非常に少なくなってしまうだろうと考えたからです。


けれども、考察を重ねてきたことで、もう一度、「信じる」ということに問題が帰ってきたように思います。

その点について記し、一連の記事の結びとします。


これまで見たとおり、「引き寄せの法則」は積極的な精神的態度を培うことを目的としているものと考えることができます。

それは例えば、「悪いようにはならない」「問題が起きても打開策はどこかにある」というような心的態度であり、そのような態度が自分自身や周囲に影響し、成功の確率を上げてくれることになります。

重要なのは、その態度自体が一種の信仰だと言える点です。


例えば、ただ論理的に考えるだけならば、朝起きても「ベッドから出るかどうか」という問題について、延々と考察を巡らすことになるでしょう。

起きて活動すれば、大きくエネルギーを消費することになり、また寝ているよりは危険な場面も多いことになります。


そのため、そもそも起きるべきなのか、いつ活動を始めると良いのか、最適なスタート地点がどこなのかを計算するためには、多大な労力と時間とが必要になる筈です。

つまり、「いつまでも寝ていられない」「何か活動をしたい」という感情の動きがなければ、何も行動を起こせないということです。


情動に従って行動に出るとき、そこには必ず「大きな危険は起こらないだろう」「何とかなるだろう」という思いがあることになります。

どんな生活も、何らかの重大な危機が生じる確率は少なくともいくらかは存在するにも拘らず、平然と行われています。


このことは、人間がつねに何かを信じつつ生きているということを意味しています。

生きるということは、いつでも不安を振り払いながらなされる「一個の決心」として行われているということです。


つまり言ってみれば、人間は信仰なしでは生きられないのです。

そこにある信仰は、必ずしも「神」と結び付けられる必要はありません。


生きるのを支えるために、ただ「きっと生きられるだろう」と信じることが不可欠だという話です。

おそらくそれが宗教的な意味における「信仰」の、原初的な姿です。


つまり、まずもって信じることが必要であって、そこから「神」が生み出されたということです。

神がどういう存在で、一人なのか複数なのかなどについては、単に物語のバリエーションの問題でしかありません。


人間はいつでも、何らかの活動から得られる果実とその活動から生じる危険性とのバランスの中で生きています。

我々はつねに、すでに生きているのであって、同時に、そのことを肯定しなければ生きていられない訳です。


科学は「神」を殺しましたが、その源泉である「生を信じる」ということまでは殺せなかったようです。


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