GUNDOG リプレイ

GUNDOG SPECIAL MISSION

今宵離別後、何日君再来・・・

『何日君再来』

 

今宵別れたその後は、いつの日かまた君来たる・・・

 

PERSONAL FILE 1.

氏名…アシュレイ(おそらく偽名・本名不明) コードネーム〈神父〉 

国籍…不明 性別…男性 年齢…不明 血液型…A+

 メキシコ、エルトロス在住。同市サンクリストボカ区、サン・ロケ教会の神父にして、同教会付属孤児院院長。

 傭兵歴あり。アフリカを主戦場にスナイパーとしていくつかの記録に当人と思しき戦歴を残すも、詳細は不明。また、孤児院院長となった詳細な経緯も不明。

 

 …現在、未確認ながらも同市において「スイーパー」として活動中と思われる。

 

PERSONAL FILE 2.

氏名…ルーイ・クアーズ  

国籍…アメリカ合衆国(ドイツ系) 性別…男性 年齢…24歳 血液型…B+

 メキシコ、エルトロス在住。当社南米支社専属ガンドッグチームの創立メンバーの一員。アルファ・チーム爆発物担当。

 合衆国内にて違法に爆発物製造に携わるものの逮捕歴は無し。その技能を活かし傭兵に転身、アジア圏などで活動。当社ガンドッグチームリーダー、ベック・リチャードのスカウトに応じチームに。

 

PERSONAL FILE 3.

氏名…リュウスケ・ナルカミ(鳴神 竜介) コードネーム〈ロボ〉

国籍…日本 性別…男性 年齢…32歳 血液型…B+

エルトロス在住か?当社セキュリティ・コンサルタントにして、「AEGIS」エグゼクティブ・エージェント。「AEGIS」及び被述者の詳細な記録の閲覧に際してはエグゼクティブクラス・アクセス権限の提示を求む………。

 

以上。アオイ社長秘書室所管、保安関連人事データによる。

なお、本データは部外秘。閲覧には社長より発行される許可証を提示すること。社長室もしくは秘書室外への本資料の持ち出し及び複写は、厳にこれを禁ず…。

 

 

 

プロローグ 『東京日和 -TOKYO DAYS-』

2016年、冬。 犬たちはトーキョーの夜を見つめていた…。

 

孤児院にて -アシュレイ-

 始まりを告げたのは、久々の再会を果たした戦友からの一本の電話だった。

「仕事をひとつ、頼まれてはくれないか?」

 呼び出されたのは真昼。エルトロス市でももっとも瀟酒な店の建ち並ぶレティーロ区にあるバー、「フルムーン」。酒ではなく、ランチを目当てに集うスーツ姿のビジネスマン達の間で、戦友・ベック・リチャードはそう口火を切りつつ、1枚のエアチケットを差し出した。

 行く先は、日本。

 それはアシュレイにとって、己が向かわねばならないような、そんな仕事ではない筈だった。少なくとも、その時は…。

 

アオイ南米支社、保安部室にて -ルーイ-

 チームの全員が出動した後の部屋は、空虚だ。待機任務はそのまま、波風など立つことなく終わる筈だった。出動していた筈の隊長、ベック・リチャードと、社長秘書アリス・ヤガミの訪問を受けるまでは。

「ミッションの詳細はこちらの書類を。至急、日本に発っていただけます?」

アリスの言葉に頷きで返した。「宮仕えの哀しい宿命…」などとボヤくのは、無論本気ではない。仕え甲斐のある雇い主であるならば、多少の無茶は苦にもならぬ。辛い傭兵経験から見れば、今の境遇は悪くない。口笛と共に、身支度を。

その身軽さがルーイの身上でもあった。

 

エルトロス空港にて –竜介-

「久しぶりの日本でしょ?ゆっくりできるといいね」

「…そうもゆくまいさ。仕事だ」

エルトロス空港。ロードスターを降りた竜介へと、小さなザックを渡すアリスの口調は、2人だけの時のものだった。

「だって、簡単な仕事だって、誉美様が…」

言葉には、ただ黙って微笑んだ。仕事が簡単かそうでないか。決めるのは、取り組む当人以外にない。そして、簡単でなかった場合、そのリスクを負うのも当人だ。

ドライバーズシートのウィンドウから身を乗りだしたアリスとくちづけを交わす。その後は、振り向くことはなかった。

「終わり次第、連絡を入れるよ。心配しなくていい…」

残したのは、肩越しのその言葉ひとつ。上げた瞳は、故国の空へと向いていた…。

 

scene.1

銃猟犬(ガンドッグ)達が夜の成田空港に集う。

日本、冬。メキシコとは異なる、硬質な冷めたさを空気は宿していた。

それぞれのルートで日本に降り立った3人は、この任務がチームとして初の顔合わせといっていい。短く、それぞれがそれぞれの役割を確認する。間違いなく、それはプロとしての意識と自覚が為せるものだった。

与えられた任務は、簡単なものだ。

事件は、「吉田四郎」の4歳になる息子「吉田宏」が誘拐されたことから始まった。要求された身代金は日本円にして3億。無論のこと、警察への通報は禁じられている。人質と身代金の受け渡しは、シンジュク・セントラル・パークで。つまり、午前1時。

身代金は人質の母親「吉田真冬」が運ぶ。

任務は、表立っての護衛が不可能なその母親を隠密裏に護衛しつつ、人質を無事救出すること。

身代金の奪還は任務に含まない。あくまでも母子の安全だけを求める。任務終了時、母子ともに身柄が無事確保された場合にのみ、支払われる成功報酬がチーム各員、1人につき5000ドルだった。

数時間で済む任務の報酬としては悪くない金額だ。だが、人質交換の期日が今夜であり、現場に細工をしておくことはおろか、受け渡し役である人質の母親と打ち合わせをする時間もほとんどない。それを考えると条件は厳しいと言わざるを得ないだろう。

到着ロビーでガンドッグ達は、1人のコーディネーターの出迎えを受けた。

エドワード・。在京球団のキャップをかぶった、気のいい中年という印象の男だった。駄洒落の絶えない口調が胡散臭いが、嘘はない。それは、アリスからの書類が物語っていた。決して、ガンドッグ達を裏切ることはない、と。

成田空港内、ターミナルに隣接する税関ビルに用意されたプライベートスペース。そこで、ワイズマンでもあるアオイの「ガンドッグ郵袋」扱いで送られた、各員の武装を受け取り、チェックする。その後、エドワード・楊の用意したワンボックス・バンへと乗り込んだ。

「事態は、急を要しているね」

車を助手に運転させ、楊は言葉を続ける。そして、その言葉を耳にしながら、男達はバンの狭いスペースの中で武装を整える。

「任務内容と報酬は読んでもらった書類の通りよ。

身代金の引き渡し場所はシンジュク・セントラル・パーク。この地図にポイントAとしてマークしたここ、このベンチね。引き渡しには吉田真冬1人だけが立ち会うことになっているよ。引き渡しの約束時間は午前1時。このバンは、午前0時にはセントラル・パークに到着するね。到着次第、ミッションスタートよ?

さて。手短に質問を受け付けるね」

質問の口火を切ったのは、竜介だった。SIG・SAUER P226の銃把に、ホローポイント弾を詰めたマガジンを叩き込みつつ、問うてゆく。

「人質とその母親についての詳細を頼む」

「吉田真冬は28歳、宏は4歳。3日前の午後1時、幼稚園から帰る途中に連れ去られたらしいね。吉田真冬の夫であり宏の父親、四郎は37歳。彼は『ビッグ・シックス』と呼ばれる、日本をリードする6人の若手政治家の1人よ。現在は、外交視察と称して訪米しているね」

「…『称している』? 

 と、いうことは、実情は違うということですか?」

続く問いは、アシュレイのものだった。楊の一見して陽気な瞳が鋭く光ったように見えたのは、気のせいではない筈だ。

「鋭いね。さすがアオイのガンドッグよ」

そういう前置きの後に、楊は続けた。

「吉田四郎は米国で真冬から連絡を受け、コネを通じてワイズマンの葵誉美と接触をとったらしいね。

ワイズとしては、吉田四郎と合衆国政府が今まさに交渉を進めている『ある条約』に反対するテロリスト、もしくは、現行法より厳重な暴対法を打ち出している吉田四郎に反感を持つ広域暴力団『矢志田組』の2代目組長原田健一郎の関与も考えているようよ」

「なるほどな…。対テロ・対暴力団強硬路線を取る若手政治家の子息誘拐…か」

単なる誘拐か、否か。

裏のない単なる営利誘拐ならば、対応は困難ではない。

そうでないならば。テロリストや暴力団の犯行ならば、武装、動員人数、その練度、全てが半端なものではない可能性がある。この3人で対応しきれる状況なのか。

蓋を開けてみなければわからない不安は、どんなミッションにもつきまとう。しかし、必要以上に神経質になるよりは、飛び込まねばならない瞬間もまた、ある。竜介の言葉にはそういう響きが秘められていた。

「難しく考えてもしょうがない。やるしかねえ。そういうコトだろ?」

ルーイの陽気な口調が、慌ただしく交わされたブリーフィングの締めだった。

 

scene.2

冬の深夜。都心の公園にはまだ、僅かながらも人影がある。ベンチで寄り添う恋人達。帰る家も無いままに凍えるホームレス。

そして。足音はおろか、気配すら絶って木陰と茂みをぬって進む影が、2つ。

カーズウェル消音器を装着したSIGをはじめ、ハンドガン主体の武装の竜介と、サプレッサーを内蔵したサブマシンガン、H&K・MP5SD6を装備したルーイの影だ。

骨伝導無線機からは、2人がRV地点とされているベンチ周辺を『クリア』してゆく報告がアシュレイへともたらされている。時刻は、。RVの刻限まで、30分を切っていた。

「…サブジェクト『M』視認。各員、改めて状況送れ」

日本人女性にしては長身な方だろう。顔立ちは幼さがあるが、すらりとした体躯だった。チャコールグレーのピーコートに、白のタートルネックニット、黒のパンツという出で立ちに、大きなスーツケースを重そうに引いた真冬の姿。それを歩道橋上に認めたアシュレイの囁きが、スニーキングする2人の耳骨を打つ。真冬に与えられた『M』のコードネームは、彼女の頭文字であり、「母親」をも意味していた。

「アルファ・ツーよりアルファ・ワン。RVポイント周辺、クリア」

「アルファ・スリーよりアルファ・ワン。サブジェクト『M』のエスコート異常なし」

アルファ・ツーのサインは竜介。同じくスリーはルーイだ。初めてのチーム編成とは思えない、有機的かつスムーズな連携が実現されていた。少なくとも、今のところは、だ。

ツーはRVポイント周辺を徹底的にスニーキングし、警戒対象の発見に傾注している。スリーは移動するサブジェクトの警護のため、スニーキングし気配を殺しながらも同時に一定の距離を保って移動。警護にあたる。

それらの全体を把握するのがワン、アシュレイの任務だった。スナイパーとして鍛え抜かれた能力。「」を中心にその周辺をくまなく視界におさめる。

しかし、ターゲットを捉える瞳は何も、「抹消」のためだけに力を発揮するものではない。対象を「守護」するためにも、その力は発揮される。それは発想の転換だ。

寒空の中、RVポイントへと到達したサブジェクトを、みっつの鋭い視線が見守り続ける。

やがて、刻限が到来した。

しかし、犯人の姿は現れない。

空気だけでなく、時間までも凍てついたように、真冬は感じているのだろうか。微動だにせずにそのまま経過した時間は、30分。1台のセダンが公園の出口に停められた。

「…素人…ですね」

アシュレイの呟きが、凍てつく闇に身を沈ませた2人の耳骨を微かに打つ。

見るからにチンピラという、4人。これ見よがしに手にしたハンドガンをチラつかせ、怯える幼児の手を乱暴に引く。公園周辺にパトカーの影がないことだけは確認したらしい4人は、周囲を観察することすらしない。己の力を過信するあまりのそれは、無防備さだった。

「…下衆が」

つい、漏らした。そういう呟きが竜介の口をつく。つまずいた幼児の腕を、チンピラ達のリーダーとおぼしき男が、乱暴に引き上げた瞬間だった。

「…抑えて。

…気持ちは…よくわかりますがね」

告げるアシュレイの声もまた、硬い。それを耳にして、ルーイのみが黙したまま口元に苦笑を刷いた。

どこまでも冷静で経験豊富そうに見える2人が、実はかなりの熱情家だと、ルーイは早々に見抜いていた。

(ベック隊長と同じ人種…か。情にモロくて義に篤い…ね。やれやれ、似た者同士で魅かれあうってのは、ホントだな)

それは、己も『同類』と婉曲に認める感慨だった…。

 

scene.3

ミッションは、無事遂行された。宏も真冬も、ケガひとつない。ただ、幼児の心に残されたに違いない、見えない傷だけが心に掛かる。しかし、それをどうにかしてゆくのは、両親の仕事の筈だった。護衛対象と顔を会わせることすらなく、任務を無事完遂した銃猟犬達の出番では、ない。

日本の有力政治家から頼られた葵財閥の当主は、これで有能な政治家へのパイプを太くしただろう。

同じく、中年の中国系コーディネーターも日本での株を上げたに違いない。

そして、ガンドッグ達には5000ドルという報酬が渡された。

それで、この仕事は終わりとなる筈だった。

エドワード・楊の胡散臭く押し出しの強い口調に、チームのメンバーがいつになく流されて、「カグラザカ・スロープのリョウテイでゲイシャをあげてのエンカイ」とやらに出るハメになったのは、竜介にしてもアシュレイにしても、何かしらの予感めいたものがあったのかもしれない。ただ、ルーイだけが素直にことの推移を楽しんでいた。

楊が招いたゲイシャには、主催者同様に胡散臭いものがあったが、竜介は敢えて何も口にはしなかった。出された料理が間違いなく、日本料理の粋を尽くしたものだったからだ。

やがて、宴もたけなわとなった頃。無粋な携帯電話の着信に、楊が中座して立ち上がる。

申しあわせたように、アシュレイと竜介は視線を交わした。

偶然ではない。そういう確信が2人の眼にはある。

もっとも、必然たりえない偶然はない。

感じていた予感が、姿を現した。ただ、それだけのことに過ぎない。仕事はまだ、終わっていない。それは、すぐに証明されることになる。ほどなく戻った楊の口から告げられた次の戦場は、台湾。

 

 

ブリーフィング 『姉妹花』

2016年、冬。 犬達は季節の名前をした女と再び出逢った…。

 

scene.1

翌朝、成田空港。犬達は発の台北行きに搭乗するための手続きを済ませていた。ガンドッグ郵袋で武装を今度は台北中正国際機場こと、台北国際空港へと輸送する。

「たった1日。だけど、いい仕事だったね。キミタチとならば是非また組みたいよ」

その台詞が、不思議と胡散臭く聞こえない。エドワード・楊はそんな言葉と共に封筒を差し出した。

「台北まで、4時間のフライトね。これ、読むといい。資料ね。これを書いたデニス・フィルビーが、コーディネーターとしてキミタチを出迎えるよ。

それじゃあ…! !!」

最後はやはり、胡散臭い。ルーイの苦笑が、日本に残した最後のものだ。そして犬達はゲートをくぐる。それぞれが、「デニス・フィルビーの手記」を手にして…。

 

 

台湾独立紛争について

マック・&・アソシエーツ社

デニス・フィルビー

2015〜16年

短く、そして、あまりにも無意味な戦争は、たった1年間で唐突に終わった。

 

2015年 春

相次ぐ大陸政府の人民軍過激派によるクーデターに乗じて、米国の指導のもと独立宣言を行った中華民国(台湾政府)だったが、その直後に中華人民共和国(大陸政府)は宣戦を布告し、人民軍のお家芸ともいえる大兵力攻勢によって、瞬く間に首都・台北を占拠する。しかし、大陸政府には大軍を維持し、大兵力を台湾全土に展開するほどの資金がなく、台湾政府には資金はあっても大軍を押し返すほどの兵士がいない。戦線は膠着する。

 

2015年 秋

秋が来て、“”と“”たちが「おいしいエサ」を求めて戦場をうろつき始める。

思い出してみてくれ。子供の童話に繰り返し書かれているワンパターン。聖書の時代から、いつだって、物語を決めるのは「蛇」で、終わらせるのは「狼」だ。

 

2015〜16年 冬

蛇と犬との準備した周到なゲリラ戦によって、台北を奪還した台湾政府は、梅の花が咲く前に、人民軍を大陸へと押し返すことに成功する。

それからは中国人同士の腹を見せない笑顔の茶飲み話、つまり停戦条約の合意により、紛争は終結する。そして、台湾政府も大陸政府も、今までどおり、何事もなく維持されることとなる。「なにごともなく、今までどおり」これこそ、中国人が最も好きな結末だ。

 

しかし、「なにごともなく、今までどおり」ではない街が、ただひとつだけ残った。

 

中華人民共和国は、紛争の際に台湾に残された人民・兵士・施設の保護のため台北の1区画を、特別租借地として要求する。台湾政府はその要求を受け入れ、台北は1区画だけ、ふたつの中国の交じり合う都市となる。

なぜ大陸政府が要求した1区画が、台湾一の歓楽街「」なのか、という小さな疑問を残して。

 

そして、春の訪れと共に、蛇たちは静かに笑う。

 

度重なるクーデターと末期的な財政難により、軍の長期駐留の維持ができない中華人民共和国は、租借地に駐留していた人民軍を引き上げ、かわりに、その土地を各国の企業に貸し出すことにより、外貨を獲得することを決定する。

すぐさま「華西街」は、世界各国から移民たちが雪崩を打って押し寄せるようになり、治安の保てない人民軍を尻目に、非合法に滞在、居住を始める。

そして、「華西街」は、まるで初めから決まっていたかのように台湾政府も、各国政府も、租借している筈の大陸政府でさえもまったく手の出せない「いかなる国の法律も適用されない」無法地帯になってゆく。

 

2016年 秋

現在、「第三九龍城」と呼ばれるようになったその一角は、たった半年で、東洋で一、二を争う歓楽街へと姿を変えた。

入り口と出口に、けばけばしく巨大な「」が建ち、いたるところに吊るされた紅色の宮灯が食べ物、女、男、何もかもを妖しく見せる。

関帝を祀った大きな廟のまわりを、燃えないゴミを積み上げたような高層スラムが取り囲み、そこには世界各国から流れ着いた様々な国籍、人種の住人たちが、100メートル四方に2万人以上もひしめきあって暮らしている。

この魔窟のなかではカネと暴力以外の法律はない。麻薬売買、売春、銃器売買、人身売買、殺人、窃盗など政府のもとでは犯罪と呼ばれる行為は、この街ではどれも企業化された、立派な成長産業のひとつだ。

人間が考えられる限りのあらゆる快楽と欲望が、カネで取引される。さながら、大人限定の中華風ディズニーランド。

ただし、このディズニーランドの案内人は笑顔のネズミではなく、サングラス越しに笑う蛇の群れ。思い出して欲しい。童話のなかで、いつだって、物語を決めているのは「蛇」ばかりだ。

 

中国人の神話のなかに、セクシーで魅惑的な話がある。

大洪水でたった2匹だけ世界に取り残された兄妹の蛇の話だ。

たった2匹の兄妹は、誰もいない海の上で、いつしかお互いを求め合い、まさぐるうちに、広大な大地と多くの人間を生んだ。

それが「中国」。龍の子供たちが住む大地となったという。

 

中国人の歴史は何度でも繰り返す。

海を挟んだ2匹の蛇がお互いを求め合い、ほんの1年間だけ出会って、別れた。そして、ひとつの退廃した街を生んだ。

それがこの「第三九龍城」。

東洋最大の無法地帯にして、たった100夜を超えただけで、東洋で一、二を争う歓楽街と化した魔街。毒蛇たちがとぐろを巻き、迷いこんだ者の多くは帰らない魔窟……。

 

 

 

「なんだかなあ…」

ボヤいたルーイの声が、竜介とアシュレイの耳朶を打つ。男達は、もうデニス・フィルビーという男の記した手記を、何度となく読み返していた。

いかなる法も届かぬ蛇の巣窟。

それがおそらく、次の戦場になるらしい。

言葉にしてもしなくとも、全員が硝煙と血と、そして何より忌まわしい蛇の臭気を嗅いでいた。

 

scene.2

現地時刻、。彼らの武装が包まれたガンドッグ郵袋と共に、犬達を出迎えた30代初めの白人男性が、デニス・フィルビーだった。長身だ。レイバンのサングラスに、ドルチェ&ガッバーナの黒のスーツを着込んだ姿は、典型的な“グッド・ルッキングガイ”だった。不用意に選んではキザで嫌みにしかならないその服装を、隙なく着こなしている印象がある。

楊から聞かされたデニスという男に関する情報が、犬達の脳裏に蘇る。

先天的な皮膚の病気により、日中の長時間の活動が不可能。英語、中国語(北京語、広東語問わず)に堪能な上、台湾の社会情勢と黒社会の情報に詳しい。

そして、その印象の如何に関わらず、コーディネーターとしての評判はいいというのが、日本で別れた楊の言葉だった。

「台湾へようこそ。“ガンドッグ”達とお呼びするのは、失礼にあたるのかな?」

それは、アシュレイと竜介が、「正式にはガンドッグではない」ことを知った上でのあいさつだった。

「…失礼にゃならないよ。ただ、正しくないだけでね」

 黙したままの2人に代わり口を開いた竜介と、デニスの視線が交錯する。それをルーイは楽しそうに、アシュレイはただ静かに見守るように佇んでいた。

「では、なんとお呼びすればいいのかな?紳士諸君?」

「…残念ながら、紳士って自覚もないんだがね?」

デニスの白すぎるほどに白い顔に、微かな笑みが浮かんで消える。

「騎士(ナイト)達…とでも呼ばせてもらおうか?それならね」

その言葉が秘めた真意など、斟酌するつもりはない。ゆっくりと、竜介が口を開く。

「騎士…ね」

口元だけが、苦く微かな笑みを刷く。そのままに、竜介が告げた。

「ならば、俺達をこう呼んでもらおうか?“群狼(ウルフパック)”とな。

あんた曰く…“物語を終わらせるのは、いつだって狼”…なんだろう?犬と狼ってのは似て非なるものさ。特に…狂犬と狼は、一緒にしちゃいけない。

…聞かせてもらおうじゃないか。俺達が終わらせなきゃならない“物語”ってのをな」

戦士たる者の戦士たる最初の資格は、その自覚、誇りだ。

この瞬間、犬達は群狼となる…。

 

scene.3

狼達が通されたのは、デニスの行きつけの中華料理店だった。並べられてゆく料理に箸をつけようとするよりも早く、アシュレイが促した。

「うかがいましょう。我々の仕事を」

ルーイの身じろぎは、つい料理に手を出そうとした動きを制せられたため、だろう。竜介とデニスの口元に刻まれた笑みは、それを正確に読み取ったことを語っていた。

 室内に入り、デニスがサングラスを外す。硬質な、スカイグレイの瞳が狼達を射貫いてゆく。

「…依頼の内容は『』、通称『第三九龍城』で今年の秋に消息を絶った日本人女性“木村秋子”を捜し出し、救出することだ。

期間は3日間。報酬は前金で1人5000ドル。成功報酬として追加5000ドル。必要経費込みで総額は1万ドルということになる。木村秋子の捜索は“”…遺体もしくは遺品を見つけることができても、成功報酬は支払われる。また、もし3日間で捜索が成功せずとも、それまでに発生した必要経費込みとはなるが、前金はそのまま受け取って頂いていい。

ただし…ひとつだけ条件がある。それは、依頼人を捜索に同行させることだ。

で…質問はあるかね?」

「捜索対象について、詳細を」

アシュレイの問いと同時に、ルーイは静かに箸を伸ばした。パパイヤグラタン。美味そうなにおいが、先刻から空腹を刺激していたのだ。

「木村秋子の年齢は失踪当時28歳。職業はフリージャーナリスト。今年の夏、日本から台湾に渡り、秋に消息を絶った。しかし、つい先日、彼女の親族のもとに、行方不明のはずの木村秋子から手紙が届いたらしい」

デニスの言葉に隠れて、ルーイががっつくように食事を始める。苦笑が交わされ、それぞれが静かに食事を始めた。

「フリージャーナリストってことだが…追っていたネタは?」

「それも、私にはよくわからない」

竜介の問いへのデニスの答えは、はぐらかしているのでもなく純粋に「仲介者として必要以上のことは知らない」と、言外に告げていた。

「この依頼は、ワイズからのものではない。極めてプライベートなものだ。また、依頼人は他のガンドッグではなく、『君達』にこの依頼を受けて欲しいそうだが?」

「依頼人の詳細も、手紙の内容も、何も貴方は御存じないと、そうおっしゃるつもりですか?」

アシュレイの問いに、デニスは箸を置き嘆息した。

「わかった。さすがだよ。この件に関して、私などより詳しい人間は既に、呼んである。その人物が依頼人でもあるんだがね」

「さすがってのは、そのまま返すぜ。さすが、やり手だよ。どんどんと抜き差しならない状況にしてくれるのが、上手いじゃないか?」

「話を聞くだけ…ってのは有り得ないって、そういう話に聞こえるよなあ」

竜介とルーイ。2人の苦笑交じりの言葉を受けて、デニスは涼しげに言葉を紡ぐ。

「君達が依頼人の顔を見れば、もっと抜き差しならない状況になるかもしれんがね?」

言葉と共に、デニスが手を上げた。送られた合図からほどなくして、ウェイターが店内に待たされていたのであろう「依頼人」を伴って現れる。

それは、日本で別れた筈の「吉田真冬」その人だった…。

「皆さんが…先日わたし達を助けて下さった方々なのですね」

狼達の視線を真っ向から受け止めて、真冬は深々と一礼してみせた。静かに、そのまま言葉を紡いでゆく。

「台北で消息を絶った姉『木村秋子』から、一通の手紙がわたしの元に届きました。皆さんに先夜、助けていただくその前に届いていたものです。

 手紙には、風景を写した写真が1枚。そして、『私の花を探して下さい』という言葉が、日本語で書かれていました」

誰も、何も問わないままに、真冬は言葉を紡ぎ続ける。

「消印は、今から1週間前、台北の華西街。わたしは、今でも姉が生きていると信じています。先日、息子共々わたしを救ってくれた皆さんにならば、姉を捜し出すことができるのではないかと、わたしの力になっていただけるのではないかと思ったんです」

組んだ指に顎を乗せ、真冬を見つめるアシュレイ。瞑目し、やや俯いたまま無言の竜介。気まずそうに、ルーイはぼりぼりと髮をかいた。

「…えーと、それで?」

促される言葉に、真冬は再び口を開く。

「…今回の件は、夫にも話していません。報酬は、昨年亡くなった父の遺産から出しました。皆さんしか、お願いできる方はいないのです。どうか、姉を助けてください」

言葉の締めは、一礼だった。

下げられたまま、上げられない頭に、デニスがゆっくりと口を開く。

「さて、どうするウルフパック?

今回のミッションはワイズとは関係ないプライベートなものだ。だから、この日本のお嬢さんを助けるも助けないも、全て君達に一任されるが?」

答えは、口にするまでもなく決まっていた。

狼達は、無言で立ち上がる。

…ルーイだけが、テーブルに並べられた料理の数々に、心残りな様子をありありと示していたが。

 

 

捜索 『九龍迷走』

2016年、冬 狼達は蛇のねぐらをさまよっていた…。

 

scene.1

「状況を整理しましょう」

身支度を整えながらの言葉は、アシュレイのものだった。

デニスが用意したホテルの一室。狼達は、己の牙を研いでいた。アラミド繊維を幾層にも重ねて防御効果を増したボディアーマーを着込み、所持する銃器の弾薬を確認する。

「潜入する『華西街』、通称『第三九龍城』には、正確な地図は存在しません。捜索は、足による地道で最も基本的な方法に頼ることになるでしょう」

マガジンクリップを叩き込む音。ボディアーマーのジッパーを上げる音。それがアシュレイの声に混じる。

「デニスによれば、第三九龍城で使われる言語は中国語のみ。このため、チームは2つに分けます。私と真冬さん。そして、ルーイくんと竜介さん。よろしいですね?」

 かつてアジア圏で活動していたルーイは中国語を操れる。

同意を込めて2人は頷きつつ、マガジンポーチのベルクロを締めてゆく。

「現地はチャイニーズ・マフィア“蛇眼”に半ば以上支配されている土地です。迂闊な動きは、彼らを刺激することになります。それにも留意を」

それを裏付ける事実がある。第三九龍城内では、現地を租借している筈の大陸政府人民軍の兵士ですら、表立っての武装を控えるという事実だった。

ただし。住人のほとんど、子供でさえも、自衛のためにハンドガンやサブマシンガンを隠し持っているというのもまた、事実だった。

無数の屋台がひしめく街区は、自転車を除くあらゆる車両の進入を阻む。例外は、“蛇眼”のものとわかる車両のみ。「表立っての武装」を控えねばならないとなると、隠蔽所持の困難なライフル類は、分解した後にアタッシュケースなどに収納する必要が出てくる。つまりは、「即応不可」ということだ。

「タイムリミットは本日を含めて2日半。つまり、明後日夕刻に真冬さんが台北を発つまで…ということです。

何か…質問は?」

揃って、ロングコートを羽織った狼達は、無言のままに頷き合い、視線を交わす。

既に、必要な事柄は確認済みだった。蒸し返す必要のあることはない。

「ゆこう。後は…歩いてゆくだけだ。魔窟…蛇の巣窟ってヤツの中をな」

向かう先は魔窟。その名も、第三九龍城。

 

scene.2

冬の台湾に、凍てつくような風が吹く。“”以来、「恒常」化の度合いを増した「異常」気象に、暖冬冷夏は無論のこと、逆に有り得ないほどの熱波寒波も珍しくはなくなった。ここ台湾にも、ナイトメア・ストームの余韻漂うような、凍てついた風が時折、吹きつける…。

 その風の中。第三九龍城の喧騒が、男達と真冬に届く。

「この場所が華西街であることは確実だと思うんです。ですが…どこにこの場所があるのか、それがわかりません…」

写真を差して、真冬が告げる。

巨大なを入り口とした長い道。その道の両側には安っぽいネオンで飾られた屋台が無数にひしめきあう。写されていた景色は、そんな様相を呈したものだった。第三九龍城の渾沌が、そこに顕現したかのような、そんな景色といっていい。

喧騒。そして、どこかに病んだような熱気がある。よくも悪くも、人間の業がもたらすエネルギーというものに満ちた街だ。

喧しいさえずりのような会話が交わされる。中国語を理解できるルーイや真冬ですら、理解できるのは身近で交わされる会話のその、片鱗だけだ。言葉と言葉が反響しあい、打ち消しあうかのように、そして、この街自体がわめくかのように、音が渦を巻いていた。

無数の屋台がある。そのひとつの傍ら、青年が胸に真紅の花を咲かせて横たわっていた。

死んでいる。

しかし、誰もそれに気をとめてはいなかった。道行く人も、傍らの屋台の主人も、その屋台で食事する者も。

路傍の「死」など、文字通り掃いて捨てるほどある。それが「第三九龍城」。蛇達の巣くう街だった。

「…ゆこう」

コートの裾を寒風に翻せて、竜介が歩を踏み出した。

地道な聞き込みの始まりだった。

 

-九龍迷走-

若い男が1人、竜介の傍らへと歩み寄る。下卑た笑いで、上着の裾に隠していたモノを見せるでもなくほのめかす。

竜介の瞳の底が冷たく光る。男には、続く動きを視覚に捉えることはできなかっただろう。

瞬時に伸びた腕が、男の襟首を掴む。そのまま、こ汚い壁へと若い男の身体を叩きつけた。その身体から、こぼれ落ちたものがある。数冊の本と、ヴィジュアルディスク。

児童ポルノだった。

「…下衆が」

 竜介の漏らした日本語を理解できなくとも、そこに込められた侮蔑と、それ以上の憤怒は嫌でも感じられたに違いない。若い男は、地に落ちた荷物をあさると、薄笑いを浮かべたまま、瞬く間に雑踏の中へと消え去った…。

 

空振りに終わった聞き込みに、ルーイが大きく息を吐く。そのまま、粗大ゴミのような建物に囲われた冬の空を見上げた。

その時だった。

視界の隅。よぎったのは黒いスーツに黒いサングラスの1人の男。紛うことなく、こちらを凝視していた。

振り向く。しかし、そこには誰もいない。

気のせいでは、ない。

確かにそこに、蛇はいた…。

 

かけた声に足を停めてくれた老婆へと、言葉が通じないことを知りながらも、アシュレイは辞儀と共に丁寧に写真を指し示した。秋子から送られた写真だ。真冬の通訳を待つでもなく、老婆はまじまじとアシュレイを見つめると、黙したままに指をさして道を示した。

「“あの道をまっすぐゆけ”と教えて下さってます、このおばあさん」

真冬の通訳に、アシュレイは穏やかな笑みと共に一礼を捧げる。

積み重ねた年齢は、それだけで敬われてしかるべきという、東洋の思想を理解しているかのように深々とした辞儀だった。

「ゆきましょう」

真冬を伴い、歩を踏み出す。

老婆は何故か手を合わせ、敬虔なまでに真摯に、立ち去るその背を拝んでいた。いつまでも、狼の姿が老婆の視界から消え果てても…。

 

眼前に、巨大な牌楼が屹立する。その下から続く長い道には、無数の屋台が集っていた。

間違いなく、ここが写真に写されていた場所だった。

「」。第三九龍城の台所。無数の屋台が軒を連ね、時刻を問わず食欲を刺激する。

「当座の第1段階はクリア…だよな?

で…ここからは?」

ルーイの問いに、竜介は歩を踏み出しながら口を開く。

「決まってる。歩くんだよ、『また』な」

盛大な溜め息をひとつ。それしかないとわかってはいる。しかし、腹が減っていたのもまた、事実だ。タイミングよく、腹の虫がその存在を主張した。

足を停めた竜介がルーイへと振り返った。

「…へ、へへへ」

交差した視線に、ルーイの屈託の無い笑いが応えた。

3分後。

2人は、豆乳とセットで売られていた台湾定番の揚げパン、「」を手にして歩き始めていた。

…無論、竜介の奢りで。

 

-九龍迷走-

真冬と共に歩を進めていたアシュレイの傍らで、派手に爆竹が鳴り響く。同時に、2組の獅子舞が踊り出た。思わず、真冬をかばったアシュレイの傍らで、獅子舞はアクロバティックに、激しく、華やかに舞い始める。

「…これは、見事なものですね…」

つい、こぼしたようなアシュレイの声に、真冬のどこか幼い面差しに不釣り合いとも似合いともとれるハスキーな声が続いた。

「何か、いいことがありそうですね。獅子舞って縁起物ですもの。こんなに見事な舞いが見られたなら、きっと…」

地道な探索の中、2人はしばし、時を忘れた。

 

跡をつけられている。

まとわりつくような気配は、第三九龍城に入った時から感じていた。それが、華西夜市へと入り、濃密さを増していた。

歩を停める。

怪訝そうな視線を送ってくるルーイに構わず、竜介は振り向いた。

そこにあったのは、背後の屋台にいた人間達が全員、ゆっくりと狼達から視線を逸らしてゆく姿だった。

蛇の巣窟。

その言葉がまた、脳裏に浮かぶ…。

 

歩を停めた竜介の腕が、道を空けるようにとルーイを無言で促した。

視線を前へと注げばそこには、こちらへとゆっくりと進んでくる葬列があった。瞳を閉じるかのように、やや俯く竜介の傍らで、ルーイの瞳は葬列へと吸い寄せられた。

による葬列。

狭い路地を、白を基調とした衣服に身を包んだ人々が過ぎてゆく。掲げられている棺は、とてもとても小振りだった。

子供。

ルーイの脳裏にそういう思いがよぎった時。

葬列の中、猿の面を被った少年と、視線が絡まった気がした。

頷く。

何に、どうして。それは、知らない。

けれど、そうせねばならないと、その瞬間ルーイは感じていた。ルーイの思いが伝わったのか、猿の面もまた、微かな頷きを返してきたように見えた。

錯覚かもしれない。

錯覚ではないかもしれない。

ルーイにとってどちらかは、言うまでもないことだった。

歩き始めた竜介の背を追うように、再びルーイも踵を返す。捜索は無論、まだ続いていたからだ。

 

scene.3

の。それが、得られた名前だった。「華西夜市に起きる全てを知っている」という老婆。

紅姨とは女性のタンキーを意味する。タンキーとは、神や死者の霊を自らの身体に下ろして異言を唱える、いわゆる道教世界におけるシャーマンのことだ。彼らはそれぞれ、その身に宿す守り神が決まっているという。

原色の赤と黄色。そして、見たこともないような木像に囲まれた部屋が、目指す張鳳仙の部屋だった。

むっとするほどの線香の匂いが、狼達と真冬を包む。

そんな濃密な空気の中で、やけにちんまりと座していた老婆の瞳が、狼達を見据えて輝いた。

「さぁて…この紅姨になんの用だい?あんたたちには、あたしの助言など無駄だろうよ…。あんたたちに必要なのは言葉じゃない。目に見えないものでもない…。

単純な答え、銃と暴力と死さ。違うかい…?」

出ばなをくじくような言葉を紡ぐ声音は、微かであるにも関わらず、しっかりと耳朶を打つものだった。

ガンドッグ。硝煙と血のにおいの中を生きる者と、そう老婆は揶揄しているのか。狼達は、真冬の通訳を介し、老婆の言葉に耳傾ける…。

「…私達は確かに、貴女のおっしゃったようなものと無縁ではないかもしれない。けれど、銃と暴力と死、それ以外の答えを求めてやまない時とてあるのです。それは…御理解頂けませんか?」

「さてねぇ…」

得体が知れぬほどに深い笑みが、シワに包まれた口元に刻まれる。むっとするような線香の匂いが、より濃くなってゆく…。

「あたしゃあ…様の声を聞くことができるのさ…。斉天大聖様は子供達の守り神、退治に御利益のある神様だよ

…まあ、あんたたちには、そんなことは関係ないかもしれないけれどねぇ…」

斉天大聖。道教世界の神々の一柱であるその神は、またの名を孫行者悟空という。そう、かの「西遊記」において玄奘三蔵の西方取経の旅の供をした孫悟空のことだ。物語と同様、邪鬼、幽鬼、悪霊退治に絶大な御利益があるとされ、人気が高い。石から誕生したこともあり、安産の神でもあり、それが転じたものか、子供達の守り神でもある。

「…斉天大聖ね。となると確かに、“銃猟犬”との相性は、あまりよくはないんだろうよ」

張鳳仙の部屋を見回し、竜介がぽつり呟く。

かつて天界で大暴れした斉天大聖は、その調伏のために遣わされた二郎真君と激しい闘いを演じた揚げ句に、逃亡する。逃げた斉天大聖の居所を嗅ぎ取り捜し出したのが、二郎真君の御先神である、つまり犬だった。“犬猿の仲”とは、これに由来するといってもいい。

竜介の呟きに、張鳳仙が刻んだ笑みを深くする。そして。不意に瞳を閉じると、その笑みを消して告げた。

これまでのような、微かな声音ではない。厳かとすらいえる、それは老婆とは思えぬ太い声だった。

「子供達が苦しんでいるよ…。たくさんの、たくさんの子供達さ…。

あんたたちは呼ばれたのさね。斉天大聖様は、退治に犬…いいや、“狼”を呼び出したのさ…」

刮目した老婆の瞳の光が、狼達ではなく真冬を射貫く。そして、ゆっくりと真冬を指さした。

「…ああ、今わかったよ。何もかもがつながったね。大聖様のお導きさ…。あたしは、あたしの役割を果たさなくちゃいけないねぇ。

話すともさ…知っていることは全てねぇ…」

深く、まるで地の底から響くように。

遠く、まるで天の遥か高みから届くように。

真冬を指さしたままの老婆の声が続いてゆく。

「この華西夜市に、この女に親しい男がいるよ。

の屋台を営む。こいつに会えば、女の住んでいた場所、女のことを詳しく聞くことができる筈だよ…。

…そう、あんたたちは呼ばれたのさ…大聖様にね、呼ばれたんだよ…ああ、そうさ…」

そして。老婆はもう、何も聞こえないかのように口を閉ざし、眼を閉じた。

語るべきこと、問うべきこと。それがここにはもうないと。

狼達が、次へと向かう刻だった。

 

scene.4

真冬の顔を見た李大青という男の驚愕は、死者を見てしまった者のそれだと、ルーイは思った。

しかし、怯えはそのためだけではあるまい。真冬を秋子の双子の妹と知っても、その怯えは容易には鎮まらなかった。

「…わ、悪いんだが、見てのとおり屋台の準備がなかなか忙しくてね…」

眼を伏せ、どもりがちに告げられる言葉が、周囲から届くものを知らせる。

アシュレイが、竜介が、ルーイが。ゆっくりと己の周囲を見回してゆく。

伏せられる視線。逸らされる視線。逆に叩きつけてくる視線。

一様に、周囲の注視を浴びていたのだ。

「紅姨の張鳳仙さんに言われて来たのです。貴方ならば、姉の秋子のことを教えて下さると…」

「…大したことなんて、何もないよ。木村秋子さんはこの屋台の常連さんだったってだけだ。この近くに住んでてね、彼女の部屋に届けに行ったこともあったかな…」

「そんならさ、秋子さんの家、知ってるってことだろ?どこにあるんだ、彼女の部屋はさ」

ルーイの質問は不用意に早すぎたのか。男は再び眼を伏せた。

「…秋子さんのことでしたら、何でもかまわないのですよ。何か、お教え願えませんか?」

取りなすようなアシュレイの口調が、言葉がわからずとも通じたものか。再び、男は口を開いた。

「…1週間…くらい前だったかな。秋子さんに頼まれて、日本への手紙を預かったよ。

もちろん、中は見てないよ。日本語なんてわからないしね。

それが、秋子さんに会った最後さ。手紙を渡されて、投函を頼まれて…それっきりさ」

周囲は依然、喧しいほどの中国語の喧騒が満ちている。しかし、この場だけがそんな空気とは隔絶されたかのように、重い沈黙が下りている。誰より、李大青という男がそれを痛感していた。

重い沈黙を振りきるように、そして、その沈黙より重い口調で、男はようやく告げた。

「…わかったよ。秋子さんの住んでいたアパートの場所を教えるよ…」

上げられた視線と共に、指を差す。

「ほら、ここから見えるあの先の8階建てのアパートさ。701号室。でも、広いアパートなんでね、気をつけておくれよ?…あいにくと、屋台があるもんでね、あんたたちとは一緒には行けないからさ…」

「それだけ、お教え頂ければ十分です…」

喜色を浮かべた真冬の一礼も、男の顔に笑みを取り戻すことはなかった。

そして、狼達は踵を返す。

また一歩、第三九龍城の魔窟の奥に踏み出すために。

 

scene.5

-九龍迷走-

ふと、足を停めたのは、中から真紅の照明が漏れるドアの前だった。

微かな、しかしひとたび捉えれば濃密とわかる線香の匂いが、ルーイの鼻孔にまで届く。これは、の老婆の元で嗅いだ匂いと、同じだっただろうか?そんな思いが、胸中をっていった。

覗いた扉の向こうに老婆が座している。まるで、何かのデジャヴのように。

ルーイへと背を向け、老婆は一心不乱に何かを祈っていた。小さい背を丸めて、シワだらけの手を合わせて、ただ、ただ、祈っていた。ただでさえ古びているのに線香に煤けてしまった、小さな小さな猿の木像にだ。

邪魔をしてはならない。そう思い振り向いたルーイの眼前に、猿の人形を抱いた女の子が1人、立っていた。

5、6歳くらいだろうか?

その幼女からどこか、気圧されるものを感じながらも、ルーイは木村秋子の部屋のことを知らないかと、穏やかに問いかける。

まっすぐ、女の子は空いている手で一方を指さした。

闇。その奥に、目指す部屋がある。不思議と、ルーイにはそれがわかった。

礼の言葉を告げようとルーイが再び振り向いた時、そこには女の子も、真紅の照明の漏れる部屋もなかった。

ただ、ほのかな香のにおいだけが漂っていた…。

 

広い。否、広いというよりは、あまりに雑然としすぎている。それが、方向感覚を狂わせるようだ。

増築と改築とを無計画に繰り返し、どこまでがこの建物で、どこからが隣接する建物かわからない。

かつて香港に存在した九龍城と、まさに同様の立体迷路だ。

ふと、足を停めたアシュレイの視線が、廊下の隅でぼろぼろになった写真を見つけた。性的虐待を受ける児童を写した、眼を背けたくなるような写真だった。

エルトロスにいる孤児院の子供たちと同じ年頃だろう。

思わず奥歯を噛みしめたその刻。

遠くで、子供の悲鳴が聞こえた。

錯覚ではない。

しかし、助けにゆけもしない。

どこで聞こえたか、それすらアシュレイにはわからなかったからだ。

 

頭上の電灯が瞬き、消えた。

ほんの一瞬のことだ。そのたった一瞬で、どこから出てきたのだろうか。竜介の前には手を取りあう2人の子供達がいた。4歳くらいと見て取れる。見分けがつかぬほどによく似た顔立ちの2人は、双子なのかもしれない。幼さの中にも映えるほど、きれいな面差しを、そしてそれ以上にきれいな眼差しをした子供達だった。

そもそも、この男の瞳がこれしきの闇を見通せぬ筈がない。電灯が一瞬消えたその間とはいえ、子供達が現れる動きを見落とす筈がなかった。否、それ以前に、その子達は一体、どこから姿を現したのか。

胸に宿ったいぶかしさに、竜介が足を停める。

子供達は走り出す。

薄暗い廊下で、竜介と子供達がすれ違う。

怯えさせたかと、苦い思いと共に竜介が子供達のために壁へと身を寄せたその瞬間だった。

「」

2人の幼児は、綺麗に声を響かせ合って、男へと確かにそう告げた。

思わず、竜介は振り向いた。子供達を追いかけるように、今来た廊下を数歩、駆け戻る。

その先の、一本道の曲がり角。確かに曲がった子供達を追ってそこを折れた竜介の瞳はしかし、2度とその子供達の姿を捉えることはなかった。

「…対…不起…」

すえた臭いすらする雑然とした建物の中で、竜介はまるで零すように呟いた。

対不起。それは、「ごめんなさい」という意味だ。

何を、謝ることがある?

君達が、子供が、俺達大人に何を謝る必要がある?薄汚れた大人たちこそ、頑是無い幼子たちに膝を屈して許しを乞わねばならないことを積み重ねてきたのではないのか?

やりきれぬ。熱い怒りが胸をく。

奥歯を噛みしめそして、男は深い闇へと踵を返す…。

その闇の奥。今まで見えていなかった廊下の向こう、折りから射し込んだ太陽の光に、薄汚れたドアが浮かび上がっていた…。

 

捜索を始めて、3日目だった。今日はもう、真冬が日本へと帰らねばならない日だ。

木村秋子の部屋の扉の前に、真冬と狼達はいた。

鍵のしっかりと閉められたドア。

何らかの方法で、そのドアをこじ開けようとする前に、真冬は一歩、足を踏み出していた。

玄関の扉のそばで、枯れた花が揺れる鉢植えがある。その鉢植えの下から、真冬がどこか寂しい笑みを浮かべつつ、ちっぽけな、そして古びた鍵を取り出した。

「…実家でも、そうしていましたから…」

求めていた鍵はこれなのか。

う真冬と共に、狼達は扉をくぐる…。

 

 

真実との接触 『白幽鬼 -White Ghost-

2016年、冬。 狼達は何も無い部屋の中でホワイトゴーストの声を聞いた…。

 

scene.1

アパートの部屋は狭かった。窓にかかった、破れて黄ばんだカーテンは、風もないのに揺れていた。

陽の光がコンクリートに染め上げられ、灰色の薄明かりとなって射し込む部屋だ。夜ならば、けばけばしいネオンの光が、きっと寝ぼけた瞬きのように点滅し、部屋をに染めるに違いない。

固いベッドと、中身がぶちまけられた洋服ダンス。その両方が、狭い部屋に横倒しにされていた。

机の引き出しも本棚の中身も、全て床へと吐き出され、壊されていた。

散々荒らされ尽くした部屋の残骸が、狼達の前には晒されていた。

文字の書いてあるもの。絵。写真。そして、記録媒体。そういったものの破壊された尽くした残骸が、僅か部屋には残されていた。それ以外にもおそらく、持ち去られた物も多いに違いない。

「手遅れ…ってヤツかよ」

腹立たしさを抑えかねたようなルーイの呟きに、竜介がひとつ息を吐く。

「だめ…ですね」

その一言と共に、アシュレイも電話を調べる手を止めた。

見るからに古いアンティーク電話は、着信・発信記録はおろか、留守番電話機能すら備えていないものだった。

そう、誰もが思った瞬間だった。

その、古ぼけた電話が鳴った。

部屋の中が凍る。やがてルーイがゆっくりと、そして静かに受話器を取った。

「…もしもし?」

「ようこそ。第三九龍城へ」

英語だった。この場にいる者全てに、その語る内容が理解できる言語を選んでいると、そういう意志が受話器の向こうから溢れ出る。電話口から漏れ聞こえる男の声は、言葉の隙間から聞こえる唾液をり上げるような吐息から、どこか爬虫類めいた生き物を思わせた。

「私は“”。君達とは、ずっと話をしたいと思っていた。大切な話だ。

 お互いのため。これ以上、『お互いの世界』にそれぞれが関わり合いにならないための話し合いをしたかった。

どうだね?少し、君達と話す時間をもらえないかね?」

ルーイが、思わず全員の顔を見回す。

咄嗟には、誰も言葉が出ない。

その空気を察しているかのように、白幽鬼は続ける。

「この街は、第三九龍城は、全てが我々“蛇眼”の支配下にある。この第三九龍城の中では、あらゆる政府…たとえワイズのような世界的規模の組織でさえ、一切の権力を持たない。それは、君達がこの街に入ってからのあらゆる行動を、この私が知っていることからも、伺い知れると思うが…」

余裕。それが、気配として感じられる。ただ、その余裕というのは、捕食者が死に絶えた獲物を前にした時に抱くものと同様のものでしかない。そこに、人間的な感情の温かみなどは、欠片も存在していなかった。

舌打ちせんばかりに、アシュレイが微かに呟く。

「…話し合いならば、それは応じなくもない。『話し合い』と称するに値するほど、有意義なものならば、ですがね…」

「それは、君達次第だよ」

間髪を入れず。ルーイの持つ受話器の向こうから、耳障りな声が答えた。

そのタイミングに竜介が顔を上げ、周囲を見回す。

かなり高感度の盗聴器が仕掛けられているとみて、間違いない。

ルーイの傍らに立っていたアシュレイが、黙したままに電話の乗せられていた台を指し示す。そこに、マイクがひとつ、しかけてあった。そのまま、アシュレイは口を開いた。

「私達次第。いいでしょう。そちらの望みはなんなのです?話し合いとは、観念論や抽象論だけをに過ごすためのものではありませんが?」

「…それこそ、小難しい抽象論というものだ。先刻も告げた。私達と君達では、住む世界が違うのだ。互いの利益のために、これ以上の干渉は無駄以上に有害ですらある」

竜介とアシュレイは互いの視線に、相手が己と同じ確信を抱いたことを知った。

絶対的優位に立つことを快感に感じる類の男と、2人は読んだのだ。白幽鬼と名乗った男のことを。そして、その優位を必要以上に知らしめ、誇示したがる典型だと。

それは、サディストの一類型だった。

「君達が探す『木村秋子』という日本人女性は、1週間前に死んでいるよ。これ以上の捜索は無意味だ。そして…。

その無意味な捜索を続けることは、『私の支配する世界』、『君達とは別の世界』へと、君達が近づくことになる。下手をすれば、君達が『ここ』へと足を踏み入れることにもなりかねない。それは、決して得策ではないよ…。否、悲劇ですらある。何故ならば、それは君達の『死』をも、意味するのだからね…?」

「…そいつは、脅しってやつか?」

低く、抑えられた竜介の声音には、それだけに圧力の加えられた怒りが滲んでいた。

「脅しなどという低劣な手段に興味はない。それは君達も同様と思っているよ…」

電話は、そこまでを告げた白幽鬼の手で一方的に切られた。

竜介はアシュレイの指し示したマイクへと歩を進めた。手を伸ばし、それを摘み取る。煮え滾る何かを秘めた声ではっきりと、そしてゆっくりと告げてゆく…。

「ひとつ、いいことを教えてやる。他の連中はどうだか知らないがね…俺は、頭に『大』がつくバカなんだよ…。

『互いの利益のため』と、そうほざいたな。知ってるか?そういう利益や損得の勘定なんてものが、そもそもっからできないのさ。貴様が相手にしたのがどういうバカか、身をもって知る時が来るぜ。間違いない。貴様にそれをもたらすこの俺が言うことだからな」

白幽鬼と名乗った男は、最後に激しい雑音に耳を塞いだことだろう。

竜介の指が、摘んだマイクを粉々に潰していたからだ。

 

scene.2

手がかりが絶たれた。重たい沈黙にはしかし、浸っている時間などない。真冬の搭乗する飛行機が台湾を飛び立つのは、今日夕刻。時間に余裕は決してない。

「ゆこう」

何処へともなく、竜介が告げた時。真冬が控えめに口を開いた。

「…『私の花』…」

その言葉に、狼達が振り返る。

「…秋子は私に言いました。『私の花を探して下さい』と…」

第三九龍城の喧騒が、7階の部屋にまで届く。

「私…秋子さんの花…ですか」

片手の指を顎先に当てたアシュレイの瞳が、素通しの眼鏡の奥で光ったように見えた。

「…花なんて、どっこにも咲いてない…よなあ」

鼻の頭を指先でかきながら、ルーイが周囲を見回し呟いた。

乱雑という言葉では足りないほどに散らかった室内。無論、花など咲いてはいない。

「まあ、こんだけ散らかっちゃいるけどさ。部屋の中に花なんて咲いてないのは間違いないと思うよ?」

「…鍵を取り出した鉢植え。あそこには花が咲いていましたか?」

アシュレイの問いに答えたのは、真冬だった。

「いいえ、あの鉢植えは確かにコスモスでしたけれど、枯れていました…」

「…コスモス」

 再び、素通しの眼鏡の向こうで、アシュレイの瞳が光る。

そのアシュレイの視線が、竜介に向けられた。

「…竜介さん。私の記憶が正しければ、日本語でコスモスとは、確か『秋の桜』と表記するのではありませんでしたか?」

 その言葉に、弾かれたように竜介が顔を上げた。

「…そうか!」

コスモス。

調べれば容易に知れる。

コスモスとは、弱々しく儚げなその外見とは裏腹に、生命力の強い植物だと。

どんな嵐に晒されて倒されても、茎から根を張りまた立ち上がって、必ず上を向く花を咲かせるのだと。

和名を『秋桜』。中国名を『秋英』。

字が現すように、中国でも日本でも、コスモスは秋に咲く花だ。

そして。

中国語にはもうひとつ、コスモスを示す言葉がある。中国語表記特有の当て字表記で…『可思莫思花』。

可思莫思の花。

 

                可思莫思 

                  思ウ可シ、思ウ莫レ…

 

 

ラストミッション 『可思莫思花』

2016年、冬。 狼達は枯れた花が出した“問い”に“答え”を出す…。

 

scene.1

鉢植えの中には、1枚のDVDが隠されていた。

その1枚のDVDだけを、真冬と狼達は手にして、魔窟『第三九龍城』を後にした。

拠点として決めた台北市内のホテルの部屋で、デニスは狼達を待っていた。華西街を出る間際に依頼した、DVDを再生できるハードを調達してだ。

「無事に帰って来たようだな、“ウルフパック”。無事を祝い、君達に頼まれ物を渡す前に…2点ほど、告げねばならないことがある」

レイバンのサングラスの奥、スカイグレーの瞳はその時、どんな光を宿していたのか。それは、誰にもわからない。

「台北市内で、木村秋子の遺体が発見されたよ。

タクシーのトランクの中だ。遺体は、死後1週間が経過していた。警察発表によれぱ、タクシー運転手がカネと暴行を目的に木村秋子を襲い、殺害。

…容疑者と目されているタクシー運転手は、逃走時に警官に射殺されている」

誰も、何も答えようとはしなかった。

誰も、何も問おうとしなかった。

デニスもまた、何か言葉が返されるとは思っていない。そういう口調だった。

「彼女の遺体は既に警察に『処理』されている。一応、衣服をはじめとして遺品数点は台北の警察当局が保管しているそうだ。こちらの確認は真冬さん、辛いだろうが、貴女の仕事だよ…」

小さく、しかし、しっかりと真冬は頷いた。

それを認めて、デニスは続ける。

「もう、1点。これは第三九龍城内で起きた事件だ。

第三九龍城『華西夜市』で、同士の抗争があり、アパートがひとつ、爆破されたそうだ。また、その抗争の際に近隣の屋台の店主1人が銃撃に巻き込まれて死亡している。

…言うまでもないことだろうが…爆破されたのは、木村秋子の部屋があったアパートだ。そして、死亡した屋台の店主は、君達に木村秋子の情報を流した男、李大青だよ…」

脅しと、そういうことだろう。蛇眼としても、白幽鬼としても、戦闘のプロフェッショナルであるガンドッグに真正面から襲いかかるという愚は犯さない。この見え透いた脅しで手を引くならば、向後互いに干渉無用と、そういう意図があることは明白だった…。

毒蛇の巣窟の中では、どこまでも毒蛇達の意のままに。

どこかで、耳障りな哄笑が轟いた。

そんな気がしたのは、きっと気のせいではないのだろう。

間違いなく、どこかで誰かが、ことの顛末を笑っている。そして、その影で涙する者達は、いまだき続けているのだろう…。

それは。

魔窟より持ち帰った1枚のDVDが、何者よりも雄弁に語っていた。

木村秋子の残した記録。

木村秋子の、残した記憶…。

 

scene.2

画面に映ったのは、瞳だった。

生気に満ちて輝くべき、無垢な瞳であるべきものが、そこでは恐怖に歪み、怯えていた。

たくさんの、あまりにたくさんの子供達の怯え歪んだ瞳が映る。

年端もゆかぬ児童・幼児が、一人一人次々に、歪んだ性愛の玩具として消費されてゆく。

性虐待フィルム。吐き気すら、その映像は催させる。

「…忌むべきこと、唾棄すべきことだが、そういう『ニーズ』があるのも、また事実だ」

子供達の悲鳴に、デニスの乾いた声が重なった。

「こういうモノを『制作』するのに、第三九龍城というのはうってつけ、なんだろうな。世界中から『安価』に子供を買い漁り、あの魔窟に連れ込んでしまえば、手出しできる者はいない」

それはつまり、子供達は救われないと、そういうことか。

誰かの歯ぎしりが、低く部屋に響いて消えた。

「市場は拡大の一途を辿っていると聞いたよ。世界中に『こういう世界』の住人がいて、『第三九龍城製』とされる『作品』はえらく高い『評価』を受けているらしいね。特に『これ』は、その白幽鬼の手になるもの、なんだろう。殺人も厭わない過激さが、好評の理由らしい…」

児童ポルノに『寛容』な日本などは、そういった輩の『温床』といって過言ではないのだろう。

真冬は、唇を白くなるほど噛みしめながらもなお、気丈にも決して映像から眼を逸らそうとはしなかった。

それは、彼女の姉が台湾にまで乗り込み、突き止めようとしたもの。そのありのままが映されたもの。

果敢にも、木村秋子は第三九龍城内の撮影現場に単身潜入し、この映像を撮影したものらしい。

やがて、ポルノ撮影にあたっていた“蛇眼”の1人に感づかれたのだろう、映像にはノイズが走り、天地も左右もなくなり、切れた。カメラを気遣う余裕もなく、木村秋子は逃げ出した。

そして、打てるだけの手を打って、死んでいったのだ。

 やがて、デニスは重苦しい気分を打ち払うように遮光カーテンを押し開いた。我が身を灼く紫外線に、微かに苦悶の呻きをあげると、己はまた、陽の光の届かぬ場所へと身を運ぶ。

「さて、“群狼”の諸君。仕事は終わった。木村秋子の遺品を真冬さんが確認すれば、全て終わりだ。そうじゃないか?

悲劇的なことだが、木村秋子は死んでいた。だが、君達に落ち度があってのことじゃない。

確かに、『ああいった世界』は、吐き気がするほど嫌悪すべきものさ。けれど、そのとやらの言った通り、私達とは『別の世界』の話だ。そうじゃないかね?」

気丈にも、真冬がデニスの言葉を受けたように、続ける。

「…皆さん、ありがとうございます。これで、終わったんですね。姉が何に立ち向かい、何を救おうとしたのか、それだけでも知ることができて、私はよかったと思います。私は…これで日本に帰ります。

 でも…姉は、愚かです。何も見なければ、知らなければよかったのに…」

「…ひとつ、あんた達が絶対に間違ってることがある」

デニスと真冬、その両人の言葉を遮るように告げた竜介の瞳は、逸らされることなく画面を見据えていた。

意味のないグリッドの走る画面を、どこまでも冷たく、そしてどこまでも烈しい「ある意志」を込めたままに、見据えていた。

「…何を、私は間違ったのかな?」

「…『これ』は俺達が許しちゃならない『世界』だ。それを求める人間がいることも事実だし、そういう人間のいる世界が、俺達の世界とは異なるというそういう言い分も、認めなくはないよ。

ただ、な」

リモコンに置かれた竜介の指が、無作為にディスクの途中を再生させた。部屋に再び、子供の声にならぬ泣き声が響き、唐突に消える。

「…『この子』まで、『別の世界』ってところへ追いやっていいわけが、ないのさ。あんたにも誰にも、そんな権利はないんだよ」

言葉と共に、竜介が立ち上がる。

身に付けていたロングコートを脱ぎ捨て、ジャケットの下に着込んでいた隠蔽性の高い薄手のボディアーマーをも、脱ぎ捨てる。そこに晒された裸身には、無数の烈しくも猛々しい傷痕が刻まれていた。

部屋の隅に置かれていた、ガンドッグ郵袋。そこから、竜介はアラミド繊維を幾重にも重ねた上に、薄手の防弾プレートを組み合わせた、より強固なボディアーマーを取り出した。裸の上半身をアサルトスーツで包み、その上から強固なボディアーマーを身に付ける。

デニスの乾いた声は、いつしか微かに震えていた。

「本気か?この台湾…いや、第三九龍城で、あの“蛇眼”と事を構えるというのか?

どう考えても、賢い選択じゃないぞ。たとえ、今回は上手くいったとしても、“蛇眼”は決して君達を許しはすまい。もう、ここで手を引くべきだ」

「いいこと教えてやるよ、デニスさん」

陽気な、底抜けに陽気な声で告げるルーイの瞳はしかし、どこまでも冷たく笑っていない。

「俺『達』はさ、どっかの誰かさんに言わせると、頭に『大』がつくバカなんだってよ。知ってるかい?バカってのは、損得勘定も『賢い選択』もできねぇんだぜ?」

ソファを身軽に飛び越える。そして、竜介同様にガンドッグ郵袋へと首を突っ込むようにして、荷物を漁り始めた。

「正気かね?」

呆れたように告げた後、デニスは救いを求めるようにアシュレイを振り返った。

「…同感ですね」

デニスの言葉に、アシュレイが短く告げる。そして、続けた。誰よりも冷たく厳しい瞳のままに。

「この、重要な情報を見ずに出撃などは無謀です」

ディスクのどこを、どう操作したものか。アシュレイが画面に呼び出したのは、第三九龍場内の1点を指し示す地図。そして、『そこ』にある『施設』の見取り図だった。

「手数は我々が圧倒的に少ない。作戦の要はどこまでも電撃戦。そして、最重要かつ最優先任務は、囚われている子供達の救出、この一事です。

その前に立ち塞がる者は…」

「…全力を以てこれを排除する。それでいいな??」

「…無論です。参りましょう」

そして。

アシュレイもまた、愛銃ドラグノフ・スナイパーライフルをその手に握る…!!

 

 

The Truth Last Mission

『愚か者達のミッション』

2016年、冬。 狼達は立ち上がる。その身を、守るべき者達の前になげうつために…!!

 

群狼がゆく。

魔窟第三九龍城。毒蛇達の巣くう街。

その魔窟を、3頭の狼達は決然と、そして敢然と頬をあげて歩みゆく。

未だ、誰一人として表立った武装をしてこの魔窟に歩を進めた者はいない。

未だ、誰一人として正面から“蛇眼”に牙を剥いた者はいない。

その魔窟をゆく。

身を鎧い、銃を手にし、研ぎ澄ました牙を剥いて。

まぶたの裏、あの瞳の色が消えないからだ。

耳の奥、あの悲鳴が消えないからだ。

人間の、大人達の愚の骨頂で、子供達の未来が踏みしだかれるというのなら。

それ以上の『愚行』をもって、守るべき者を守り抜く。

譲れぬもの。守りたいもの。貫かねばならないもの。

そのためになら、血を流してでも悔いのないもの。

それがあるから、狼なのだ。

 

魔窟の深奥に、白幽鬼の巣くう場所はある。

狼達を阻む者は、誰一人としていなかった。

“蛇眼”の中でさえ、忌み嫌われているという白幽鬼を、“蛇眼”が遂に見捨てたためか。

それとも、これこそまさに子供達の守護神である斉天大聖の助けなのか。

張鳳仙ならば、間違いなく後者というに違いないと、ルーイの口元が笑みを刷く。

犬とは仲が悪ィってけどよ、ひとつ俺達とは仲良くしてくれよ、お猿の神さんよ。なんたって…俺達はウルフパック、狼なんだ。そんじょそこらにたむろする、血走った眼で無駄吠えするような狂犬どもとは、格が違うぜ、神さんよ。

そんなルーイの心底を、先ゆく2人が知っているかのように振り向き、笑う。

「…ゆこうか」

「へへ…いっちょ、片づけようぜ」

「参りましょう」

牙を剥く。

そして。狼達は誇り高く走り出す………!!

 

「クリア!」

飛び込んだ竜介の声に、ルーイが続く。伸び切った廊下の果てに姿を見せた2匹の“蛇”へと、アシュレイの手にしたドラグノフが轟音と共に炎を吹いた。火線が薙いだその空間を、竜介とルーイが2頭の狼のように疾駆する。

「獲った!! いっけェ!!」

MP5の掃射が、廊下の奥に潜む蛇達をすくませる。その一瞬を竜介が衝いてゆく。

疾走。そして、飛び込んでゆく。

眼前に新たな3匹の“蛇”がいる。それぞれの額を’357マグナム弾が過たず撃ち抜いた。その竜介の背を、ルーイのMP5とアシュレイのドラグノフが守る。

建物の構造は頭にある。木村秋子の残してくれた記録。それを、短時間で叩き込んでいた。

他に出口はない。そういう構造の建物だ。

白幽鬼と蛇共を、その巣穴の奥底へと追いやり、封じ込めつつも、どこかに囚われている子供達を救わねばならない。

「いないっ!」

「こっちもだっ」

竜介とルーイが素早く、部屋をひとつひとつ改める。“”。その動きに、“蛇”達が対応できぬうちに、子供達を救わねばならない。

「!」

アシュレイの令に応じて、立ち塞がるように現れる“蛇”達の全てを電撃的に制圧してゆく。

耳元を掠めるかのように過ぎてゆく9ミリパラベラム弾。しかし、足は止まらない。停められない。

そして。

まるで、動物を閉じこめる檻のように鉄格子を嵌められた向こうの空間に、ルーイの瞳は無反応にただ膝を抱える子供を捉えた。

思わず、走り続けていた足が、停る。

「…なんてぇ真似を…!」

「止まるなっ」

ルーイの瞳の色の危うさに、竜介の叱咤の声が響く。

「動けっ おまえの怒りのその矛先を向けるべき相手は、まだこの巣穴の奥でのうのうと生きてるぞっ!」

死んだような瞳をした子供達から、ルーイは己の視線を引き剥ぐようにして外す。腹の底の奥底に、滾るような怒りがあった。

そして、それ以上に哀しさが、みがあった。

一刻も早く、こんな場所から連れ出してやりたい。

否、連れ出さずにおくものか。

そう、ルーイが決心した瞬間だった。

「…取引をしないかね?」

施設内の音響設備を用いたのか、不意に、耳障りなあの声が響く。白幽鬼。そう名乗った声に間違いはない。アシュレイの視界の端で、声に身を竦ませた子供の姿が、痛々しかった。

「君達は酔狂にも、ここにいる『モデル』を奪いに来たんだろう?

…くれてあげよう。ただし、君達が一度武器を下ろし、私達のために道を空けてくれたならば、だ」

その言葉の最後、明らかに銃器の撃鉄をコックした音が響く。

「要求が聞き入れられないというのなら、止むを得ない。徹底抗戦するその血祭りに、ここにいるモデル達を捧げよう。

これはこれで…できれば、映像として撮っておきたい趣向だがね」

その言葉が、竜介の肚を決めさせた。

「…神父」

背後に立ったアシュレイに、竜介は静かに告げる。

「子供達を救うのが、何よりの大事だ。そのためになら、今この一瞬、やつを野放しにするのも止むを得ない。そう、俺は思ったよ。

だけどな…そいつは、間違いだ」

無言のままに、己の言葉に耳傾けるアシュレイの気配。それが、竜介には伝わった。

「やつを野に放てば、また同じことの繰り返しだ。ここではないどこかで、別の子供が哭くことになるだけだ。それは…俺には絶対に許せない」

「…同感です」

しかし、打つべき有効打がないのもまた、事実。そう、アシュレイが思った瞬間だった。

「ならば、俺達がしなきゃならないことは、ひとつだ。

背中…任せたぞ?」

そのためならば。

身をなげうつ。子供達のために。

そして、竜介は銃弾の雨の中へと…………!!

 

9ミリパラベラム弾がアラミド繊維に弾かれる。その反作用はしかし、竜介の鍛え抜かれた筋肉を打ち据え、血管を破り、骨の髄まで軋ませる。

壁に弾かれた跳弾が擦り、頬を裂く。

アラミド繊維も防弾プレートも無い大腿部を、9ミリパラベラム弾が貫通してゆく。

その果てに。

竜介は白幽鬼と残る“蛇”達が潜む、巣穴の最奥部へと続く扉を突破していた。

満身創痍。

傷だらけの狼。

そして蛇達は静かに笑う。

子供など、そこには1人たりといなかった。

ナイロンでできたかのような長い黒髪と、プラスチックでできたかのような黒い眼球。どこまでも作り物めいた男が、黒いパンツと真紅のラメのシャツに身を包み、竜介の前に立っていた。

「さよならだ、愚か者」

あの声だった。

竜介の口元が凄絶なまでの笑みを刻む。

「ブラフッ!!」

笑み刻んだままの口元から、その叫びが響いた。

「穢れてゆく無垢なるものの美しさ。それが『私の世界』だ。それも理解できぬ無粋者よ、さようなら…」

唾液を啜り上げるような耳障りな声。竜介の怒号が、その耳障りな声と台詞を圧して響いたのは、亀裂のような笑みが、幽鬼の顔で割れようとした瞬間だった。戯言など、耳にしてなどいられない。

救わねばならぬ子供がいないならば、それでいい。闘うだけだ。

眼前に立つ男が、2度とどこかの子供の未来を踏みにじることなどできぬように。

そして、生き残る。這ってでも、生きて帰ると誓った相手のもとへと帰るために。

作り物めいた男が、握っていたテック9を竜介へと構えようとした、その瞬間だった。

MP5から掃射された9ミリパラベラム弾の雨が、白幽鬼のサポートについていた毒蛇を壁へと叩きつける。そして、アシュレイとルーイが雪崩れ込んだ。

白幽鬼の元、最後に残っていた“蛇”を無力化するに必要な時間は、一瞬だった。

明らかに早すぎるタイミングは、2人が竜介だけをゆかせなかったことを物語る。

「…おまえには、祈る時間も資格もない」

冷厳とした言葉と共に、至近で構えられたドラグノフ。

アシュレイの指が、トリガーを引き絞る。

スナイパーライフルのマズルフラッシュと轟音が、毒蛇の巣穴を制し、響き渡る。

それが白幽鬼と名乗った男のこの世で最後に眼にし、耳にしたものとなった。

 

 

エンディング 『何日君再来』

今宵、別れたその後は いつの日かまた、君来たる

 

台北国際空港で「季節の名前の女」と別れを告げた。

空港のロビーで彼女は振り向き、日本人らしく頭を下げた。そして、カラスのように騒ぎ立てている日本人観光客の群れのなかへと、飲み込まれるように姿を消した。

……………もう、2度と会うことはないだろう。

 

「1週間前、1人の女が私を訪ねた」

そう、デニスは言った。

デニスの青白い横顔は、口から漏らした紫煙と共に夕闇に浮かび上がり、どこか白い幽鬼めいていた。

 

「日本人の女だ。名前は“秋子”といった…。

『“可哀想な”子供を救って欲しい』と秋子は言った。

私は秋子の依頼を断った。

カネと女のために闘うヤツはいても、“可哀想な”子供のために闘うヤツはいない。コミックブックの中にでも探しゆけばいいだろう。

『ならば、私は“正義の味方”を探します』と秋子は言った。

私は笑った。秋子とはそれっきりだ。

そして、日本から“可哀想な”子供を救った君達がやってきた。依頼人は、“秋子”と同じ顔をした日本人の女。

私は想った。

 

君達と一緒に第三九龍城をさまよっていたのは、あの“秋子”自身じゃないのか、と。『冬の名前』をした女など、初めからいなかったのではないのかと。

 

ああ、確か中国のことわざでこんなのがあったな………。

 

……………梅の花を見れば、冬が消える」

 

梅の花を尾翼に飾ったチャイナエアラインの飛行機が、季節の名前をした女を乗せて、夕闇の中、東京ヘと消えた。

 

メキシコ エルトロス市サンクリストボカ区 サン・ロケ教会

アシュレイ神父は、新たに3人の「子供」と共に帰国した。

中国人の子供だった。

過酷な、あまりにも不条理で過酷な過去を、これから癒してゆかねばならない子供達だった。

孤児院が見える、教会の正門前。車を停めたルーイを待たせて、竜介とアシュレイが向かいあう。

「…世話になったな」

満身創痍。松葉杖を突いた竜介に、神父は微笑み首を振った。

「こちらの台詞ですよ。

この子達の件では、世話になりました」

蛇眼に『買われた』子供に、パスポートが下りるわけがない。戸籍も国籍すらもない。そんな子供達なのだ。そして今は、「名前」すらもない。本人達が、思い出せも口に出来もしないのだから。

その子供達を出国させたのが、「AEGIS」だった。

ガンドッグともワイズとも一線を画す組織だ。

ギリシャ神話の女神アテナが手にする、無敵の盾の名を戴く組織。各国企業へのセキュリティ・コンサルタント、政府要人へのボディガードへエージェントを派遣するその裏で、世界中の犯罪組織、テロ組織、反政府組織、そして時には政府そのものと暗闘を続ける。

その目的は、麻薬売買、人身売買、買売春の撲滅と、そういった罪に手を染める組織の壊滅。

コミックブックの中にしかいない。そう揶揄されるような男達が、「そこ」にはいた。

「…貴方がたの労に、私は報いる術がないのです。謝礼をお支払いするには、この孤児院は資産不足で、私の努力もまだ足りない…」

アシュレイの言葉に竜介が浮かべた笑みは、どこまでも深く穏やかで、そして太かった。

「ひとつ、もらいたい“謝礼”がある」

「…お支払い、できるものなら」

「君の力で、一刻も早く、彼らに『笑顔』を取り返してやってくれ。

そして、いつの日かこの子達が心の底から笑顔を浮かべた時、その顔を写真に撮って送ってくれ。アオイの社長室方、俺の名宛で…。

それが、俺達にとって最大の謝礼だよ…」

「…きっとお届けします」

短い、それが別れの挨拶だった。

 

今宵離別後 何日君再来…

 

肩越しに手を振る。そして、ルーイの待つ車へと竜介は去っていった。

それを見送り、アシュレイは天を仰ぐ。

これからが大変だ。己には、精神治療のノウハウなどひとつもない。AEGISが人的支援を約してくれたとはいえ、それに頼りきるわけにも、無論ゆかない。

子供達自身が心的外傷後ストレス症候群、いわゆるPTSDと闘う時、それはアシュレイの闘いともなる。そういう日々が、始まったのだ。

前途の多難さに目をくらませてはいられない。ここは、倹しくも楽しい「我が家」だった。ここには、友も、兄弟も、戦友もいる。そして、息子娘達もいる。彼らが助けてくれるだろう。それはきっと、甘えではないはずだ。

そしてアシュレイは、新たな「家族達」へと静かな笑みと共に振り向いた…。

「さあ、入りましょう。ここが今日から、君達にも『我が家』です…」

 

そして。数日後。

狼達は、報酬の支払い明細にデニスよりの伝言を見つける。

 

 

 

 

 

吉田四郎氏より君達に感謝の意を伝えて欲しいと連絡があった。

「甥の宏を助けてくれて、とても感謝している」

 

吉田四郎は独身だった。

木村秋子に兄妹はいなかった。

 

つまり、吉田真冬という人間は存在しない………。

 

今宵離別後 何日君再来

デニス・フィルビー

MISSION COMPLETE…

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