世界の卵(11)

11 世界の卵 2019年3月6日

 繭子は週に二度はカフェコクーンに通っている。カフェコクーンは千駄ヶ谷の明治通りに近いところにある卵専用レストランで、水とゆで卵しか出てこないのが奇異だが馴染むと通いつめてしまう。世界中の食用可能な卵のおよそ九割を揃えているという話で、すべての卵はボイルして提供される。昔見たバットマンの映画にはエッグマンという毎日卵だけを何十個も食べる怪人が登場していたが、通いつめる繭子もエッグマンになってしまいそうだと思った、いやエッグウーマンか。
 近所でアルバイトしているので毎日通り過ぎていたのに、入り口が狭いため店があることに気がついたのはずいぶん時間が経ってからだ。横幅80センチくらいのドアの両脇は違う店で、緑色の扉にはゆで卵のイラストがあり、この卵の中に身体を丸くして眠る男の子が描いてある。最初見たときはまるでバロットを描いているようで違和感があったが、この男の子のぼんやりした表情に魅せられた。このドアの絵はあきらかにしろうとが描いたものだ。ルイス・キャロルの不思議の国のアリスの文庫本を手にした時、文章の合間に挿入されていたのはプロの画家のイラストだったが、作者のルイス・キャロル自身が描いたという挿絵が巻末に参考として掲載されていた。アリスの夢の世界をプロの手になるイラストよりもはるかにうまく伝えていて、このルイス・キャロルの自筆の絵の雰囲気とこのカフェの扉の絵には通じるものがあると感じた。
 そのイラストが心に刻まれてからは店に入ってみたいと強く感じたので、ランチ時間に扉を開けてみると、狭い通路が続き奥の空間は広かった。ふたりの女性スタッフが愛想よく迎えてくれて「どの卵がいいですか?」と質問してきた。何にしますか、ではなく、どの卵がいいですか、という質問になるのは、このお店には卵しか置いていないからだ。いろんな種類の卵を複数選ぶ人が多いらしく、おかわり卵もするらしい。
 繭子は卵の種類をほとんど知らないので「普通の」と答えた。出てきたのは、ごく当たり前の鶏のゆで卵だったが、ほのかな香料の香りが気に入って頻繁にランチ時間に通うようになった。そういえば以前の中国では、映画館の空調が悪く観客は酸欠になっていたと聞いた。映画館の外にゆで卵の屋台があって、卵を食べて酸欠を回復させるのだと聞いたことがある。中国のゆで卵ならばきっと素晴らしい香りのものがたくさんあるに違いないが、繭子からすると濃厚すぎる。千駄ヶ谷のお店のゆで卵の香りはあるかないかというくらい淡く、口にすると煙のように頭の上に抜けていく。頭から鋭く突き抜けて行くのはアールグレイの紅茶の香りだが、ここのゆで卵はふわっと頭から蒸発するのだ。
 通っていくうちにだんだんと食べる卵の数が増えた。このまま行くと確実にエッグウーマンだ。そのうち日常でも卵以外のものを食べる気が失せてしまい、気がつくと夕食にも自分で卵を調理して食べるようになったが、どう頑張っても味はカフェコクーンには勝てない。
 カフェコクーンに通っているうちに、このお店はレストランだけでなく、いくつかの事業を展開していることがわかった。もっとも興味がわいたのはカフェコクーンの地下にあるコクーンカプセルホテルというもので、最初は普通のカプセルホテルだと思ったのだが、部屋は身体を伸ばすほどの長さはないらしく宿泊客は身体を丸めて眠るのだ。これが扉に描かれた身体を丸めて卵の中で眠る少年なのかもしれない。一泊料金が2800円と安価で、アルバイト収入しかない繭子でも気兼ねなく泊まれる。でもバスがないようなので、どうやって体を洗ったらいいのか質問したら、卵型の部屋の内側の壁から遠赤外線が照射され、皮脂腺から大量の汗が出て皮膚表面の汚れが流れ落ちるらしい。身体の脂肪層の奥深くに抱き込んでいる有害金属も排出され、とくに日本人の年配者は魚を食べることで年間6キロという世界一有害金属を抱えこむ国民だから、改善効果が著しいらしい。出てきた汗は床にある小さな穴が無数に開いたファイバーの敷物が吸い込んでいく。それから少し低温になって、やんわりした温かい空気の中で眠る。だからもちろん卵型のルームの中では裸で寝なくてはいけない。
 朝目覚めると爽快で、毎日コクーンカプセルホテルに泊まりたくなった。バイトの場所は歩いて三分のところにあるので食事はカフェコクーン、お泊りはコクーンカプセルホテルにすると、明治通り沿いの千駄ヶ谷三丁目の一角ですべてが賄えてしまう。実は繭子は電車が苦手で、近所の北参道駅も千駄ヶ谷駅も代々木駅も使いたくなかったし、歩くだけで済ませられるのなら理想的。自転車の運転は小石を踏むだけで倒れてしまうくらい不器用で、自動車の免許は持っていない。電車が苦手なのは、いつも電車の中で危険な人物に出会うからで、どうもそういう人間を引き寄せてしまうらしい。タクシーも告げた行き先とは違う場所で止まったことが何度かある。車の密室の中で運転手がミラー越しにずっと繭子の顔を見る。インドでは運転手はバックミラーで車の背後を見るのでなく、後ろに座った客を見ると聞いたことがあるが、繭子がタクシーに乗るとみんなミラーをインド人運転手がするような角度に曲げてしまうし、腕を掴まれたこともある。周囲の環境は繭子にまとわりつくようで、時には悪夢のようにも感じるので、バイト先、カフェコクーン、コクーンカプセルホテルの小さな範囲を行き来する暮らしができるならやすらぎが得られるのではないかと思った。

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