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"寛容"の社会だったらいいのに

#こんな社会だったらいいな というタグを見て、考えてみた。

別記事でも紹介したが、NewsPicsのこの対談で出てきた日本の和は"寛容"の文化であるというキーワードは自分の中で日にちが経っても引っかかっているのだ。

 

和というと、整然とした独自の様と思いがちだが、一方、日本の文化というものを紐解くと、ありとあらゆる様々な文化を混ぜ込んで咀嚼し続ける一面がある。正月とクリスマスとお盆が何故許されるのか、それは日本の文化が"寛容"の上に成り立っているからである。

 

【不寛容に舵を切る社会】

しかし、この国はいつからか不寛容であると声高に言われ始めた。そもそも日本人の民族的な特性として利己主義でありながら、村社会的な帰属意識が強いという傾向がある。

これに社会構造の硬直とインターネットが組み合わさることで、自分よりも少しでもいい状態の人間を引きずり下し、自分の正義に合わない人間を叩きのめす気持ち良さに酔いしれる地獄と化した。

正味な話、国が金を回すつもりがこれっぽっちもない時点で、経済的な回復が訪れる事は何一つないことは分かっている。つまり、30年後には現在の政令指定都市ですら市であることを維持出来ないレベルに陥る。人が足りないのに不寛容さが人を追い詰めていくのを、ただ黙って見ているのか。

 

【おもてなしをやめる】

今の日本の異常性の1つに"おもてなし"があると思っている。過剰なサービス性に子供の頃から慣れ過ぎた日本人は、自分の思う完璧なサービスが受けれないと過剰な反応を起こしている。

本来、質の高いサービスというのは、相応の対価によって発生する。しかし、"気付き"のような安い言葉で労働力が買い叩かれているのではないか。

コンビニで働いていた事があるが、あの時から比べて、今のコンビニの覚えなきゃいけない仕事は3倍くらいに増えている気がするのに、賃金はとてもじゃないがそれに見合ったお金ではない。

海外の屋台の動画をよく見るが、売っているものは1つであとはソースが違うだけ、なんだったらそのソースは自分で勝手にかけてくれという店だって少なくない。日本だったら500円握りしめていけば、小ぎれいにした店で水が出てきて、定食が食べれる。これが雪だるま式に拡大して、おもてなしの異常性に気付けない日本人を作っている。

 

【和を持って尊しと為すの正体】

社会は多様性の時代と言われているが、日本人がそれを受け入れるのは難しいと思っている。何故なら、利己主義で村社会的な帰属意識が強いから。自分とは違うもの、ソトから来たものを敵と見なす習性がある。多様性というのは、その他のあるがままを認めることであり、最も日本人の習性とは遠い存在だ。

だから、"寛容"の社会になればいいと思う。日本の和、日本の良いところとは何かと問われた時に、色々なものを受け入れる力が特別なんだと思えたら、自分とは異なるものに触れた時の姿勢が異なるのではないかと考えるのである。

非常に柔らかい言い方をするのであれば、ラーメンやカレーを思い浮かべてほしい。元は全く異なる食べ物であるにも関わらず、日本に持ち込まれて、姿を変えてしまった。たらこパスタなんかもそうだ。これはまさしく日本の"寛容"と言える。

先述の動画の中で、"寛容"を読み解く言葉として、『調和とノイズ』というキーワードが出てくる。和というものを考えた時に整然なイメージがあるが、実はノイズが混じることを許すこと、"寛容"することで和が成立するのではないかというのだ。

作庭術である『枯山水』が描く模様は波紋であり、揺れ、まさにノイズの上に成立している。また、茶器の欠けに侘び寂びを感じるというのも、発生したノイズに対する"寛容"と言えるわけだ。たらこパスタも小麦麺にアンチョビの代わりに魚卵であるたらこを加えて醤油というノイズを"寛容"した結果と捉えることが出来る。

和を持って尊しと為す、というのは完璧に、綺麗に、整然とした様ではなく、ノイズすらも許容する調和を意味していたと考えるべきなのである。

 

【繋がりをゆるめる】

生きる上でのノイズはどんなものだろう。お金や様々な要素がある。人で考えたらどうだろう。生活に困ってる人、障害者、マイノリティはノイズかもしれない。

どんどんと社会全体の核家族化が進んで、母子家庭の数も増えている。昔、学校で習った時に家族の形がどんどんと変わっていくと習ったはずなのに、社会のシステムがそれを許容出来ないまま、変化だけが進んでしまっている。

だから、どんどん繋がりが失われてしまっていて、助けすら届かなくなっている。

もっと社会が"寛容"になって、繋がりがゆるめられたら、お互いを助けることに躊躇しなくなるかもしれない。それは住んでる場所や人種さえ問わずに。隣の家に醤油を借りに行く関係性が失われたのは、いつからだろうか。

 

少しだけ立ち止まって、"寛容"について考えてみてほしい。自分は何かをゆるめているだろうか、と。

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