candy

―眼鏡をかけた、真面目な女の子。
その姿は私の鎧。けれど鎧は、軽くて動きやすい方が良いのだ。

1、ある日の放課後の教室で、私は大罪を犯した。
きっと私は地獄に落ちるでしょう、でもそれは先生も同じ。
―それだけ私は先生が欲しかった。
「先生、奥さんと子供がいるのに、私とこんなことしていいんですか?」
乾ききった口内を通る私の声は少しかすれて、やけに色っぽかった。
夕焼けが私たちを情熱の色に染める。
先生は何も言わず、ただ私の肩を抱いた。
そして私の唇にそっと触れた先生の指は、私に黙れとでも言いたいようだった。
私はそれを静かに受け止める。
私は知っている、先生のネックレスについている指輪には、先生と奥さんの名前が刻まれていることを。そして今は床に落ちている先生の今日の鮮やかなネクタイは、先生の娘からのプレゼントだということも。私は先生のネクタイを手に取りしばらくそれを眺めた。すると先生は私からネクタイを奪い、
「早く着替えろ。」
と言った。そして先生は目で私の制服を指すと自分もワイシャツのボタンを閉め始めた。
私はまるで、魔法が解けたのを惜しむようにゆっくりと制服を着始めた。先生は私をじっと見つめる。
その目は愛しいものを見る目で間違いなかった。
「送っていくよ。」
私が着替え終わると先生は車の鍵を出しながら言った。
「キスしていい?」
私のその言葉で一瞬、先生の時が止まる。先生は私を見つめ何かを言おうとしていた。
けれど今更、「ダメ」なんて先生は言えるわけがない。さっきまでのことを、ただ魔が差しただけのことに出来ないことぐらい、先生は分かっているから。私は背伸び

して先生の唇に自分の唇を重ねる。先生は目を閉じずに、ただ私からのキスを受けた。
「帰るぞ。」
そう言うと先生は私に背を向ける。
「先生、私のこと好きですか?」
私は先生とのキスで受けた潤いで、今度はかすれずに声を出すことが出来た。
先生は私の方へ振り返る。
「ああ。」
そう返事するとまた私に背を向けた。まるで罪悪感に背を向けるように。
歩き出す先生に私はついて行く。
私は先生の横に立ちそっと手の甲で先生の手に触れる。するとそれが合図であるかのように、先生の指と私の指が交わった。
先生は私のことが好きだ。
真面目な私が隠す、性急な本能に先生は溺れる。
私の眼鏡で隠す、欲望にまみれた瞳に先生は魅入られてしまったから。
まさに秘めたるは花、である。私の秘める花の蜜はきっと甘く、癖になるのだろう。


そんなことを考えながら、私は先生の車の助手席に乗る。
この助手席は本来ならば先生の奥さんの席だ。
かすかに私の大嫌いな香水の匂いがする。
「くさい。」
そう言って私は走り出した車の窓を開けた。私たちの関係には不釣り合いなさわやかな風が車に入ってくる。
「すまない。」
そうぽつりと先生は謝罪した。
―それは何に対しての謝罪?
出かかったその疑問は静かに私の胸へとしまわれる。
沈黙がさわやかな空気を重くして、私にとっては居心地が良かった。
このまま、どこかに行ってしまいたい。先生はそんな風に思っているかもしれない。
だって先生は私の家までのルートの中で一番時間がかかる道を選んでいるから。
―それとも、私を錯覚させて放さないための餌?
運転する先生の横顔を見ながら私はそんなことを思った。けれどもう日はとっくに落ちている。もう、先生が生徒を連れまわしてよい時刻ではない。


「着いたぞ。」
私の家の前に先生の車が着いた。
私はシートベルトに手をかけたまま俯いた。
「どうした。」
なかなか降りない私に気づき先生はハンドルを握ったまま私を見ずに聞いた。
「明けぬれば・・・」
「ん?」
私の声がうまく聞き取れなかった先生は聞き返しながら私の方を見る。
私は先生を見て、続けた。
「明けぬれば 暮るるものとは 知りながら なほうらめしき 朝ぼらけかな」
私のその詩に先生はふっと口を歪め、私の頭を撫でた。
先生の口が開く。
「瀬をはやみ 岩にせかかる 瀧川の われても末に あわむとぞ思う」
―あぁ、不倫の結末に結ばれることを選ぶなんて。
私は私の頭に置かれた先生の手を取り、その手にそっと口づけをした。私の唇から頬へと移動する先生の指一本一本の動きがゆっくりで、やけに色っぽかった。


そしてじれったいほどゆっくりな、嗜むようなキスの後私は少しの笑顔を先生に見せ車を降りた。
私は先生の車を見送る。
一回鳴ったクラクションが、耳に残るほど高い嫌な音だった。
「瀧川や 流され末に海なりて 合わさる時はひとときなり すぐに熱され 虚無の枯れ川」
私は月の光だけが明るい夜の空にそう呟いて家に入った。

2、最初は、先生をからかう生徒のいたずらだと思った。
俺のような妻子を持つ中年の男を、若くてしかも不倫なんて頭にもないような真面目な眼鏡をかけた女子高生が好きだと言った。
高校生なんてほんの子供だ。そう思っていた俺はその生徒を少しからかってやろうと、その生徒にキスをした。けれど次の瞬間、真面目という飾りを脱いだその生徒は酷く、美しかった。そして滴る蜜は舐めれば舐めるほど甘く、癖になった。
波のように押し寄せる性の欲求に俺は流され、恋に溺れる、その表現に俺は初めて共感した。


俺は妻を愛していたはずだった。
出会ったばかりの頃の妻は、今よりもずっと大人しく可愛い人だった。
けれど結婚生活に慣れ、子供が出来た妻は徐々に本性を出し始めいつしか気性の激しい人になった。
そしていつの間にか俺たち夫婦の心の距離は広がっていった。毎日同じ生活を送り会話もほとんど無く、最近ではお互いに「いってらっしゃい」の言葉もない。
きっと子供がいる家庭ではありふれたことなのかもしれない。               けれど妻が権力者となったこの家では俺はあまりにも窮屈すぎた。
虚しさを感じるようになった俺の心の中の「家族」というものは、春のそよ風に吹き飛ばされるほど軽いものになりかけていた。
初めて妻に会った時、俺は直感的にこの人と結婚する、そう思った。そして付き合って一か月で娘が出来、俺は結婚を決めた。
けれどある生徒に恋溺れている今、妻との出会いを振り返ってみればあれは恋なんかじゃなかった、そう断言できる。
その生徒に恋するまでは俺は妻を愛してると思っていた。
そして、妻の暴君さを目の前にしてもまだ目をつぶることが出来ていた。


妻と心の距離は広がりながらも、育児もそれなりにしていたし、妻を気遣っていた
つもりだ。俺は家族のために働いていたし、家族を思えばどんなに仕事がつらくても頑張れる、そんな理想的な父親であったはずだった。しかし俺は変わってしまった。
「先生、奥さんと子供がいるのに、私とこんなことしていいんですか?」
かすれているけど、どこか色っぽい声で生徒は聞いた。その多くの思惑が含んだ問いに、俺は答えられなかった。
―うるさい。
俺は生徒の唇に触れた。俺のこの気持ちを察するように生徒は黙り俺を見つめた。
白石あかね、その生徒を俺は白石と呼んでいた。
名前のごとく色白で、口紅も塗ってもいないのに赤い唇をしていた。
白石との出会いは、白石が高校三年になる始業式の朝だった。
赴任してきたばかりの俺は、校門での服装チェックで注意されている白石を庇った。生まれつき唇が赤いのだと主張する白石に、口紅を塗っているのに嘘をついているとある先生が言っているのを聞いた。
俺は自分の娘も唇が赤かったことを思い出し、何だか居ても立っても居られなくな


った。
結局俺は白石を庇い、赴任一日目にして白石を注意していた先生に目をつけられてしまったが、白石を守ることが出来た。
「大丈夫?」
俺は白石の顔を覗き込んだ。確かに注意されてもおかしくないほど唇は赤い。
「ありがとうございました。」
白石はしっかりと頭を下げて礼を言い、まさに真面目という感じであった。
「気にしなくていいよ、俺の娘も唇赤くてね。なんだか君が注意されてるのを見て、いても立ってもいれなくなったんだよ。」
“娘”、そのフレーズを言った時、一瞬だけ白石の身体に力が入ったような気がした。
「・・そうだったのですね。私、白石あかねと言います。3-6ですので教科担当だったらよろしくお願いします。」
白石は少し柔らかい表情となり言った。
「教科担当、というよりは副担任だね。」
「え・・・。」
白石はちらりと俺が首から下げていたネームプレートを見た。


「・・・佐伯颯太先生が、副担任なんですね。」
俺は自分の口元に人差し指を置きシーと言った。
「まだ始業式前だから言っちゃダメなんだけどね。」
俺は笑いながら言った。
「改めて、これからよろしくお願いします。佐伯先生。」
くすりと白石は笑うと礼を言い、校舎へ向かった。
真面目で純粋な女の子。
そんなどこか可愛らしい印象を白石から受けた俺は、自分の娘と白石を重ね合わせていたかもしれない。
俺は白石に愛着を持った。
約半年間、俺は白石を生徒として可愛がった。
そして愚かなことに今は白石を女として愛している。
狂った歯車は、狂ったまま回り続ける。
どんなに歯車を止めようと試みても、微笑みを浮かべながら白石は白く細い手で、歯車を止める俺の手を包み込み、歯車を止めさせてはくれない。
むしろ歯車の動きを加速させる。


家での居心地の悪さから、そんな刺激的な禁断の愛を俺は心のどこかで求めていた
のだろう。
「明けぬれば 暮るるものとは 知りながら なほうらめしき 朝ぼらけかな」
白石と初めて寝た後、車の中で白石が俺に詠った。
―さようならしてしまうことが分かっているのに、別れ際が恨めしい。
白石はそう思っているのだろう。百人一首に載っている詩だ。
「瀬をはやみ 岩にせかかる 瀧川の われても末に あわむとぞ思う」
―今は離れてしまってもきっといつか結ばれる。
俺はそんな風に返した。
なかなか臭いやり取りだったが、不倫の汚さと合わせるとやけに粋なやり取りに感じられる。
白石を家の前で下すと、俺は音楽を掛けずに無心で車を運転し、家に帰った。
俺が不倫しているとも知らない妻は、珍しく俺に食事を用意しリビングのソファでうたた寝をしていた。
―不倫して帰った時に限って、この待遇はなんだ?
不倫して帰り、妻から良い待遇を受けることに少しの罪悪感と、気持ちの悪さを感


じた俺は妻を起こさないようそっと台所に向かい一杯の水を飲んだ。
「おかえり」
俺のそんな意図に反して俺に気づいた妻はむくりと起き上がる。
「寝ててよかったのに。」
俺は素っ気なくネクタイを緩めながら言った。
「たまにはね。」
やけに笑顔で妻は近づいてくる。
「どうしたんだよ、いつもならご飯どころか挨拶さえちゃんとしてないのに。」
俺の言葉に今までの鬱憤が言葉に含まれる。
「忙しかったのよ。」
そう言って妻は俺の背中に抱きついた。
俺はすぐに妻の手を振りほどいた。そして疲れてるんだと言わんばかりの表情を妻へ向ける。
「・・・なんなんだよ・・」
俺はぼそりと言った。
「・・だって・・。」
妻は俯き今にも泣きそうな声で言った。


「今日は私たちが初めて出会った日じゃない・・。」
俺はリビングにかけられたカレンダーを見た。確かに今日の日付が赤丸で囲ってある。
「だから、今日早く仕事上がれるようにするために、最近仕事を詰め込んでたのよ・・・。」
そう言うと、とうとう妻は泣き出した。
妻は普段見せない女の姿を時々見せ、俺に罪悪感を植え付ける。
記念日なんていつもは大切にしないくせに、俺が不倫して帰った時に限ってこの態度だ。
なんてタイミングが悪いのだろう。
―センサーでもついているのか?
しかし俺は妻の涙を見てようやく自分の犯した罪の大きさをようやく実感したような気がした。まさか白石と初めて寝た日と、妻と初めて出会った日が同じだなんて、思いもよらなかった。
「ごめん・・・。」
妻の涙とカレンダーの赤丸が俺の心にチクチク刺さる。


「ごめん・・本当にごめん。」
俺は妻の背中を優しくなでた。
「わかってる、大丈夫よ・・。」
妻は涙をふくと顔をあげて笑顔を見せた。
「仕事、頑張ってくれてるんだもんね。私たち家族のために。」
―違う、そうじゃない。
俺は今まで不倫してたんだ、それも生徒と。
その真実を言えたら俺はどれだけ救われ、どれだけのものを失うだろう。
俺は何も言えずただ妻を抱きしめていた。
「あれ・・・?」
妻が俺の胸元で声を上げた。
「どうした?」
俺は少しひやひやしながら妻を抱きしめる手を緩め妻の顔を覗き込む。
「・・これって・・・。」
妻が手にしているのは明らかにプレゼント用にラッピングされた何かのケースだった。


「あなたのポケットから出てきたわよ?」
妻は心底嬉しそうな顔をして俺を見た。
もちろん俺には買った覚えがない。俺のポケットにこっそりこんなもの入れるのなんて白石以外ありえない。俺は白石の謎の行動に少し怖くなって身震いをした。
そんな俺の心中も知らずニコニコと妻はラッピングを取り箱を開けた。
「・・・可愛い・・。」
箱の中には青いアジサイの飾りのついたネックレスが入っていた。
「ありがとう、やっぱり覚えててくれたのね。」
そう言うと妻は俺に抱きついた。
「も、もちろんだよ。」
俺はドキドキしながら、この血の気の引いた俺の顔を妻に見られないようにするために妻を抱きしめた。
俺と離れてからもニコニコしながら妻はネックレスを見つめる。
―青いアジサイの花言葉は確か浮気、古文では花は移ろいゆく物。
白石はどんな気持ちでこれを俺に忍ばせたのだろう。
「あなた」


白石の意図をくみ取ろうと頭を働かせていると妻が俺を呼んだ。
「どうした?」
ごきげんな妻は口角が上がりっぱなしだ。その顔は誕生日プレゼントをもらった時の娘とそっくりだ。
「つけて?」
妻はそういうと俺にネックレスを渡し、背中を向けた。
俺は震える手で妻に、白石からもらったネックレスをつける。つけた瞬間、白石の笑った顔が俺の脳裏に浮かんだ。これも全て白石の思惑通りなのだろう。
「似合う?」
眩しいほどの笑顔で妻は言った。夫から記念日にネックレスを貰うという、まさに幸せと言えるこの状況が不倫相手の女の策略だとは妻は夢にも思わないだろう。
「ああ、似合うよ。」
俺は震える手をアジサイに伸ばした。見る角度を変えると光が当たってアジサイはきらきら光る。
「綺麗ね。」
妻は俺の手を取り指を握った。


―その指で俺は白石の唇を触った。
薄汚れた俺は妻と白石を重ね合わせてしまう。
きっと妻がこんな女ではなく白石だったら、アジサイの意味に気づいて一つ詩を謳うだろう。そして不倫した俺を殺し自分も死ぬだろう。
―白石に恋してしまった俺はメルヘンな古典の世界にでも堕ちてしまったのか?
俺は自分で自分が気持ち悪い。俺は不倫したこの薄汚れた体で妻に触れ、妻を抱きしめながら不倫相手を思い出す。そして密かに、アジサイの花のネックレスを選んだ白石に惚れなおす。
「ねえ、あなた?」
冷たく冷え切った手で俺の手を握る妻が俺の顔を覗き込む。
「どうした?」
少し恥じらいを見せる妻に不信感を抱きながら俺は聞いた。
「理奈がね・・。兄弟が欲しいって・・・。」
娘の名前を出す妻からはひしひしと恥じらいと願望が伝わってくる。
「そっか・・。」
俺はそんな妻の様子を見て若干引いた。


夫婦ならば普通のことだ。けれど俺はもう普通の夫ではない。
「だめ?」
妻は顔を歪めた。
きっとここで断れば機嫌の悪い、あの魔王のような妻が現れる。
「・・いや・・。」
俺は目を泳がせながら、何とか妻の誘いを断りつつ状況を良くしようと試みた。
しかし妻は今の返事をイエスと捉え、俺にキスをした。
―明日も仕事だ、今日は疲れてる。
そんな言い訳も全て吸い取られるように妻に促され、俺は妻と寝た。

3、昨日私は、先生のポケットにアジサイのネックレスを入れた。もちろん、先生の奥さんへのプレゼントとして。どんな顔で先生は今日の朝私に会うのだろう。
そんなことを考えながら私は家を出た。すると見覚えのある人が家の前に立っているのが見えた。
「おはようございます、佐伯先生。」
私はにっこりと笑って先生に挨拶をした。


「昨日は楽しめましたか?」
目の下に隈がくっきりと表れ、顔色の悪い先生に私は言った。
「やっぱりお前か。」
少し速足で歩き始めた私を先生は追いかける。
「なんであんなことしたんだよ。」
先生は少し怒り口調で聞いた。
「分からないですか?」
私は足を止め先生を振り返った。
「アジサイの意味は分かったけど。何であんなもの用意したか聞いてるんだよ。」
私はその質問に一瞬真顔になる。
きっとその顔は背筋が凍るほど怖いのだろう、先生の顔が強ばった。私はすぐ笑顔になり
「先生と一緒に登校できるなんて、嬉しいなあ。」
そう言いながらまた道を歩き始めた。
「おい、答えろよ」
先生は歩き続ける私の腕をつかんだ。


そっと私は足を止めた。
「まだ。」
そう私はつぶやく。
「まだ知るのには早いですよ。先生。」
私は愛しい恋人の方へ振り返る。
「まだって・・・いいから・・」
―早く言え
先生のその言葉を私は唇で止めた。
先生は急いで私から離れる。
「馬鹿・・!誰かに見られたらどうするんだよ!」
先生は少し顔を赤らめて言った。
―今更、なんで顔赤くなってるの?
そう思ったけれど私は口では全く違う事を言っていた。
「朝に奥さんが淹れたコーヒー飲んできたでしょ。」
私は軽い力で先生のおなかにパンチして、少し笑うとまた学校へ向かって歩き出した。


先生は一つため息をつくと私の隣の車道側に並んだ。
「アジサイも川も、いつかは枯れますよ。」
私は前を向いたまま言った。
「・・・むしり取っちゃだめか?」
先生はぼそりと言った。
私は何も言わなかった。
―むしり取るなんて、直接的でつまらない。
私は密かに口角を上げた。
「大丈夫。」
今度は先生を見て言った。
「儚いから、美しいの。」
そう言って私は先生の手の甲に自分の手を当てる。
次の瞬間交じり合った手は異様なほど熱を持っていた。

4、初めて白石と寝てから一か月が過ぎたころ、妻の妊娠が分かった。けれどその間にも俺と白石の関係は続いていた。


「先生?」
事後の布団の中で白石は俺を呼んだ。
「どうした?」
俺は白石と向き合い、白石の頬を撫でた。
「先生の奥さん、ご懐妊?」
その言葉に俺は固まった。
「やっぱりね・・・。」
白石は俺から目線を外し、天井を見た。
「怒ってる?」
俺は布団の中で白石の足に自分の足を絡めた。
「別に。」
そう言うと白石は上半身だけ起き上がった。
綺麗な白石の背中に俺は夢見心地で見とれる。
そして俺も起き上がり白石の首筋に顔をうずめた。
甘く、天然のいい匂いが俺の鼻腔を通る。
「あの晩でしょ?」


白石がふと声を漏らす。
「あの晩って?」
俺は顔をあげて白石を見た。
「奥さんが妊娠したの、あのアジサイのネックレスの晩でしょ?」
白石が話しているのは妻の話なのに、俺が思い出すのは白石を初めて抱いたあの時だった。
「ああ、そうだよ。あの日以外妻とはしてない。」
俺はベッドに乗っている白石の手を握る。
「私と奥さん比べたりしてるの?」
俺の心を見透かした目で白石は言った。俺は一瞬生唾を飲んだが
「してないよ。君は君だ。」
と言った。
―嘘だ。俺は白石と妻を比べて君を、なんていい女なんだと思っているのに。
「そう。」
そう言って白石は髪をかき上げる。疲れたその表情はどこか色っぽい。
「もう少し休んでいかないか?」


俺は少しでも白石と居たくて、休むように言った。
「それってほんとに体、休まる?」
笑いながら白石は両手で俺の顔を包んだ。
「どう思う?」
そう言って俺はそっと白石に口づけた。
「先生しだい。」
白石のその言葉を合図にどちらからともなく深いキスが始まる。
間もなく二児の父親になる人間として俺は終わっているが、今はそんなことどうでもよかった。
押し寄せる波も何もかもを全て飲み込む濁流に俺は逆らわず、心地よく流されていたかった。

5、妻が臨月になる頃、妻は俺を八つ当たりの道具にしていた。俺はどんなに仕事が忙しくても家事をして、娘の世話をして、妻のわがまままで聞いた。けれどそんな努力の甲斐もなく、少しでも妻の気に入らないことがあれば全て俺のせいとなり、俺は夫と思えないほどひどい扱いを妻から受けていた。


―まるで召使いだ。
そんなストレスの中、唯一の癒しである白石に二人っきりで会うことが出来ず俺はどんどん意気消沈していった。
唯一妻から解放される仕事の時間だけを待ち望む毎日であった。
そんなある日すぐには帰れない口実として、放課後の誰もいない3-6の教室で俺は事務作業をしていた。その時ガラガラと勢いよく教室のドアが開いた。
「先生。」
その声は俺が欲する白石の声だった。
「白石・・・。」
ずっと会いたいと思っていた白石を目の前にし、俺は場所なんて考えず白石を抱きしめた。
「先生、大丈夫?」
そんな俺を拒まず優しい声で白石は聞いた。
「先生、最近凄く痩せたし、顔色悪いし、元気ないから。」
俺は久しぶりに嗅ぐ白石の甘い香りに癒され、暖かい白石の言葉になんだか涙が出そうだった。


「ありがとう・・・。」
俺は静かに礼を言った。
そして白石を離した。
「先生。」
白石は真面目な顔をして俺を呼んだ。
「・・・どうした?」
その顔の真剣さに俺は少し不安がよぎった。
「先生、私もう限界・・・。」
白石は涙ぐみ俺を見上げる。かすかに震えている潤いを持った白石の赤い唇は俺からのキスを待っている様だった。
「・・限界って?」
俺がそう聞くと白石は俺のネクタイに手を伸ばした。
「おい?」
白石のしようとしていることを察知し、俺は白石を止めようと白石の肩を掴む。
「何もしないから、黙ってて。」
俺の躊躇も気にせず白石は俺のネクタイを解いた。そして俺のワイシャツの第一ボタンを外す。
俺の首には結婚指輪が付いたネックレスがあった。
白石はそのネックレスに触れ、そして俯いた。
「・・・先生、私やっぱり嫌なの。」
白石はネックレスから俺の胸元に手を動かしゆっくりと俺の顔を見た。
「なにが・・?」
俺はかすれた声でただ茫然と白石に聞いた。
「限界なの、先生に奥さんがいること、先生に子供がいること、全てが。」
白石は言葉をうまく発せないほど落ち着きがなく、震える手で俺のワイシャツを握りしめる。俺は震える白石の肩を両手でつかんだ。
「先生と出会うまでは、不倫する人の気持ちなんて分からなかった。」
きっと真面目な白石は今まで自分は不倫とは無縁だと思って生きていたのだろう、俺と出会うまでは。
「でも先生にキスされるたび、奥さんへの罪悪感を忘れてもっと先生を欲しいと思うようになっていった。」
自分を憐れむような口調で白石は言った。
「でも、このままじゃいけない。」
白石は悲しい顔をして俺を見る。


「だから、先生。」
白石は俺の腕を掴んだ。俺と白石の視線がぶつかる。
「選んでください。」
そう言って白石はまたゆっくりと俺のネックレスに触れる。
「この指輪も、ネクタイも、家庭も、仕事も全部捨てて、私を選ぶか。」
俺はごくりと生唾を飲んだ。
「それとも、もう二度と私に触れないと約束して生徒と教師との関係に戻るか。」
そう白石は言い終わると俺から少し離れ、震える手で制服のスカートを握り俯いていた。
俺は働かない頭を懸命に動かしたが、咄嗟に選ぶことが出来ず白石のことを見続けた。心は白石に傾きかけているにも関わらず、白石が欲しい。その一言が出なかった。
しばらくの沈黙の後、俯いていた白石の顔がゆっくりと上がる。固く結ばれていた白石の赤い唇が開いた。
「・・・さようなら。」
そして眼鏡の奥にある俺を魅了する白石の目からは大粒の涙がこぼれた。


さようなら、その白石の言葉が俺の耳に残り何度もこだまする。
―離したくない。
そう思い俺は背を向けて歩く白石の腕を引っ張りそして力強く抱き寄せた。白石の華奢な肩が震え、すすり泣く声が聞こえる。
「何もいらない、何もいらないから・・・!白石がいてくれたら俺は何もいらないから・・・。」
俺は泣きながらさらに強く白石を抱きしめる。
そして白石をこちらに向かわせ、強引にキスをした。
俺は首にかかっている忌々しいネックレスを引きちぎり床に落とした。
床に指輪の落ちた音が、俺を捕えていた鎖の外れた音に聞こえた。
抱きしめ返す白石の細い腕や俺を求める真っ赤な唇が俺の欲求を満たしてゆく。
「先生、聞いて。」
あがる息のなか、おでこを合わせたまま白石が俺の目を見て言う。
「今日の7時にこの街を出ようと思うの。」
今、時計の針は午後の5時を指してる。
「・・・どこにいく?」


俺は白石の頬を撫でながら言った。
「大丈夫、私についてきて。」
頼もしいほど強い瞳と優しい笑顔で白石は言った。
「・・分かった。俺はどうすればいい?」
年下の頼もしさに可愛げを覚え俺は自然と笑顔になった。
「7時までに荷物まとめて学校裏に来て。奥さんにばれないようにね。」
そう言って白石は俺にラッピングされた箱を渡した。
「これで奥さんの機嫌とって」
白石は細い指で俺の髪をかき分けながら優しく言った。
「ごめんな。」
俺はそう言って白石から箱を受け取った。
「いいよ、早く準備しておいで。」
白石は俺の頬に優しくキスをし、俺の背中を軽くポンポンと叩いた。
それに促されるように俺は家に向かった。

6、先生が出て言った教室には先生の残り香とネックレスとネクタイ、パソコンが


あった。
私はカバンから小さめの袋を取り出し、先生のネックレスについた指輪をいれる。
そしてパソコンにSBカードを指して佐伯颯太と、この学校の生徒全員の情報を入手した。
SBカードも大切にしまうと私は携帯を手に取り電話を掛けた。
『こちら情報班08番の西城です。任務達成報告いたします。』
『本人確認のためスパイ名をお願いします。』
『白石あかねです。』
『はい、かしこまりました、上へお繋ぎいたします。』
少しの間があって、幹部へ電話がつながった。
『ああ、西城君。お疲れ様、今回の任務は随分と時間がかかったねえ』
『今回は復讐も兼ねていますから。佐伯颯太と駆け落ちできるまでの関係を築くまで時間がかかりました。』
私は若干嫌みのこもった上司の小言に“復讐”というユーモアたっぷりのフレーズを入れて返答をした。
『復讐?誰にかね?』


やっぱりね、と思うほど上司は“復讐”という言葉に食いついてきた。
『それはもちろん、佐伯颯太とその家族に。』
私はにやりと笑って言った。
『復讐相手と駆け落ちかね?随分と思い切った行動するんだね。』
上司は声をあげて笑った。
『相手にとって一番大切な僧侶になることで、相手から一番大切なものが奪えますから。』
『ほう。』
電話相手の上司は、今はもう頭のあまり働かない老いぼれだが、数々の業界に顔の利くかなりのやり手だ。そんな上司に気に入られればこれから行う私の復讐に大いに協力してくれるだろう。
『近いうちに結婚も。』
私のこの言葉に電話の相手は爆笑した。
『さすがだね、西城君。好きでもない相手と結婚だなんて、さすが自分の母親を手にかけたことがある女だよ。君を気に入った。』
思惑通り上司は私を気に入ったようだ。


『ありがとうございます。』
私はすかさず礼を言った。
『夫を持ってなかなか難しいかもしれないが、この仕事は続けてくれよ?君にはスパイの才能がある。』
『ええ、それなりの報酬があれば。』
上司が私を面白がる笑い声が聞こえる。
『もちろん、君が満足する程あげよう。』
『ありがとうございます。ではまた後日、依頼の品お届けにあがりますね。』
『最後に一つ聞いていいかね。』
話を切り上げようとする私の意向を無視し上司は私に言った。
『ええ、なんでもどうぞ。』
私はもう邪魔な鎧となった眼鏡をはずしながら言った。
『どうして、復讐相手の僧侶になることが復讐になるのかね?』
―スパイの幹部なんて役職に就いているのに鈍い人だ。
私は上司に呆れながらも答えた。
『復讐相手の大切な人になることで相手をどこまでも幸福にすることが出来る、で


もその一方でこの世のどんなことよりも辛く不幸な出来事を相手に起こす方法がある。』
少しの間があって電話相手は答えた。
『・・・大切な人である君が、いなくなることかね?』
ふっと私は笑った。
『では、失礼いたします。』
そう言って私は電話を切った。
佐伯颯太は私の本性を知らない。
本性どころか
私がさっき佐伯に渡した、ラッピングされた箱に入った指輪に含まれている物質が母体に悪いこと、アジサイのネックレスの宝石には一か月以上浴びたら危険なほどの放射能が含まれていることを。
そして夢あふれた私との楽しい駆け落ち生活の最後には私に裏切られ、佐伯は、自分はこの世のどこにも居場所がないと実感するということを。
「復讐の炎の熱さで、瀧川も海もからっからに蒸発ね。」
私は佐伯のネクタイとパソコンを外に捨てるため手に持ったままカバンを肩にかけ、


教室を後にした。
かすかに、さっき上司が言った「好きでもない人」というフレーズが心に残りながらも。

7、西城優香、それが私の本名だ。私は幼い時から何事にも恵まれていなかった。本当の父親にはあったこともなく、母は育児放棄していた。唯一私が持っていたものは人目を惹く整った顔だけだった。けれどこの顔のせいで私は母の再婚相手を夢中にさせ、母から殺意を向けられる毎日だった。私はろくに幼稚園や保育園にも行かせてもらえず、満足に食事もさせてもらえなかった。母の再婚相手が家に訪れた時だけ私は食事をさせてもらえることが出来、暖かいお風呂にも入れてもらえた。幼いころから頭の良かった私は母の再婚相手を手玉に取れば母の虐待から逃れることが出来ると思い、ある日私は母の再婚相手に助けを求めた。私の思惑通り母の再婚相手は私の味方となり、私は母から再婚相手を奪うことに成功した。悲しいことにその幼さで男を手玉に取る方法を私は知っていた。もちろん母は私から再婚相手を奪い返そうと試みたが、不可能であった。泣き崩れる母に私は「ごめんね」と言ってこっそりナイフを近くに置いて家を出た。案の定、母は自殺した。


私が母を殺したのだ。
今でも時たま母の夢を見る。その夢に出てくる母は私に虐待をする怖い母ではなく、再婚相手が家に来るからと、上機嫌で私をお風呂に入れる笑顔の母だった。
母が死んでからは、私は母の再婚相手に育てられた。けれど私が10歳の時にその再婚相手は佐伯颯太の妻である佐伯美和子に殺された。私の復讐は佐伯美和子を始めとする佐伯家全員を苦しめることだ。だから私は佐伯颯太に近づき、佐伯美和子から佐伯颯太を奪った。
しかし私は佐伯家の人間である佐伯颯太を殺したいほど恨み、そして愛してしまった。
佐伯颯太を殺したいと思う黒い私と、佐伯颯太を自分のものにしたいと思う真っ赤な私がいつも私の中に居る。
―恨んでいたのに、愛してしまうなんて。
私は母の再婚相手の写真を眺めた。
「待っててね・・。パパ・・・」
こぼれる涙をぬぐい忘れるほど、強く入った手の力を私は必死に抑えた。

8、白石との約束の時間まであと二時間。俺は急いで車を走らせ家に向かった。
家に着くとあからさまに不機嫌な妻がソファに横たわっていた。
何も言わず俺は自室へ向かい、急いで服をカバンに詰める。通帳を探すため棚を手当たり次第に開けていると一番上の今まで何も入っていないと思っていた棚に一枚の写真があった。そこには笑顔の妻と俺の知らない女性が映っていた。
「ちょっと。」
いつの間にか俺の背後には妻がいて俺からその写真を奪った。
「そんな人、友達にいたか?」
俺は妻に聞いた。
「いないわよ。」
妻は写真を元の棚に戻しながら言った。
「もう死んだわ。」
悲しむ様子もなく妻は冷淡に言った。
その様子はまるで首にかかっているネックレスの青いアジサイの様だ。
「そっか。」
俺は妻を今すぐこの部屋から出し、俺が家を出る隙を作りたいと思いある行動に出


た。
「美和子。」
俺は妻の名前を呼び、ポケットからラッピングされた箱を取り出した。
「この10か月間、子供を守ってくれてありがとうな。」
俺は今できる最大の優しい笑顔を妻に向けた。
妻は驚き俺の顔を見た。
「これ、お礼だよ。」
そう言って妻に箱を渡した。妻は震える手で箱を受け取り涙を流す。
そして箱を開けると、綺麗な指輪だった。
「ありがとう・・・。」
妻は嬉しそうにその指輪を指にはめた。恐ろしいことに白石が準備したその指輪は妻の指のサイズにぴったりだった。
「少し早いけど、今日はもう体を休めるために寝なよ。家のことは全部俺がするから。」
そう言って俺は妻の肩を抱いた。
妻はただ頷いて、いまだに涙を流している。


そして妻を寝室へ見送ると俺はまた通帳探しに戻った。
通帳を見つけ、もう準備は万端だと思ったがやはりさっきの妻の写真が気になり俺はそっとその写真をしばらく眺めた。
「パパ?」
その時後ろから娘の声がした。俺は焦った勢いでバックにその写真を入れて娘の方へ振り返った。
まだ眠くない、と駄々をこねる娘を俺は急いで寝室に送り、妻が寝静まったのを見ると家を出て、白石と約束の場所へ向かった。
約束の場所を目前に時計を見ると18時50分。白石の姿はなかった。
―本当に大丈夫だろうか。
―白石は本気で俺と生きることを望んでいるのだろうか。
俺は色々な想像を膨らませ、不安はどんどん大きくなる。俺は歩くスピードを速めた。
「先生。」
声する方を見ると、制服を脱ぎ眼鏡もかけていない美しい白石がこちらに駆け寄ってきた。その様子はもう高校生と言う身分を捨て、好きな男の前に現れるためにお


めかしした女性の姿だった。さっきまでの暗い気持ちはどこかへ行き、俺はすぐさま笑顔になる。
「待った?」
俺は白石に聞いた。
「焦らなくても良かったのに。」
そう微笑んで言う白石に俺は重そうな荷物を半分持とうと手を伸ばした。
「大丈夫。持てますよ。」
白石は笑顔で俺にそう言うと、空いている手で俺の手をギュッと握った。
「もうそろそろ電車の時間ですから、行きましょう。」
白石は目の前を通ったタクシーを呼び止めた。
車内に入っても俺たちは手を離さなかった。
「駅までお願いします。」
そう白石が伝えるとタクシーは走り出した。俺たちの関係を知ってか知らずかタクシーの運転手は俺たちを何も詮索してこなかった。
駅に着き、金を払って車を降りた。
「ありがとうございました。」


白石は律義に運転手に挨拶をしてタクシーを降りた。
俺はそんな白石を見て少し口角が上がった。
「どうしたの?」
俺のそんな様子を見て不審に思った白石は歩きながら俺に聞いた。
「いや・・・。」
俺は何も言わずただ白石の頭をぐりぐり撫でた。
「ちょっと、やめてよ。」
白石は嫌な顔しながらも嬉しそうに笑った。
―地獄から天国に這い上がったな。
俺はそんな風に思った。そしてこの幸せがいつまでも続くことを願った。

9、電車で約1時間、人気の少ない田舎に「思いやり荘」という、お金持ちの気まぐれで
運営している訳アリの人たちが安い賃料で住めるアパートがあるらしい。入居できる条件
は愛している人がいることらしい。けれど私がこの思いやり荘に行く目的は駆け落


ちだけではなかった。スパイである私の今度のターゲットが思いやり荘にいるらしい。まだ任務内容を聞いていないが、思いやり荘に住むことでより任務達成しやすく佐伯颯太へ復讐するチャンスも得やすくなる。
「思いやり荘ね・・。」
佐伯は電車に揺れながら、夕食のおにぎりを食べながら言った。
「そう、しばらくはそこに住んでお金貯めたいなあ、と思って。」
私はカバンからお茶の入ったペットボトルを取り出し佐伯に渡した。
「いいね、そうしよう。」
佐伯は礼を言いながら私からペットボトルを受け取り、私の意見に賛成した。
「ちょっとトイレ行ってくる。」
そう言って佐伯は席を立った。
私は雪降る外を眺め、睡魔に襲われながらも物思いにふけった。
私の育ての親であり、母の再婚相手であった西城奏太を殺した佐伯美奈子から、私は佐伯颯太を奪うことに成功した。今もアジサイのペンダントと指輪によって、美和子だけでなく美和子の子供までが病魔に侵されているはずだ。私は美和子とその子供へ復讐することが出来た。しかしどうしても私には分からないことがあった。


それはなぜ佐伯美奈子は西城奏太を殺したのか、そしてなぜ美和子は罪に問われていないのかということである。
警察の目を免れることが出来た美和子の背後にはきっと美和子を庇い、そして西城奏太が殺された本当に理由を知っている人間がいるはずだ。私のまだ知らないことがきっと佐伯家では起きていた、そういう事だろう。
「どうした?」
トイレから戻ってきた佐伯颯太が私を呼んだ。
「ううん、なんでもないの。ただ、景色が綺麗だなと思って。」
私は復讐をもくろむ西城優香から佐伯颯太を愛する白石あかねに成るべく、自分の頭の中を切り替え、外の綺麗な景色に見入った。私の向かいに座った佐伯颯太も景色を眺めた。
「白石みたいに白いな。」
佐伯颯太はぼそっとそんなことを言った。
「そうかな。」
私は景色から目を離し、自分の右腕を顔の前に上げて凝視した。
―この手で私は、絶望のさなかにいる母のそばにナイフを置いた。


そう思うと何だか自分の手が真っ赤に染まっているような気がした。
―私は真っ赤でそして真っ黒だ。
自分の穢れが目に見えたような気分になり、つい自分の腕から目を逸らした。
「白石は真っ白だぞ。」
その時私の心の声を読んだかの様に佐伯颯太は言い、私と同じく右手を顔の前に上げた。
「ほら、俺と比べるとこんなにも真っ白だよ。」
佐伯颯太は私と腕を並べ私が真っ白だと主張した。
―あなたは私を何も知らないから、そんなこと言えるのね。
私は佐伯颯太の顔を見てにこりとすると、何も言わずに腕を下げた。          
未だに雪景色を見てはしゃいでいる佐伯颯太を見て、佐伯颯太を幸せにしてしまった自分の罪深さが心に凍みた。
私は凹凸のある佐伯颯太の顔に手を伸ばした。触れると私の手の冷たさで一瞬佐伯颯太は肩を震わせる。
「白石、これつけとけ。」
そう言って佐伯颯太は私に手袋を渡した。ちょうどその時電車が私たちの目的の駅


に着いた。私たちは下車し、外の寒さに佐伯颯太は震えた。
「先生、やっぱり手袋。」
私が手袋を返そうと佐伯颯太を呼び止めると、佐伯颯太は白い息を吐きながらため息をついた。
「もう先生じゃないだろ。」
そう言うと私の手を握り佐伯颯太は歩き始めた。
「颯太」
私は初めて佐伯颯太を下の名前で呼んだ。
その時佐伯颯太の足が止まった。
「あかり」
そして私の名前を呼び、私の頬に軽くキスをした。
「なんかいいな。夫婦みたいで。」
そう言うと佐伯颯太は無邪気な笑顔を見せ、そしてまた歩き始めた。
―私は今まで何回佐伯颯太とキスしたのだろうか。
そんなことわざわざ覚えているわけがない、それくらい私は佐伯颯太とキスをした。
だけど一度だって、胸が高鳴らないキスはなかった。


佐伯颯太と触れ合うだけで、私の心の中にいつもいるおなかをすかせた女の子が、ご飯も食べずに口紅を塗りだす。
私は赤い唇を開き、真っ白な吐息と想いを吐き出した。
「君がため 惜しからざりし 命さへ 長くもがなと 思ひけるかな」
私の歌に佐伯颯太は振り返った。そしてにこりと笑うと私から手を離し、少し離れた場所に咲いていたナズナを一本手に取って私の前に膝まづいた。
「君がため 春の野に出でて 若菜つむ 我が衣手に 雪は降りつつ」
佐伯颯太は小さく可憐に咲くナズナを私の前に差し出した。
「ナズナの花言葉を知ってるかい?」
佐伯颯太は私の目を見て聞いた。
「あなたに私の全てを捧げます。」
私は佐伯颯太の瞳を優しく見つめ返し、ナズナの花言葉を言った。そしてナズナを受け取る。
「正解。」
そう言って佐伯颯太は私の前に立ち上がり、私の頭に積もった雪を払った。そして私を優しく抱きしめる。私の雪を払ったはずなのに、佐伯颯太の手はやけに暖かか


った。
「君のためにナズナを摘む時、例え寒い思いをしたとしても、君のように白く綺麗な雪が僕に降り積もってくれるなら、僕はいつまでもナズナも君も待ち続けられる。」
私は佐伯颯太の暖かい心にもっと触れたくて、佐伯颯太を強く抱きしめ返す。
「けれど儚い。」
私は呟いた。佐伯颯太はゆっくりと私を離す。
「アジサイもナズナも、雪もみんな儚い。」
私は自分に佐伯颯太との幸せは短く儚いのだと言い聞かせるように呟いた。
―私は罪人だから、幸せになってはいけない。だからあなたを騙し続ける最低な女でなくてはいけないんだ。
私は佐伯颯太の服を掴み俯いた。きっと今の私は、悲しい顔をしているから。
―こんな顔見せたらあなたはきっと勘づいてしまう。
もう少しあなたと一緒に居させてほしい。私はそう思っていた。
「でも君は少しでも長く俺と生きてくれるんだろう?」
佐伯颯太は私の顔を持ち上げた。


「例え一瞬という儚い時間だって、君となら俺は一生分の幸せに感じられるんだよ。」
―嗚呼、きっと私の人生の一番の罪はあなたを騙していることなのね。
純粋無垢に愛されることが私への一番の制裁だと、神様は分かっている。
私は佐伯颯太の頭に積もった真っ白な雪を払い落とし、薄汚れた私の唇をそっと佐伯颯太の唇に重ねる。
あなたから貰ったナズナをきっと私は捨てることが出来ない。
不倫している夫からのプレゼントを後生大事に持っている、私から大切な人を奪ったあの女と私は一緒。ただの女だ。
私は静かに思いやり荘へと歩き始めた、もちろんナズナを持ったまま。
隣にはもちろん愛しい佐伯颯太がいた。

10、「颯太」そうただ名前を呼ばれただけなのに、胸が高鳴った。
30代の中年のくせに、好きな人から名前を呼ばれただけでこんなにも嬉しいだなんて。俺もすかさず「あかね」と呼んで笑顔を見せた。
きっといつものあの天使のような優しいあかねの笑顔が返ってくるだろうと思った。


そんな俺の予想には反してあかねの顔はどこか暗かった。
時たまあかねはそんな顔を見せる。不倫に罪悪感を抱いているのだろうか?
それならそれでいい。俺たちは不倫の罪悪感を得てまで一緒に居ることを選んだのだから。けれどあかねのその顔は、不倫の罪悪感からだけではない気がする。          きっとあかねはなにか俺に隠していることがある。けれど俺は特別あかねに詮索したりはしない。もし俺がそのあかねの秘密を知り俺たちが不幸になってしまったら、あかねが俺の前からいなくなってしまったら、俺はきっと生きていけない。
俺はどんなことをしてもあかねを失いたくはなかった。
だから俺は何も言わず、何も知らないふりをしてへらへら生きていこうと思った。
いつもと違う目をして雪景色を見ていたあかねも、俺の笑顔で悲しげな瞳になるあかねも、俺からのナズナをいつまでも大事に持ち続けるあかねも、あかねが必死に隠そうとしているあかねの本当の姿も正直どうでもよかった。あかねの存在が俺のそばにあれば、俺は世界で一番の幸せ者だった。
駅から思いやり荘までの道のりで俺たちは本当にくだらない話をし、10分の道のりもあっという間だった。
大きなアパートで、雪が降り積もりつぶれてしまうのではないかと心配する程古い


作りである思いやり荘に着いたのは夜の9時を回っていた。
「・・大丈夫かな?」
ぼそっとあかねが呟いた。きっと雪でつぶれそうな思いやり荘を心配しているのだろう。
「たぶんな・・。」
不安が残る中俺たちは思いやり荘のエントランスに入った。
中には管理室と札を下げた窓口に正座して寝ている老人がいた。
「あの~、すみません。」
俺はその老人に声をかけた。ヒーターの暖かさで眠った老人はなかなか起きなかった。
「すみません」
そう言ってあかねが老人の肩を叩く。
すると俺の声では少しも反応しなかった老人はあかねの声では反応した。
「はいはい。」
老人はニコニコしてあかねの方へ向いた。
―くそ、女好きか。


俺は少々その老人が気に入らなかった。けれどあかねはニコニコと老人と話し始めた。
「思いやり荘に入居希望なのですが・・・。」
「はいはい、勿論。あなたのような人なら大歓迎ですよ。」
老人は鼻の下を伸ばしあかねしか目に入っていなかった。
俺は横にすっと立ち、あかねの肩に手をまわした。
「今日から入居できますか?」
俺は嫉妬心をむき出しにし、あかねと老人の話に割り込んだ。俺の行動にあかねは少し驚き俺の顔を見た。
あかねとの会話を遮られたのが不満なのか老人はちょっと不満そうな顔をした。
「お願いします。」
老人の雰囲気を察知したあかねがすかさず言った。
「はいはい、いいですよ。」
そう言うと老人は紙を取り出した。
「この紙にお二人さんの電話番号と名前を書いてね。」
言われた通り俺たちは名前と電話番号を書いた。


「じゃあ、君たちは103号室ね。明日は七時にここで朝食。」
そう言って老人は目の前の大きいテーブルを手に取った。
「皆さんで朝食を?」
あかねは聞いた。
「そうだよ。あと、この思いやり荘では私の手伝いするとお給料出るから。あと家賃は水道代とかも込みで一か月3万ね。」
あまりの手続きの簡単さや、年齢を感じさせないほど淡々と話す老人に俺たちは呆気にとられた。
「お手伝いって?」
あかねが聞いた。
「この思いやり荘の掃除とか。運営をね。あかねちゃん手伝ってくれるかい?」
老人にそう言われあかねは少し喜び、すぐにでも「やる」と返事をしそうになっていたが我に返り俺の方を見て許可を得ようとしていた。俺は笑顔で「いいよ」と頷いた。
「お手伝いします。」
あかねは元気よく言った。


「ありがとう、あかねちゃん。じゃあ詳しいことは明日話すから。今日はお休み。」
老人は細い目を更に細め笑顔で優しく言った。あかねと老人が話す空間は少し不思議な雰囲気を持っているな、と俺は思った。
「あの、おじいさんのお名前は?」
そうあかねは聞いた。
「田中です。」
田中さんは答えた。その時一瞬だけあかねの肩が揺れた気がした。
―そういえば、初めてあかねと話した時、俺が“娘”って言った時もあかねはこんな感じの反応をした。
あかねの様子を見て俺は、初めてあかねと話した始業式を思い返した。
「そうですか。では田中さん、明日からよろしくお願いします。」
あかねは笑顔を作り、田中さんに会釈をすると部屋に向かった。俺も軽く会釈しあかねに続く。
「あかね?」
俺はあかねの様子を不思議に思いあかねを呼んだ。
「なあに?」


あかねは103号室の鍵を開けながら返事をした。
「大丈夫?」
開いた扉を開き部屋に入るあかねに続き俺は部屋の中に荷物を運んだ。
「大丈夫だよ。」
そう言ってあかねはベッドに腰かけた。見る限り、あかねは無理に元気を装っているわけではないらしい。俺の感じた違和感は見当違いだったと思うことにした。
「そういえば、お隣さんに挨拶する時に持っていくもの何も買ってないね。」
隣に座った俺にあかねは言った。
「そういえばそうだな。それにこの部屋、お風呂、トイレ付きで、こんなにベッドもふかふかなのに家賃3万円なのか・・・。」
俺は部屋を見渡し改めて家賃の安さに驚いた。
「そうね、それに水道代とか光熱費とかも込みで3万円でしょ?なんか逆に怖いわ・・。」
俺は怖がるあかねの腰に手をまわした。
「でもベッドは一つでよかったのになぁ。」
俺は冗談の意味も込めニヤニヤ笑いながら言った。


「お馬鹿さん。」
あかねはそう言って笑うと俺のおでこにキスをし、立ち上がって荷解きを始めた。
「あかね、お風呂沸かす?」
俺はお風呂場に移動しながら聞いた。
「寒いからゆっくり浸かりたいね。」
そのあかねの返事を聞き俺はふろを沸かした。
「ありがとう。」
風呂場から戻った俺にあかねはお礼を言った。
「颯太の荷物も片づけておくね。」
そう言ってあかねは荷物を奥の部屋に運んだ。
「いいよ、あかね。疲れただろ?俺自分でやるから。」
今までの生活では受けていなかった気遣いに、俺は少し動揺していた。お風呂を沸かしてお礼を言われることも、荷物を片づけてもらうことも今まで妻にはしてもらえなかったから。俺はあかねのいる奥の部屋に向かった。
「いいんだよ、座ってて。少しは奥さんらしいことやらせてよ。」
あかねは少し照れながら俺の背中を押し、俺をリビングに戻そうとした。


「分かったよ。じゃあ風呂入ってくるから。」
俺はあかねの頭を撫でた。
「じゃあ、パジャマ探して持っていくね。」
あかねは笑顔で言った。俺は何だか嬉しくて、踊る気持ちでふろ場に向かった。

11、田中、その名字を聞いた時私の脳裏には母の姿が浮かんだ。
この日本に果たして何人田中と言う名字の人がいるだろうか。それほどまでにありきたりな名字なのに私は、母の旧姓が田中であるせいで、田中という名字を聞くと真っ暗な靄みたいなものが心に広がって、苦しくなる。
母が死んだのは私のせい。この事実がどれだけ私を苦しめているか、自分自身でも計り知れないほどだ。
この苦しみを忘れられるのは、何かに没頭したり、人と一緒に居る時だけだった。
佐伯颯太を手に入れた私は母の自殺の苦しみを忘れる時間が増えたが、同時に佐伯家への憎しみを実感する場面も増えた。今頃きっと美和子は苦しんでいる、そう思うことが唯一の心の救いだった。
佐伯颯太を恨んで憎んでいるのに、私はなぜ一緒に居ることを選んだのだろう。


―佐伯颯太へもっとも残酷な復讐をするため?
―それとも美和子の西城奏太殺しの原因を調べるため?
―それとも・・・・?
佐伯颯太と居る時間が増えれば増えるほど、私は自分で自分の気持ちが分からなくなった。
母が死んだあの日から私の中には多くの『私』が出来た。
憎しみを持つ『私』
悲しむ『私』
殺したい『私』
殺されたい『私』
そして、愛されたい『私』。
スパイなんて仕事をやり始めた私はどの『私』なんだろうか。
一体、本当の私はどこにいるんだろうか?
何もせず、ただ佐伯颯太の愛に溺れて生きれたら、どれだけ幸せだろうか。
私は佐伯颯太のパジャマを探すためバックを開けた。
バックの中は綺麗に整理されて入れられていて、清潔感があった。


通帳やハンコなどは鍵付きの棚に入れて、パジャマを探そうと服を漁ると一枚の紙を見つけた。
―なんだろう。
私がその紙を裏返すとそれは写真だった。
その写真に写った人物を見た瞬間、私は己の目を疑った。
写真には佐伯美和子と、私の母である田中ゆかりが映っていた。
私は写真をただ茫然と見た。手が震え頭の中がパニックになる。
―母と美和子は知り合いだった・・?
その写真の様子だと、二人の仲はとても親密そうだった。
ようやく、私は佐伯美和子と西城奏太の共通点を見つけた。
二人には、私の母である田中ゆかりが関係していたのだ。佐伯美和子と田中あかりの関係を佐伯颯太は知っているのだろうか?
私は今すぐにでもこの写真を佐伯颯太に見せ、二人の関係について知っていることを洗いざらい吐き出させたい衝動に駆られた。
―それはだめだ。
もし二人の関係を詮索すれば、佐伯颯太は私に不信感を抱くかもしれない。


駆け落ちと言う後戻りできないこの状況で、佐伯颯太の信頼をなくしてしまうという最悪のシチュエーション私は想像し、私はこの写真に気づかないふりをして写真を棚にしまった。
「あかり、着替えは?」
その時お風呂場から佐伯颯太の声がした。
「ごめん、今持っていくね。」
私はドキドキしながらも、急いでパジャマを準備して佐伯颯太の所へ持って言った。
「ありがとう。」
笑顔で佐伯颯太はパジャマを受け取った。
―そういえば、なぜ佐伯颯太は奥さんの写真を持ってきたのだろう。
私は胸の中で、じりじりと静かに大きく、黒ずんだ炎が燃え盛る。
―まだ奥さんに気持ちがあるの?
そんなこと聞けずに私はふろ場を出てさっきの部屋に戻った。
私は棚から写真を取り出し、その写真を破り捨てたい衝動にかられた。
―だめだ、これは佐伯美和子を捕まえる証拠になるかもしれないから。
私は目をつぶり自分の気持ちを落ち着かせ、自分のポケットに写真をしまった。


嫉妬心が湧いて冷静さをなくすのは危険だ。
私の目的はあくまで復讐なのだ、と私は何度も心の中で反復した。
「あかね、お風呂いいよー。」
お風呂から上がった佐伯颯太の声で、私は気持ちを片づけへと戻した。
「まだ片づけ終わってないの。」
私は佐伯颯太に聞こえるよう大きめの声で言った。
「いいよ、俺やるから。お風呂入っておいで。」
そう言いながら佐伯颯太は部屋に入ってきた。
「え、でも。」
私はほとんど片づけ終わってない荷物を見た。
「いいから、入って落ち着いておいで。今日は疲れたろう?」
そう言いながら佐伯颯太が私の頬に優しく触れた。そして親指で優しく私の唇を撫でる。
さっきまで真っ黒だった私の心の中の炎が、かすかに黒みを残しながらもピンク色に変わった。写真を入れたポケットがなんだかとても熱く、佐伯美和子からの怨念が伝わってき


ているような気がした。
私は佐伯颯太の胸元におでこを当てた。どちらの心臓の音か分からない鼓動が騒がしい。
「・・生きてるね。」
私は当たり前のことを口にした。
佐伯颯太は私をぎゅっと抱きしめた。
「・・死にたいの?」
そう聞き返す佐伯颯太の抱きしめた手が、私の頭を撫でる。
「少しだけ。」
私はそう答えた。ゆっくり佐伯颯太は私を離した。
優しく私を見る佐伯颯太の表情は笑顔なのに、どこか狂気を感じさせる顔だった。
「君が死ぬなら、俺も死ぬ。」
佐伯颯太は冷淡にそう言った。
「一人でなんて死なせるものか。君と一緒になるためにここに来たのに、君がいなくなるなら俺は生きている意味がない。俺を君がいない生き地獄の世界に堕とし入れるなら、俺は君を絶対に許さない。」


そう言う佐伯颯太の目は本気で、とても怖かった。
まるで私の復讐の計画を全て分かっているかのようだった。
―許されなくていい、初めから許されるつもりなんてないから。
「冗談よ。」
私は笑いながら佐伯颯太の鼻をつまむとパジャマを持ってお風呂場へ向かった。
私は洗面所で服を脱いで目の前の鏡を見た。色が白くて、唇が赤い美しいヒトが立っている。
―こんな自分、嫌いだ。
私は自分の姿を見るのに飽き、風呂場に入った。
風呂蓋を開けた時、私は目の前の光景に思わず息をのんだ。
そこには、お湯にバラの花びらが散りばめられている光景が広がっていた。私の鼻腔にバラのいい香りが通る。
「あかね、気に入ったかい?」
佐伯颯太は洗面所から声だけで私に聞いた。
「・・・うん、ありがとう。」
私はバラの花びらに見とれながら答えた。


「良かった。ゆっくりリラックスしてね。」
そう言って佐伯颯太は洗面所から出て行った。
お湯に手を入れると暖かく、適温だった。
私は体に少しお湯をかけ、ボディソープで体を洗った。そして湯舟に浸かる。
―暖かい。
私はじんわりと心が温まっていくのを実感した。
うっすらと私の目に浮かぶ涙のせいで、目の前のバラの花びらが揺らぐ。
―駄目だ、愛に流されちゃだめだ。
私は必死に涙が流れないようこらえた。
お湯に浮かぶ真っ赤なバラの花びらが水の流れに従って私に寄ってくる。
「来ないで・・。」
私はそのバラの花びら一枚一枚が、佐伯颯太からの愛情の具現化のようで、何度もお湯を払い、バラの花びらを遠ざけた。
そんな私の気持ちを知らず一方、また一方からバラの花びらは近づいてくる。
「もうこれ以上、私を愛して苦しめないで・・・。」
私はこらえられなくなりあふれた涙を必死に止めようと目元を抑えた。


私のすすり泣く声だけがお風呂場に響く。

12、佐伯颯太が寝静まったころ私の仕事用の携帯にメールが届いた。
『ターゲット:思いやり荘大家 田中善治
任務内容:思いやり荘の経営状況や、田中善治の過去を調べよ。』
なんとも、アバウトである。
―つまり、田中善治は調べるほどの大規模な悪事を過去に働いていたという事か?
田中善治はそんな人間には見えないが、とにかく明日からこの思いやり荘の内情もしっかりと調べようと私は心に決め、最近時たま現れる胸やけの市販の薬を体に流し込むと眠りに着いた。
次の日、私は朝六時半に目が覚めた。
隣のベッドでは佐伯颯太がまだ眠っていた。
―この寝顔も、あと何回見れるのだろう。
私はふとそんなことを思った。きっといつか私は佐伯颯太の前から姿を消す日が来る。
―もう少しだけ、そばに居させてください。


私は誰に対してだか分からないがそう祈り、そして佐伯颯太の布団に腰かけ佐伯颯太の寝顔をまじまじと見た。その長いまつげにあどけない顔は子供の様だった。
私は佐伯颯太の顔に手を伸ばした。触れるか触れないかの瀬戸際で佐伯颯太の目は開いた。すぐさま手を引っ込める私を笑顔で佐伯颯太は見た。
「おはよ。」
そう言いながら佐伯颯太は私の方へ体を寄せ
「入ったら?」
と布団の片方をめくった。私は佐伯颯太の布団の中にごそごそと入った。
「あったかい。」
私は佐伯颯太に体を寄せ言った。
「そうだな。」
そう言いながら佐伯颯太は私を抱きしめた。
暖かい布団の中から見る、静かな冷たい冬の空気はとても綺麗だった。
「今日はどうする?」
私のその質問に佐伯颯太は少しの間考えていた。
「昨日の夜も考えていたんだけど、俺は外に出て働いた方がいいよな。」


お金を貯める前提で佐伯颯太は話しているのだろう。
「そうね。」
私は思いやり荘を調査するために一人で田中善治の手伝いをしたかったため、その佐伯颯太の言葉に賛成した。
「じゃあ、今日は働き口を探しに行くよ。」
その言葉にわかった、と私は答え布団から上半身だけ起き上がる。
佐伯颯太も一緒に起き上がった。
「朝食の時、田中さんにいい働き口が近くにないか聞いてみようか。」
私は近くに置いていた櫛を手に取り、髪の毛を梳かしながら言った。
「それがいいね。」
口元をさすり髭の具合を調べながら佐伯颯太は私に同意した。
その時私は、いつもは綺麗に剃ってある佐伯颯太の髭が伸びていることに少し違和感を感じた。
「そんな顔するなよ、俺だって髭は伸びるよ。」
笑いながら佐伯颯太は言った。
「私、そんなひどい顔してた?」


気持ちが顔に出ていたことに驚きつつ私は聞いた。
「信じられない、みたいな顔してたよ。」
クスクスと笑いながら佐伯颯太は布団を抜け出し、洗面所に向かった。
私が洗面所を覗くと佐伯颯太は髭を剃っていた。
「剃るの?」
私は聞いた。
「当たり前だろ。愛する奥さんにあんな顔されちゃ、やってらんないよ。」
冗談交じりに佐伯颯太は言った。
「ごめんって。」
私は笑いながら着替えのある奥の部屋に向かった。
―愛する奥さんね・・・。
私は昨日ポケットに入れた写真を、大事にしまった鍵付きの棚を見た。
例え、佐伯颯太がまだ佐伯美和子に気持ちがあったとしても私は何も言わない。
いつか私はそれ以上に残酷な、非道なことを佐伯颯太にするのだから。
私は棚から赤いワンピースと黒のタイツを取り出し着替えた。そして鏡の前で肩まで伸びた髪をみつあみに編む。


部屋から出ようと扉の前に立つとちょうど髭を剃り終わった佐伯颯太が向こう側から扉を開いた。
「おっ」
私がいたことに驚いた佐伯颯太が声を上げた。
―やっぱり、髭がない方がかっこいい。
私は何度も見てるはずの佐伯颯太に見とれた。すると佐伯颯太も私を見て固まる。
「かわいい。」
ぼそっと佐伯颯太は呟いた。
「え・・。」
佐伯颯太のその言葉で私はようやく我に帰り、恥ずかしくなって佐伯颯太から目を逸らす。
「誰にも見せたくないなぁ。」
そう言いながら佐伯颯太は私を抱きしめた。
「ダメだよ、もう七時になっちゃう。」
私は心地よい佐伯颯太の匂いを嗅ぎつつそう言った。
「分かってるよ。」


そう言いながらも佐伯颯太は手の力を緩めない。
「こらこら。」
私は笑いながらも佐伯颯太の背中をポンポン叩いた。
ようやく佐伯颯太は私を離した。
「早く着替えな?」
そう言いながら私は部屋を出た。
私はふうっとため息をつき、抱きしめられたことで髪が乱れてないか確認するため洗面所の鏡を覗いた。すると目の前には頬を赤らめた可愛い女の子がいた。
―私の心の中にいつもいるおなかをすかせた女の子が、ご飯も食べずに口紅を塗りだす。
私は鏡に手を伸ばした。鏡に映った佐伯颯太の髭剃りを見て、私は佐伯颯太の姿を思い出す。鏡の私は可愛い顔で微笑んだ。
こんな顔を私はいつも佐伯颯太に見せているんだ。
自分でも知らなかった、女の子であり女でもある表情に私はドキッとした。
「あかね、行くぞ。」
後ろから佐伯颯太の声が聞こえる。


「うん。」
私は鏡の中の自分に微笑むと、佐伯颯太の後に続いて部屋を出た。
昨日のロビーに着くと田中さんがご飯を運んでいた。
「すみません。」
私は急いで田中さんに駆け寄り田中さんの運ぶご飯を代わりに運ぼうとした。
「おはようございます。」
笑顔で田中さんは私に挨拶をすると私にお願いします、と言ってご飯の乗っているトレーを渡した。
どうやらほとんどの準備を田中さんがしてくれていたらしい。
佐伯颯太も挨拶と共にお礼を言っていた。
「皆さん、まだ来てないのですね。」
私はトレーをテーブルに運びながら言った。
「そうですね、と言ってもあと一人なのですが。」
苦笑いをしながら田中さんは言った。
私は佐伯颯太と顔を見合わせる。
「みんな食事なんて一緒に取りたがりませんから。あと一人は毎朝一緒に食べてく


れるんですよ。あなたたちは来てくれたから嬉しかった。」
人情味のある優しい顔で田中さんは言った。
「すみません、遅くなりました。」
すると一緒に食事をするもう一人がロビーに現れた。
私はその人の顔を見て、思わず声を上げた。
「佐藤さん・・・?」
私が驚いた様子で名前を呼ぶと、あちらは事の全てを分かっているような余裕の笑みを浮かべ
「あかね、久しぶり。」
と言った。
「誰?」
佐伯颯太が私に聞いた。
「あー・・・。あの、佐藤悠也さん。私の恩師、みたいな人。」
私は若干目を泳がせながら言った。爽やかな笑みを浮かべるハンサムな佐藤悠也は佐伯颯太に手を伸ばした。
「どうも、佐藤悠也です。よろしく。」


「あ、ああ、どうも・・・。」
佐伯颯太は少し困惑しながらも佐藤悠也と握手をした。佐藤悠也は大半の男から嫌われる。なぜならかっこよくて愛想もいいので女にもてるからだ。
「みなさん、食べましょう!」
私は少し冷や汗をかきながらもこの場を乗り切ろうと食事に移ろうとした。
焦るのも当たり前である、佐藤悠也は私がスパイを始めるきっかけを作った私のスパイ仲間なのだから。
ニコニコしながら佐藤悠也はご飯を食べている。
そんな様子に佐伯颯太は若干違和感を持っているようだ。
「なあ、あかね。」
私の気持ちも知らずに佐藤悠也は私に話しかけてきた。
「な、なんですか・・?」
私は何を聞かれるか分からず身構えた。佐伯颯太は少し面白くなさそうであった。
「眼鏡どうしたんだよ。さてはお前、色気づいてコンタクトか?」
私をからかうように佐藤悠也は聞いた。
「いいでしょ!?ダメなの?」


私はつい口調が厳しくなる。
「真面目ちゃんだったお前が、眼鏡を取って男と一緒に居るなんて・・・。」
ハア、と佐藤悠也はため息をついた。
―こいつ、私の素性を知ってるくせに・・・!
私は佐藤悠也にむかつきながらも冷静になろうと努めた。
「なんとでも言ってください。」
私はお味噌汁をすすりながら言った。
けれど私はすぐに気持ち悪さを感じてお椀を置いた。パセリの乗った目玉焼きにも何だか食欲が湧かない。
私はパセリを一口で口に入れると箸をおいた。
「よかったな、熱いもの食べても眼鏡がないからくもるの気にしなくていいもんな。」
からかう佐藤悠也を私は睨む。
「ラーメンはまだ味噌が好きか?」
その言葉に私は少し懐かしさを覚えた。
「・・・はい、まだ好きですよ。」


そして笑いながら答えた。
沈黙がロビーに流れる。
「あかねちゃん。」
田中さんが私を呼んだ。佐伯颯太は始終黙ったままだ。
「はい。」
私は返事をした。
「今日はどこをお掃除しましょうか。佐藤君もいつも手伝ってくれているけれど、どうも男だから雑でね。」
すみませんねぇと佐藤悠也は言った。
「何でもします。」
私は笑いながら言った。
「そういえば。」
私はちらりと佐伯颯太を見ながら聞いた。
「ここらへんでいい働き口はありませんか?」
私のその質問に田中さんはしばらく考えた。
「あ!あそこがありますよ。」


声をあげたのは佐藤悠也だった。
「電車で一駅の所に、学校がない子のための塾がありますよ。」
佐藤悠也はそう言って佐伯颯太を見た。
「塾ですか・・。」
佐伯颯太は言った。
「ちょうどいいじゃない?颯太、教師だったんだから。」
―今時、学校がない?
私は少しの違和感と不信感を抱き佐藤悠也を見ると佐藤悠也は私に向かってウインクをした。
―上司の差し金か・・・。
「そうだね、じゃあ、今日はそこに行ってみようかな。」
ありがとうございます。と佐伯颯太は言った。
「いえいえ。」
佐藤悠也は食べ終わった茶碗をテーブルに置きながら言った。
「ごちそうさまでした。」
そして、手を合わせてしっかりと食後の挨拶をした。


―あの時から、この人は何も変わってないんだな。
そんな佐藤悠也の様子を見て私はそう思った。
私も佐藤悠也の後に続き挨拶をして、少ししか手を付けていない食器を片づけ始めた。

13、母の死後、私は西城奏太に引き取られ育てられた。実の母も父も私にはいなかったが私は幸せだった。なぜなら、西城奏太は私を本当に可愛がってくれたからだ。
私は西城奏太をパパと呼び、いつも仲良く楽しく暮らしていた。貧しく、高いものや食べ物は買ってもらえなかったが私にとってそんなことは何ら問題なかった。
けれど10歳の時に私は西城奏太を佐伯美和子に殺された。
ある日の朝、目が覚めて西城奏太の元に行くと、西城奏太は布団の中で冷たくなっていた。
死んだなんてこれっぽっちも考えなかった私は、必死に西城奏太を起こそうとした。けれど目は開かなかった。私はどうしてよいのか分からずにただ西城奏太の死に顔を見ていた。


その時家のチャイムが鳴った。無視しようと思ったが私の気持ちもお構いなしにチャイムはなり続ける。私はしぶしぶドアを開けた。
ドアが開いて目の前に立っていたのは私の知らない女性だった。その女性は私を見るなり顔をこわばらせた。
「なんであなたが生きてるのよ・・・!」
そう言ってその女性は引き返した。
私は西城奏太をどうしてよいか分からず119番通報をした。すぐに警察は駆けつけ、私は事情聴取のため警察署に連れていかれた。
「君はいつ、お父さんが死んだことに気づいたの?」
目の前に座っていた優し気な男な人が私に聞いた。
「朝起きたら、死んでました。」
私はゆっくりはっきりと答えた。そして手の震えを抑えるためにズボンを強く握った。
「さっき女の人が来ました。」
私は何も聞かれていないが言った。
「女の人?」


そう聞かれ私は頷いた。
「特徴覚えてます。」
そう言って私は近くに置いてあった紙と鉛筆を手に取り、女の顔を書き始めた。
じっと男の人は私の手元を見つめる。
画き終えて私はその絵を男の人に渡した。
「ありがとうね。」
そう言って男の人は事情聴取していた部屋を出て行った。
その部屋に私は何時間かおかれた。途中、私を気遣って女性の警察官が相手をしてくれたがてきとうにその配慮を流した。私は西城奏太が亡くなった悲しみに潰されないようにするのに必死だった。
数時間してさっき私を事情聴取した男の人が来た。
「帰ろう。」
そう言って私を送ってくれた。
「さっき君の所に来た女、やっぱり君のお父さんを殺した犯人だったよ。」
帰り道寄った公園のブランコに座りながらその男の人は言った。
私は何も言わずただブランコを漕いだ。


「でも捕まえられない。」
その言葉に私は思わずブランコを漕いでた足を止めた。
「何で?」
私はその男の人に聞いた。
「分からない、上からストップがかかった。」
私は落胆のあまり俯いた。
「・・憎いかい?」
私に男の人は聞いた。
「・・・当たり前でしょ。」
私は涙をこらえて答えた。
「だったらさ。」
男の人はブランコから降り、私の目の前に立った。
「僕の仕事、やってみない?」
そしてにこりと笑顔で言った。
「警察?」
私は聞き返す。


「これは表の顔、本当はね色々なことを調べるスパイ。」
そう言ってその男の人はポケットから名刺を取り出し私に渡した。
「この名刺の名前が僕のスパイ名。つまりはスパイをやっている時に使う名前。」
名刺には「佐藤悠也」と書いてあった。
「今は警察署の内部を調べるためにこんなことやってるけど、もうそろそろ任務が達成で
きそうなんだ。」
私はまじまじと佐藤悠也の顔を見た。
「どう?僕についてきてスパイになる訓練を受けてみない?きっと君にはスパイの才能がある。」
そう言って佐藤悠也は私に近づいてきた。
「・・・もし。」
私は言った。
「もし私がスパイになったら、パパを殺した犯人を懲らしめることが出来る?」
私のその質問に佐藤悠也は真面目な顔をした。
「もちろんだよ。スパイってことは他の人とは違うバックが付くからね。復讐でき


るよ。」
そう言って佐藤悠也は私に、私がさっき画いた絵を渡した。
「この女が恨めしいんだろう?君の力をもってすればどんな方法でだってこの女に復讐できるよ。」
私はその恨めしい顔をまじまじと見た。奥歯に力が入る。
「分かった。私やります。」
私は佐藤悠也に言った。
「よし、じゃあついておいで。」
そう言って佐藤悠也は歩き始めた。私はその後に続く。
どこに連れていかれるか分からず不安に思っていたが、着いた先はしがないラーメン屋だった。
「いらっしゃい!」
威勢の良い店主の声が響く。
「あの・・?」
私はなぜラーメン屋に来たのか分からずに佐藤悠也に聞いた。
「まーまー、何が食べたい?」


私の戸惑いも無視し佐藤悠也は私にメニュー表を渡した。
「腹減ってるだろ?」
そう言って佐藤悠也は私の頭を撫でた。
「何でもいいぞ。」
私は、たまに西城奏太と行っていたラーメン屋で味噌ラーメンを頼んでいたことを思い出し、味噌ラーメンを指さした。
「大将、味噌ラーメン二つ。」
佐藤悠也の注文に威勢の良い返事をした店主はすぐさま注文のラーメンを作り始めた。
「今からスパイになるために訓練するとなると、かなりハードだよ。」
佐藤悠也は言った。
「なんで?」
私は聞いた。
「10歳からスパイになるために訓練する人なんてそうそういないだろ?」
笑いながら佐藤悠也は言った。
「そうですね」


私はてきとうに相槌をうつ。
「でも君には眼鏡に隠れた恵まれた見た目と、冷静さを保てる優れた頭がある。絶対に優秀なスパイになるよ。」
そう言う佐藤悠也もかなりやり手に見えた。
私だけでなく同僚の目さえごまかして警察の事情聴取なんてする人間になっていたのだから。
「これからどこに寝泊まりするの?」
私は聞いた。
「この店の地下に訓練所があるから、そこに」
佐藤悠也は水を飲みながら言った。
私は驚いて地面を見た。
「ここの大将はスパイのプロだよ。この道30年だ。」
そのようには見えない店主を私はまじまじと見た。
「でもラーメンは凄くうまい。」
その言葉に店主は照れながら味噌ラーメンを持ってきた。
「お待ち。」


そう言いながら私の前にラーメンを置いた。
いただきます、と手を合わせて挨拶する佐藤悠也につられ私もいただきますと挨拶をしてラーメンを食べた。
眼鏡がくもりながらも、おいしくて優しい味に私はようやく胸の中で冷え固まった黒い氷が溶けだしたのを感じ、西城奏太と食べたラーメンを思い出した。
隣にいた佐藤悠也が私の背中を撫でる。
「10歳なんて、子供だよ。悲しければ泣いたっていい。」
私はその言葉で目から涙があふれだした。
「なんで、なんで死んじゃったの・・・・?」
私は答えの見つからない疑問だと知り、胸にしまっていた言葉を口にした。
優しく暖かい佐藤悠也の手が私の頭を撫でる。
昨日まではパパが撫でてくれていたのに、今はもう、パパはこの世には居ない。
私はそう実感し、悲しみがお腹から一気に湧き出てくるのを抑えた。
「落ち着いて、ゆっくり息をして。」
佐藤悠也が私の背中を撫でながら言った。私はその言葉に従って息を整える。
「大丈夫、君はもう一人じゃないよ。」


その言葉に私は顔をあげる。私の隣には優しい顔をした佐藤悠也と、餃子を持った店主がいた。
「これ、サービスね。」
そう言って店主は私の目の前に餃子を置いた。
―あったかい。
暖かさを感じるこの店内で私はまたあがる息の中、お礼を言った。
「ちなみに、この大将、すごいスパルタだからね。」
佐藤悠也が私に言った。
私は思わず涙が止まった。店主の顔を見ると優しそうで、そんなスパルタさをみじんも感じさせない様子だった。
「今はこんなに優しい顔してるけど、この顔が変わる瞬間はほんとに怖いぞ・・・。」
私は若干顔が引きつりながら店主を見た。
「いいから、早く食べねえと麺が伸びるぞ。」
少し笑いながら店主は言った。
私は箸を持ちまた食べ始めた。麺は伸びていたけれど、すごくおいしかったあの味を私は今でも


覚えている。
「あかね、かわいかったなあ。」
田中さんが街に買い物に行っている中、私と佐藤悠也は田中さんの手伝いをしながら思い出話に花を咲かせた。
「うるさいですよ。」
私は窓を拭きながら言った。
「復讐はできたか?」
その佐藤悠也の言葉に私は手が止まった。
「噂によれば佐伯美和子は甲状腺のがんになって闘病中だ。」
やはり、私の思惑通り佐伯美和子は病気になっていた。
「何をした?」
佐藤悠也は私に聞いた。
「もう、わかってるんじゃないですか?」
私は窓から離れながら言った。
「もう私が何をしたかわかってるから、私の教育者であるあなたは、私を見張るためにここにいるんじゃないですか?」


私のこの言葉に佐藤悠也はふっと息を漏らして笑った。
「さすが、俺の育てた子だよ。」
そう言って佐藤悠也は私の頭をぐりぐり撫でた。
「アジサイのネックレスは綺麗だな。」
佐藤悠也は胸元のポケットからアジサイのネックレスを取り出した。
「もう有害じゃないからね、貰ってきたよ。」
そう言って私にアジサイのネックレスを渡した。
「もう復讐は十分だろ。」
佐藤悠也は床に座った。
「奇形児が生まれたんだよ。」
その佐藤悠也の言葉に私は耳を疑った。
「え・・・?」
私は思わず声を上げた。
「佐伯美和子は奇形児を生んだ。もちろん死んだ。」
佐藤悠也の言葉が私の脳内に響く。
「佐伯美和子は確かに罪深い。けれど子供に罪はないんじゃないか?」


子供に罪はない、その言葉で分かっていたはずの自分の愚かさに私は落胆した。
「なんてね、僕があかねをこんな風にしたんだから。責めるつもりはないよ。」
そう言って佐藤悠也は窓ふきの仕事に戻った。
私はしばらくぼうっとしていたが、今更後悔してはいけないと腹に決め仕事に戻った。
「もう終わりにするのかい、復讐は。」
佐藤悠也は窓を拭く手を止めず聞いた。
「まだ。」
私はそう答えた。
「まだ終わってない、それに真相が有耶無耶のまま。」
私は窓を拭く手に力を入れた。
「まだ何かするのか、佐伯美和子に。」
佐藤悠也は私を見なかった。
「佐伯美和子にはもう何もしない。」
その言葉に佐藤悠也は私を見た。
「もしかしてお前・・・。」


私の心中を察知し、佐藤悠也は手を止めた。
私は何も言わず窓を拭き続ける。
「佐伯颯太のこと、好きじゃないのか?」
けれどその言葉で私の手が止まった。
「さあ、どうだろう。」
私は自分に言い聞かせるように言った。
―好きじゃない、好きなんかじゃない。
「復讐したいだけだから。」
「じゃあなんでアジサイのネックレスを選んだ?」
私の言葉に食い込むように佐藤悠也は言った。
「あのアジサイのネックレスは佐伯美和子から愛する人を奪う宣戦布告だろう。」
私は何も言わなかった。
「ナズナの花、今も持ってるんだろう?」
ここに来る途中、佐伯颯太が私に渡したナズナの花のことを佐藤悠也は知っていた。
私は驚き、声も出なかった。
「好きじゃない人と、キスなんてできるのか?」


佐藤悠也は私に真剣なまなざしで言った。
「できるわよ、だって私はスパイなんだから。」
私は目を泳がせながら言った。
―認めるものか、私は佐伯颯太を愛してなんていない。
そんな私の様子を見て佐伯颯太は笑っていた。
「そっか。」
そしてにやにやしながら私に近づいてくる。
私はゆっくりと佐藤悠也から距離をとる。けれどそんなことお構いなしに佐藤悠也は私の腕を掴んだ。そして次の瞬間腕が引っ張られ抱き寄せられた。私の耳の元に佐藤悠也の口が近づく。
「ほんとにキスできる?」
私は体を震わせた。
―無理。
私は佐藤悠也の身体を突き飛ばした。
「やめてください。」
私は自分の身体を抱きしめ言った。


「やっぱり無理じゃん。」
笑いながら佐藤悠也言った。
「利益がないですから。佐藤さんとキスしても。」
私は目を逸らしていった。佐藤悠也を見るのが何だかとても怖かった。
「利益ね・・・。」
佐藤悠也は口元に手を置いた。
「じゃあ、復讐を手伝ってあげるよ。」
口元の手を腰に落とし、得意げに言った。
「手伝い?」
私は聞き返した。
「僕がいれば簡単に復讐できるよ。」
―浮気、つまりは裏切りか・・・。
私は佐藤悠也の思惑を瞬時に理解した。
「佐藤さんは何が欲しいの?私のキスなんて欲しくないんでしょ?」
笑いながら話す私につられ佐藤悠也も笑った。
「僕もここで任務があるから、お互い情報をシェアしよう。」


私は頷いた。
「だから俺のことは好きに使って。どうとでも話は合わせるよ。」
私は感謝の意を込めて笑顔を見せた。
そして人の気配を感じた二人はお互い何も言わず作業に戻った。
「でも幸せになってほしいんだけどなあ・・・。」
ぼそっと佐藤悠也は言った。
けれど私は聞こえないふりをした。
―幸せなんて、私には無縁なものだ。
私は綺麗になった窓をずっと磨いていた。
けれど私の心の中には佐伯颯太へ、どうしてあの写真を持ってきたのか?という疑問が突っかかったままだった。
私の中には、スパイである私と佐伯颯太を好いてしまっている私が混在し、私に息苦しさと生きづらさを与えていた。
なぜだか分からないが私は、ポケットにあの写真を忍ばせてしまっていた。
私は自分の魂胆を完全に見失っていた。

14、赤いワンピースにお下げのあかねは本当に可愛かった。何度だって俺はあかねに惚れ直す。自分のものだけにしたくてつい抱きしめてしまった。
けれど朝食の時に出会った佐藤悠也のせいで俺はなんだかむしゃくしゃしてしまった。
―なれなれしく話しかけてんじゃねーよ。
俺はそう思った。佐藤悠也に話しかけられ、まんざらでもない様子なあかねを見て俺は何も言えなかった。結局むしゃくしゃしたまま家を出て、佐藤悠也に勧められた塾に来た。俺が教員免許を持っているということもあり、すぐに来てくれと言われた。どうやら学校が急になくなってしまい本当に困っている様だった。
俺は国語の教師であったため、国語の授業を受け持つことになった。
そこにいた子供たちはみんないい子たちで俺は心が休まるようだった。
けれど思いやり荘に帰ればあかねと仲良さそうに田中さんを手伝っている佐藤悠也の姿が見えた。
「あかね、ここまだ汚れてるじゃん。」
「十分綺麗ですよ。」
「相変わらず適当な奴だなぁ。そんなんで奥さん務まるのか?」


―とことこむかつくやつだ。
俺の奥さんになんてこと言うんだよ、そう思って俺はあかねと佐藤悠也がいる部屋に入った。
「おかえり。」
あかねは笑顔で俺に言った。
「ただいま。」
俺はあかねに素っ気なく返した。
きっとあかねは俺の素っ気なさに気づき、どうしたの?と聞いてくるはずだ。
俺はあかねの次の言葉を待っていた。
けれどそんな俺の期待もはずれ、あかねは佐藤悠也の元に戻ってしまった。
俺はまじまじとあかねを見た。
「おいあかね、フィアンセがこっち見てるぞ。」
からかうように佐藤悠也は見た。
あかねはこちらを見て
「帰ってていいよ。」
と言った。あかねの冷たいその態度におれはちょっと驚いた。


―今までこんな態度とったことあるか?
少しの怒りを覚えつつ俺はあかねに近づく。
「なぁあかね、あとどれくらいで終わるんだ?」
俺はあかねに聞いた。
しかし佐藤悠也の馬鹿でかい声のせいで俺の声は届かなかった。
ぷつん、と何かが切れる音がし俺は我慢の限界だった。
「おいこら、あかねになれなれしくするんじゃねーよ!」
俺は勢いよく佐藤悠也の首元を掴んだ。
「ちょっと、颯太、やめてよ。」
けれどあかねは俺の味方ではなく佐藤悠也のことを守ろうとした。
「おい、あかね。結婚相手の俺よりこいつの方が大事なのか?」
俺は今度はあかねに向かって言った。俺のその言葉であかねの形相が変わった。
「結婚相手って、まだ結婚なんてしてないじゃない!」
あかねは俺にそう叫んだ。
「近々するって言ったろ?」
俺は怒りに身を任せそう言ったが、俺の怒りに超えるほど怖い顔をしたあかねは俺を鋭い眼差しを見て一気に肝が冷えた。
何か言いたげなその恐ろしい表情は俺を恐怖に陥れた。
「じゃあこれは何?」
そう言ってあかねは俺が家を出る時、娘に声を掛けられたせいでバックに入れた美和子の写真を取り出した。
「駆け落ちに前の奥さんの写真持ってきたのねぇ。奥さんの写真がなきゃ寝れないのかしら?」
淡々と話すあかねの鋭い目つきは俺の心臓をギュッと締め上げる。俺はあかねを直視できず目を逸らしていた。
「ふざけんじゃないわよ!」
あかねは怒りに身を任せ写真を床に投げた。
「あ、あかね・・。」
俺はあかねを落ち着かせるためにあかねの腕をつかもうとしたが、あかねは俺の腕を振り払い思いやり荘から出ていった。
「僕が行きます。」
そう言って佐藤悠也があかねを追いかけた。
俺は後悔しながらも、あかねが投げた写真を手に取った。
初めてだった、あかねが俺に怒りをぶつけたのは。


―やってしまった。
俺はどうして美和子の写真をバックに入れてきてしまったのだろう。
これでは、まだ美和子に気持ちがあると思われるに決まっている。
それにしても俺は怒ったあかねに対し、こんなにも違和感を覚えるだなんて。
今のような喧嘩も夫婦になれば当たり前にするだろう。なのに俺はあかねが怒ったことに異様なほど非日常感と意外性を感じた。
―今までずっとあかねは我慢してきたのだろうか?
もしかすると、不倫というハイアンドローなゲームをあかねは楽しんでいて、今急に俺と生きることが嫌になって出て行ってしまったのかもしれない。
俺はもうあかねと生きると心に決めた。あかねを失いたくはない。
とにかくあかねが帰ってきたらちゃんと謝ろう。
俺はそう思いあかねが来るまで待つことにした。
「颯太君。」
そこに田中さんがやってきた。
「あかねちゃんが走って出て行ったよ。何かあったのかい?」
俺は苦笑いをすると、美和子の写真を田中さんに見せた。


田中さんは写真を凝視した。
「俺、実はあかねと駆け落ちしてここに来たんです。この写真は前の妻で。」
田中さんは俺を信じられないという目で見た。
「こんな写真持ってきちゃって、あかねを怒らせてしまった。」
俺は自分の不甲斐なさに笑った。
「美和子・・・?」
すると田中さんはその写真を凝視しながら言った。
「え、田中さん・・・。美和子を知っているんですか・・・?」
田中さんは一向に写真から目を離さない。
「田中さん・・・?」
俺は田中さんの肩を掴んだ。
「すると君は・・・。美和子の夫・・・。」
ゆっくりと田中さんは俺を見た。
「佐伯厳生の息子かね・・?」
田中さんは急に俺の父の名前を出した。
「そ、そうです。俺は佐伯厳生の息子です。」


俺のその言葉に田中さんはため息をついた。
「そして君は今、美和子を捨てて駆け落ちか・・・。」
俺は返事をせずに田中さんから目を逸らした。
「・・・因果応報だな・・・。」
田中さんはぼそっと言った。
「え・・・?」
俺はその言葉に驚いた。
「どういうことですか、田中さん、あなたは美和子とどんな関係ですか?」
俺はその言葉言いながらはっとした、そう言えば美和子の旧姓は田中だった。
俺のその顔を見て田中さんは顔をくもらせた。
「そうだよ、私は美和子の。」
俺は下唇をかんだ。
「父親だ。そして美和子の隣に映る田中ゆかりの父親でもある。」
俺は驚き目を見開いた。

15、佐伯美和子の映った写真を床に投げ、思いやり荘を出てきてしまった。私と


したことが怒りに身を任せ、冷静さを全く保てなかった。これではただの嫉妬に狂った新妻だ。
私は自分の行動に呆れ笑った。復讐をもくろみ騙して一緒に居るくせに、佐伯颯太が美和子の写真を持っていただけで怒り、嫉妬し家出するという行動をとってしまった。
外は凄く寒く、私は思わず地面に座り込んだ。
ここ数日なんだか体調が悪い。吐き気とめまいがよく起きて、眠気がひどく食欲もない。今朝の朝食もお味噌汁に口をつけた程度で残してしまった。
こんな日常が続くなら私はさっさと佐伯颯太の前から姿を消した方がよさそうだ。
「あかね!」
もしかして、佐伯颯太が私を迎えに来たかもしれない。淡い期待を胸に私は声の方を振り返った。
けれどそこに立っていたのは佐藤悠也だった。
「大丈夫か?」
佐藤悠也は私に駆け寄った。
「うん。」


私は笑おうと努めた。私の顔を見て佐藤悠也は眉をひそめた。
「なんか顔色悪くないか?」
そう言って佐藤悠也は私の顔を覗き込む。
「実は最近あんまり体調良くなくて。」
佐藤悠也は私に、自分の来ていたコートを掛けた。
「そういえば今朝もご飯残してたもんな。」
私はお礼を言って佐藤悠也のコートを自分の肩にちゃんと掛けた。
「病院には行ったか?」
そう言いながら佐藤悠也は私の額に手を置いた。
「ううん。」
私は佐藤悠也の顔を見て言った。
「少し熱あるな・・・。」
佐藤悠也は私の額から手を離しながら言った。
「ほかに症状は?」
私はここ数日の様子を思い出した。
「吐き気と眠気がひどくて・・。」


私のその言葉に佐藤悠也は目線を上にした。
「もしかしてさあ・・・。」
佐藤悠也は私の顔を見た。
「できたんじゃない?」
「何が?」
佐藤悠也の言っていることが分からず私は思わず聞き返した。
「いやだから、赤ちゃん。」
その言葉に私は思わずおなかを押さえた。
―まさか・・・。
「復讐相手の子供を授かるなんてな。」
私の気持ちを代弁するかのように佐藤悠也は言った。
「さっきの怒りも精神が不安定さからくる一種の妊娠の初期症状だよ。」
私は自分のおなかを見た。
「・・・まだ決まったわけじゃない。」
私は自分を安心させるように言った。
「まあ、そうだな。」


そう言って佐藤悠也は私の背中を撫でた。
「とにかく寒い所は母体に悪い。帰るぞ。」
歩き出した佐藤悠也に続いて、ある程度の距離を持って私も歩いた。
「もういいんじゃないか?」
私に聞こえるように佐藤悠也は言った。
「何が?」
私はそう返事した。
「もう十分復讐したろ。」
―だからもう、復讐を忘れて佐伯颯太の子供を産んで幸せになれと?
「ダメよ。」
「なぜそんなに復讐にこだわる?」
「復讐にこだわってるんじゃないわ。」
私のその言葉に佐藤悠也は振り返った。
「人殺しの私がまっとうな幸せを手に入れられると思う?」
私は悲しい笑顔を浮かべた。
―母親だけでなく、美和子と美和子の子供まで手にかけた私が。


「幸せになっちゃいけないのよ。佐藤さんだってわかってるでしょ?」
佐藤悠也は何も言わず、ただ私を見ていた。
まるで、悲しいラブストーリーを映画で見ているような目で。
私はそれ以上は何も言わず歩いた。佐藤悠也は私の肩を優しく抱いて私を慰めようとした。
「ごめんな。」
その言葉は私に私の不幸さを見せつけているようで、冷たく私の心に刺さる。
私はただ、歩き続けることに必死だった。
思いやり荘に着くと私が出て行ったままの状態で私たちが働いていた部屋にはまだ電気がついていた。
「どういうことですか、田中さん、あなたは美和子とどんな関係ですか?」
私たちが部屋の近くに来た時、佐伯颯太の声が聞こえた。
私たちは思わず声を潜め陰に隠れた。
「そうだよ、私は美和子の。」
「父親だ。そして美和子の隣に映る田中ゆかりの父親でもある。」
どうやら田中さんと佐伯颯太はあの写真について話しているらしかった。


「つまり、佐伯美和子と田中ゆかりは姉妹ってことか・・・。」
小さな声で佐藤悠也は言った。私は信じられない事実に頭がしばらく働かなかった。
―美奈子と母が姉妹・・・。田中さんは母の父親。つまり田中さんは私の祖父・・?
「つまり田中さんは俺の義父ってことですね・・・。」
佐伯颯太は言った。
「す、すみません!」
佐伯颯太は田中さんに勢いよく謝っていた。
「美奈子さんを置いてきてしまったのに、こんなのうのうと、」
義父を目の前にして焦る佐伯颯太に私は少しだけ疑問を抱いた。
「義父なのに今まで会っていなかったのか・・・?」
私と同じ疑問を佐藤悠也は口にする。私は佐藤悠也を見て同じ疑問を持ったことを合図した。
「いいんだよ、これも因果応報だ。」
田中さんは遠い目をしていった。
「・・・因果応報って、何かあったんですか・・・?」
佐伯颯太は田中さんに聞いた。


私は田中さんの声が良く聞こえるように身構えた。
「美和子はね・・・。人を殺したんだ。二人も。」
その言葉に佐伯颯太は驚くあまり言葉を失っていた。
「二人・・?」
私は思わずつぶやく。私の育ての親である西城奏太を佐伯美和子が殺したことは知っていたが、佐伯美奈子はもう一人、殺した人間がいたようだ。
「美和子は逮捕歴があったんですか・・・・?」
佐伯颯太はぼそっと言った。頭がだいぶ混乱している様だった。
「いや、美和子は捕まらなかったよ。」
「なぜ・・!?」
おどろき佐伯颯太が声を上げる。
「君と結婚したからね・・・。」
その言葉に私は思わず田中さんの前に飛び出していった。
私のこの行動に佐藤悠也は驚いた。
「どういうこと?」
私は田中さんの前に立つ。


「あかね・・・。」
佐伯颯太が私の名前を呼んだがそんなこと気にしている余裕はなかった。
「なぜ佐伯颯太と結婚したから、佐伯美和子は西城奏太を殺しても捕まらなかったのよ!?」
私をなだめるために佐藤悠也は私の腕を掴んだ。
勢いよく私はその手を振り払う。
「答えなさいよ!」
私の様子を佐伯颯太はただ茫然と見ていた。
「あかねちゃん、なぜ君がそんなに怒るのかね?なぜ西城奏太を知っている?」
一向に話そうとしない田中さんに私は心底イライラした。
「私は田中ゆかりの娘よ!」
私は苛立ちを表すように思いっきり叫んだ。
私のその言葉に田中さんは目の色を変える。
「西城奏太は私の育ての親、母が死んでからは唯一の肉親だった・・・。」
―嗚呼、言ってしまった・・。
私は自分に段々力が抜けていくのを感じた。


「あかね・・・?」
佐伯颯太は私を見て震えている。私の素性を知り、どうやら私の思惑に気づいたようだった。
私は佐伯颯太を睨んだ。今までの恨みや憎しみをぶつけるように。
「聞いてるのよ、答えて。」
そして私は田中さんに詰め寄る。
「・・・君は私の孫か・・。」
田中さんは目にうっすらと涙を浮かべながら言った。
「君が一番不幸になってしまったんだね。」
私は震える下唇を思いっきり噛んだ。
「田中ゆかりと西城奏太は佐伯美奈子に殺されたんだよ・・・。」
田中さんは悲しい目をしながら私を見て言った。
「え・・・。」
―ママを殺したのは私じゃない・・・?
その事実を私は否定しようとした。
「嘘よ、嘘よ・・。ママは私が殺したの・・。あの日私がママのそばにナイフを置


いた!」
私は体の震えも止める力もなく、ただ叫んだ。
「違うよ、君の育ての親である西城奏太を手に入れたかった佐伯美奈子があの日、田中ゆかりを殺したんだ。」
私に追い打ちをかけるかのように田中さんは言った。
私は膝から床に落ちた。佐藤悠也の支えでなんとか床に座り込む。
「そして田中ゆかりを殺し、西城奏太を手に入れたと思ったら、西城奏太は君を育てると言って聞かなかった。だから佐伯美奈子は君も殺そうとした。けれど計画が狂い、死んだのは君じゃなくて西城奏太だった。」
私はもう前を見る力が残っておらずうつむいていた。涙が床に落ちる。
「君の母さんは育児放棄だったが君のことを愛していた。」
その言葉で私はゆっくりと田中さんを見上げた。
「佐伯美和子に殺されそうになった時も君のために西城奏太を渡さないと言った。」
床に何粒も涙が落ちる。
―私はママを殺していなかった。
私は母を殺していなかった安堵から思いっきり声を出して泣いた。そんなにも声を


出して泣いたのは生まれて初めてだった。
「私は美和子を警察に渡そうとした。」
これから話されることはきっと不条理なことだと察知した佐藤悠也が、私をなだめるように優しく背中を撫でた。
「けれどその時佐伯颯太の父である佐伯厳生が私の所に来た。」
佐伯颯太がゆっくりと田中さんを見る。
「ある会社の社長だった私に、美和子を捕まらせないために、佐伯颯太の嫁に美和子を渡し、私の会社と財産を寄越せと言ってきた。」
私は佐伯颯太を見た。佐伯颯太は信じられないという顔をした。
「そんな、俺たちは自然に出会ったぞ!」
田中さんの言うことが嘘だと言わんばかりに佐伯颯太は声を上げた。
「付き合って一か月で子供が出来たろう?」
その言葉で佐伯颯太は何かに気づいたような顔をした。
「あの子は君と美和子の子供じゃない。」
佐伯颯太は震えながら田中さんを見た。
「佐伯厳生と美和子の子供だ。」


私は思わず口元を押さえた。
力なく立ち尽くした佐伯颯太があまりにも哀れだった。
「ふざけんなよ・・・。」
そう言って佐伯颯太は近くの柱にもたれかかる。
「これが君たちの真実だ。」
全ては佐伯美和子と佐伯厳生が悪かった。私のこれまでの不幸も全てあいつ等のせいだった。
そして今私の目の前にいる佐伯颯太も被害者であった。でも私は、佐伯厳生の子供であり、美和子の夫であったこの男をどうしても許せなかった。
私は重くけだるいからだを立ち上げた。
「あかり・・・。」
佐伯颯太が私を呼んだ。けれど私は振り返らなかった。
「もしかして、美和子に復讐するために俺に近づいたのか?」
私はなにも言わずただ背中を向け続けた。
「答えろよ!」
佐伯颯太は私の肩を掴み私を振り返らせた。


「そうよ。」
私は俯いたまま言った。
「あなたに復讐するために近づいたの。」
私は淡々と話し続ける。
「美和子に渡したあのアジサイのネックレス、一か月以上浴びたら危険な放射能が含まれてる。」
その言葉で佐伯颯太の私の肩を掴む手の力が弱まる。
「最後に渡した指輪には母体に悪い物質が含まれてる。」
私は自分の手を握りながら言った。
―お願いだから、離れて。
そう願いを込めて。
「美和子は今、甲状腺のがんに。」
私は佐伯颯太の顔を見た。
「そして奇形児が生まれた。」
私の目から一粒涙がこぼれる。
佐伯颯太は私から手を離した。


重い、沈黙の空気が流れる。
「それでも」
佐伯颯太が口を開ける。
「それでも君が好きなんだ、君を失いたくないんだ。君が・・・。」
私の願いは届かず、佐伯颯太は私を抱きしめる。
「ふざけないで!!」
私は渾身の力を振り絞り佐伯颯太を突き飛ばした。
「私から全てを奪ったあの男の息子なんてこっちから願い下げよ!」
「でも、愛してるなら」
「愛してなんかいない!!」
私のその言葉で佐伯颯太に一気に悲しみが広がる。
「あかね・・。」
佐伯颯太が私の腕を掴む
「違う!」
私は佐伯颯太の手を振り払いながら叫んだ。
「私は白石あかねじゃない!西城優香よ!」


スパイである私の正体がばれてしまえば私の今回の任務は失敗ということだ。
でもそんなこと考える暇さえなかった。
「あなたを愛している白石あかねはこの世には存在しないわ。」
私は笑いながら言った。
「嘘だ、嘘だ。」
佐伯颯太は頭を抑え、涙を流しながら言った。
「じゃあ今までも全部芝居だったってことか・・・?」
私は佐伯颯太の顔から目を逸らした。
「答えろよ!」
そう言って佐伯颯太は私に手を振りかざした。
「やめろ!」
その時佐藤悠也が佐伯颯太の手を止めた。
「なんだよお前、あかねに気に入られてるからって調子に乗りやがって。」
佐伯颯太は手を下しながら佐藤悠也を睨んだ。
「妊婦に手は出すな。」
その佐藤悠也の言葉に佐伯颯太は驚いた。


「あかね、お前もしかして・・・。」
きっとこれが私にとって幸せな道に引き返す、最後のチャンスだった。今ここで私が恨みを捨てきれれば佐伯颯太と一緒に生きることが出来る。佐藤悠也が与えてくれた本当に最後のチャンスだった。
けれど幸せそうな笑顔の佐伯颯太を見て私は、ママとパパの死に顔を思い出した。
―嗚呼、不可能。
私は生唾を飲み一息つくと口を開いた。
「ええ、できたわ。」
涙をこらえて私は、最後のフレーズを口にする。
「佐藤さんとのね。」
目頭を押さえた佐藤悠也が私を見た。
―これで、私の復讐は終わり。
私は絶望のどん底に落ちた佐伯颯太を見届け、笑顔を浮かべると思いやり荘を出て行った。

16、「おい、あかね。」


私の後を追いかけてきた佐藤悠也が私を呼び止める。
私は気づけば駅のホームへ来ていた。私たち以外に人はいなかった。
「どういうことだよ。」
「何が?」
私は駅のホームのベンチに座る。
「僕の子供なわけないだろう。第一、僕が二人をつなぐ最後の切り札出してやったのにそれを仇で返しやがって。」
佐藤悠也は私の隣に座った。
「好きにしていいって言ったじゃない。」
私は笑いながら言った。
「お前のためを思って言ってるんだよ。もう復讐なんて忘れて、幸せになればいいのに。」
白い息を吐きながら佐藤悠也は言った。
「できると思う?」
私のその質問に佐藤悠也は黙った。私は笑顔を浮かべる。
「さっき子供が出来たって言った時佐伯颯太は嬉しそうな顔をした。けれどその顔


を見て私の脳裏にはママとパパの死に顔が浮かんだ。」
私はコンクリートの地面を見た。一匹のアリがうろうろとさまよっていた。私はそれを踏み潰ぶす。
「子供はどうするんだ。」
私はおなかをさすった。
「産むわよ、好きな人の子供だもの。」
はぁと佐藤悠也はため息をついた。
「まあ、ほとぼり冷めたらもう一回話し合ってみろよ。僕からおなかの子は僕の子供じゃないって話しておくから。」
私は何も言わずに前だけを見ていた。
「でももう、私は名前明かしちゃったから。思いやり荘には戻れない。」
そっか、と頭を抱えた佐藤悠也は上を向いた。
「近くにホテルあるかな・・・。」
そう言って佐藤悠也はスマホで検索し始めた。
私は叫んだ疲れから眠りそうになっていた。
「おい、寝るなよ。」


佐藤悠也は私に言って私の頬をぺちぺち叩く。
「さっき妊婦に手は上げるなって言ったじゃん。」
私は笑いながら言った。
「時と場合を考えろよ。」
そう言ってスマホから目を離した佐藤悠也は
「あ」
と声を上げた。
私はつられて顔を上げる。すると線路を挟んだ向かいのホームに佐伯颯太がいた。
茫然とこちらを見ている。
「なんか勘違いが起きそうだな・・・。」
そう言って佐藤悠也は私から離れた。私はどうしてよいか分からずただ佐伯颯太を見つめていた。私を見る佐伯颯太の目が何だかおかしかった。
「なあ。なんかうつろな目、してないか?」
そう言って佐藤悠也は立ち上がる。
―俺を君がいない生き地獄の世界に堕とし入れるなら、俺は君を絶対に許さない。
私は以前佐伯颯太が言っていたことを思い出した。


私も不信感を持ち立ち上がると、すると向こうの線路に電車が来る音が鳴った。
「行ってみるか。」
そう言って佐藤悠也は佐伯颯太の元へ歩き出した。私はどうしたらよいか分からずゆっくりと佐藤悠也の後に続いた。
けれど私が歩くのを見て、逃げたと勘違いした佐伯颯太は目の色を変え、私を追いかけるために線路に降りた。
「だめ!颯太!!」
私が叫んだ瞬間、電車は一瞬佐伯颯太を黄色いランプで照らし、その後大きな音を立てて止まった。
「見るな!」
そう言って佐藤悠也は私を抱きしめた。そしてスマホを取り出し急いで救急車を呼んでいた。
―嘘だ、嘘だ。電車になんて轢かれていない。
私は現実を受け入れられず、体中の震えが止まらなかった。
電話をし終えた佐藤悠也が私をなだめる。
「落ち着け、落ち着け。」


私の過呼吸気味の呼吸を整えようと佐藤悠也はゆっくり大きく背中を撫でる。
「どうしよう、どうしよう。」
どんなに強く体を押さえても震えは止まらない。
「大丈夫、大丈夫だ。」
優しい声で佐藤悠也は言った。
そうしているうちに救急車が到着し、佐伯颯太は運ばれていった。
赤いサイレンを見ているうちに私はいつの間にか血の気が引いて気絶していた。

17、気が付くと私は思いやり荘にいた。
枕元では佐藤悠也が座ったまま寝ていた。
起き上がって時計を見ると、午前3時を指していた。
小さな毛布を佐藤悠也にかけると、佐藤悠也は目を覚ました。
「大丈夫か?」
心配そうに私に問いかけた。
私は黙って頷いた。
「颯太は?」


私の質問に佐藤悠也は顔をくもらせる。
「まだわからない。」
私は本能的に駄目だったんだ、と悟った。
妊婦に死はタブーだから、佐藤悠也は私に真実を言わない。
私はぽろぽろと涙をこぼした。
「ごめんな。」
佐藤悠也は私に謝った。
「なぜ?佐藤さんは悪くないじゃない。」
私は笑顔を作るように努めた。
「お前をスパイに仕立てたのは僕だ。」
初めて佐伯颯太と寝た時から、私はこの展開を待ちわびていたはずだった。
けれど予想は外れ、虚無の枯れ川となったのは佐伯颯太ではなく私だった。
「佐藤さん、いえ。足立さん。」
私は佐藤悠也の本名を口にする。
「なんだ、西城。」
足立もまた私の本名を口にする。


「白石あかねを殺してくれませんか?」
私はスパイ仲間としてではなく、一人の人間として足立に懇願した。
真面目な顔で足立は私を見た。
「なぜ僕なんだ。」
私は今できる最大限の笑顔を浮かべる。
「白石あかねのお父さんですから。」
初めて会ったあの日から、足立さんは私につきっきりで世話をしてくれた。
10歳という幼さで親元から離れスパイの訓練を受ける私の辛さを誰よりも理解してくれた。
「自殺は怖いんです。」
私は足立さんの胸元から拳銃を取り出した。
「お願いします。足立さん。」
私の言葉に足立さんは涙を流していた。
私は足立さんに拳銃を差し出した。けれど足立さんは銃を受け取らない。
唇を固く閉ざした足立さんに私は無理やり拳銃を握らせ、銃口を私の頭に向けた。
かたかたと拳銃が震える。


足立さんの引き金を引く指に自分の指を添える。
「やめろ・・・。」
足立さんは首を横に振り、泣きながら私を止めようとする。
私は最後の力を振り絞って笑顔を作り、そして指に力を入れた。

18、『任務達成報告いたします。』
『本人確認のため、スパイ名をお願いします』
『佐藤悠也です』
『お待ちください』
鳴り響く明るい保留音は今の僕には気持ちが悪い。
『いや~仕事が早いね、佐藤君。』
繋がってすぐさま褒める上司の言葉に僕は何も感じなかった。
『いえ。』
『それにしても、自分の教え子を処分するなんて残酷なものだね。』
『あなたのご指示でしょう、佐伯厳生さん』
僕は上司であり今回の西城奏太殺しの黒幕である佐伯厳生の名前を呼んだ。


『楽しいゲームだったよ。』
からからと笑う佐伯厳生の様子に僕は奥歯を噛んだ。
『なぜ白石を佐伯颯太に近づかせ、苦しめたのですか。』
怒りがにじみ出ないように僕は懸命に冷静を装った。
『言ったろ?ちょっとしたゲームだと。それに私は佐伯颯太との駆け落ちは指示していない。』
『でも思いやり荘での任務を命じたのはあなただ。』
湧き出る力でスマホを壊してしまうのではないかと思うほど僕は強く手を握りしめた。
『邪魔者は消すに限る。美和子が生きるためには白石あかねは邪魔だった。』
『佐伯美奈子は裁かれるべき人間です。』
僕は思わず言ってはいけないことを口にした。
『確かにそうだがな、人間食うか食われるかだ。私と美和子の子供のためなら白石のような娘一人の命なんて惜しくない。』
僕はもう話す気力を失った。
『アジサイのネックレスも指輪もすぐさま回収した君の判断はお手柄だったよ。』


『・・・ありがとうございます。』
あかねに罪を犯させないためにした行動は本当に正しかったのか分からない。
白石あかねはもう死んでしまったのだから。
『これからもよろしくね』
そう言って佐伯厳生は電話を切った。
噂によれば佐伯美奈子はもう新しい男と結婚しているらしい。
「よかったな」
そう言って僕は西城優香に笑った。
「結局私は誰も殺してないわけね。」
安堵の微笑みを浮かべる西城優香の隣には全身包帯ぐるぐる巻きで寝ている佐伯颯太がいた。
「まさか僕の胸元の拳銃をおもちゃの拳銃にすり替えていたなんて。」
西城優香は舌を出した。
「さすがスパイだな。」
そう言いながら佐伯颯太は苦笑いした。
「元だけどね。」


僕はスパイの一覧を見て白石あかねに二重線を引いた。
「白石あかねは死んだ。」
僕は西城優香を見て言った。
「これからは西城優香として生きていく。」
西城優香と佐伯颯太は二人顔を見合わせた。
「名字変わるけどね。」
そう言った西城優香の笑顔は眩しかった。
「結局、ちょっと規模がでかめの夫婦喧嘩だったってことか・・・。」
僕は呆れて何も言えなかった。
「颯太が電車に轢かれて私が気絶したとき、私の夢にパパとママが出てきたの。
復讐なんて望んでないから、愛してる人と結婚しなさいって言われたわ。」
西城優香は遠い目をしながら言った。
「その時、私今まで何考えてたんだろうって思って。ただ颯太と一緒に居る口実を作りたかっただけなのかもしれない。」
幸せそうな西城優香の顔を見て僕はなんだか娘を嫁に出したような感じがして、何だかとても嫌になった。


「でもなんでわざわざ僕に拳銃を引かせたの?」
僕のその質問に西城優香は宙を仰ぐ。
「う~ん、けじめみたいな感じ?白石あかねを殺してもらいたかったの。白石あかねの生みの親、そして私の第二のお父さんにね。」
西城優香は僕に笑った。
「そっか。」
僕は西城優香の頭を撫でると席を立った。
「帰るの?」
西城優香が僕に聞いた。
「ああ、長居するとお邪魔かなと思ってね。ここにはいつまでいるんだ?」
僕は自分の荷物を持ちながら聞いた。
「ずっとここにいるつもり。なんせ行くところが他にないんだもの。」
「そっか。」
「佐藤さんはいつまでいるの?」
「もう行くよ。」
「そうだよね。」


少し寂しそうな顔をして西城優香は言った。
「元気でね。」
そう言って西城優香は僕に抱きついた。
「ああ、また会えるよ。」
僕はそんな嘘をついた。僕の嘘に気づきながらも西城優香は笑いながら頷いた。
「幸せになれよ。」
僕はそう言って、西城優香の頭を撫でた。
「ありがとね。」
その声は風に流されて消えていく。
僕は二人の眠る墓地を後にした。
―帰りは花屋に寄ろう、佐伯家に送るスイレンを買うために。


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