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シド・バレット伝 一


   シド・バレットについて気になって、携帯のサブスクリプションで繰り返し彼のソロアルバムを聴いていた。聴きながら彼のことを調べるほどに「狂気」「圧倒的、狂気」「戦慄...!!」みたいな文言が並んでおり、違和感を感じた(聴きながら怯えている人とか、馬鹿らしい)。この歳になってくると、子供の頃はそういった先行するイメージに絶対的な信頼を寄せていたことに気づく。アルバムのジャケットに音楽が影響を受けたり(しかし素晴らしいアルバムというのはジャケットも含めてのトータルである。聴く前からしっかり聴き手のイメージを誘導してくれる、例えばビートルズのリボルバーのジャケットのように)。いま手元にCDがないため、自分なりにネットで調べながら英詞をはじめから訳してみると、以外や彼の書く詩は普遍的なものが多く、とくに注意して聴いてみると能天気なラブソングが多いことに気がついた。最近になって、あるシドバレットを評したブログの記事で、「彼はこれまで思われてきた狂気のイメージを一度取っ払って、ウド鈴木やもう中学生のネタを見るようなノリで聴いてみるのもいい」と書かれてあるのを見て目からウロコであった。彼女のこの発想は、シドバレットの楽曲にはほとんどイントロというものがなく、どれも突発的に歌い始めるという点が発達障害的な感性であるという気づきから端を発しており、またシドバレットが2006年に60歳で亡くなったとき、彼の妹が「彼は今で言うアスペルガーと共感覚というちょっと風変わりな性格の持ち主で、晩年は地元の人と交流もしており、世間やマスコミが煽るほどのいかがわしい狂気に取り憑かれているようなところはなかった」と発言したことからの推測でもある。

   彼が本当にそこまで恐ろしいと言われるほどの薬物中毒で、悲惨な逸話を多く残したのか、はたしてそうだとしても、彼の作品にそれを結びつけて聴く前から身構えるというのは正しいことなのか、疑問に思った。はじめから言われている通りに「これは狂気で、不穏で、怪しくて、気持ちの悪いもので、」と額面通り受け取るには時代が発達しすぎて、現代は画質が人間の把握できる以上に良くなり情報もすぐさま広がり何が真で偽であるかが問われる時代であるからこそ、歴史上の偉人の逸話や存在自体の神格化されているものを疑って見てしまう。今一度ひとりの人間としてシドバレットを捉えてみたいと思った。彼がソロアルバムを出したのは、私の一個下の歳である。


   日本語で調べても、だいたいがCDのライナーノーツに書かれるような(この解説というやつらはほんとに幻想をつくるためにだけに生きている、もはや懐かしい存在です)ピックアップされて誇張されたエピソードばかりに思えたので、海外版のWikipediaをはじめから最後まで訳すことで日本には届かない省かれるようなくだらない情報もしっかりと知ることで、ひとりの人間として彼の軌跡を振り返ってみることにした。(といってもただ海外のウィキも匿名のファンが書いているにすぎないので信ぴょう性には欠けるかもしれない)

   先に言い訳をしておくと、私の英語力は酷いものです。携帯画面を連打して(おそらくこんなことを続けていれば一年後にはこの携帯はぶち壊れているでしょう)辞書と英文を交互に見てなんとか咀嚼し和訳した文章なので間違いが多くあるかもしれない(というかあるに決まっておる)as と although が何度も出てくるが、いまだにその単語の意味を覚えていない。that構文のシステムはどうにか把握したので助かったくらいである。それから彼の二枚のソロアルバムの邦訳が『帽子が笑う...不気味に』と『その名はバレット』なのだが、わたしは個人的にこの邦訳が気色悪くて大嫌いでなのでこの記事上では原題通り1枚目を『The Madcap Laughs』2枚目を『バレット』とする。その他、一般的に日本にちなみのない地名や人名などは適当にカタカナ表記で表しすことで統一した。




   1975年?あたりだろうか。有名なピンク・フロイドが『炎』をレコーディングしている際、急にスタジオにやってきた頃。変わり果てた姿にかつてのメンバーはしばらく誰も気づくことができず、気づいてからも悲しくて目も当てられず泣いたらしい(というが、太って禿げたくらいで勝手に悲しまれる身にもなれ、とわたしは思う。死ぬまで彼に宿っていたこの暗い目の雰囲気はカッコいいと思う)。

晩年(こんなおじいさん、素敵である。YouTubeのコメント欄では「ピカソのようだ」と書かれていた。)



シド・バレット伝 一




BGM♪Pink Floyd Early Years 1965









Roger Keith "Syd" Barrett (6 January 1946 – 7 July 2006) was an English singer, songwriter, and musician who co-founded the band Pink Floyd in 1965. Barrett named the group and was their original lead singer, guitarist and principal songwriter. He was ousted in April 1968 after David Gilmour took over as their new guitarist. Barrett was briefly hospitalised amid speculation of mental illness and his excessive use of psychedelic drugs.

   ロジャー・キース “ シド ” バレット(1946年1月6日 - 2006年7月7日)はイギリスの歌手、作曲家、1965年にピンクフロイドを創設したミュージシャン。バレットはそのバンドの名前をつけた上、リードシンガー、リードギター、そして主要な楽曲を制作した。彼は1968年4月にバンドを抜け、代わりにデヴィッド・ギルモアが新しいギタリストとして加入した。バレットは精神疾患と過剰な薬物の使用という憶測の中で一時入院した。

背景資料

出生名:ロジャー・キース・バレット
出生:1946年1月6日イギリス、ケンブリッジ
死亡:2006年7月7日(60歳)イギリス、ケンブリッジ
ジャンル:ロック、サイケデリック・ロック
職業:ミュージシャン、作詞作曲家、芸術家、詩人
担当楽器:ボーカル、ギター
活動期間:1963年から1972年
レーベル:ハーヴェスト
関連バンド:ピンクフロイド、スターズ

Barrett was musically active for less than ten years. With Pink Floyd, he recorded four singles, their debut album The Piper at the Gates of Dawn (1967), portions of their second album A Saucerful of Secrets (1968), and several unreleased songs. Barrett debuted his solo career in 1969 with the single "Octopus" from his first solo album, The Madcap Laughs (1970). The album was recorded over the course of a year with five different producers and included two tracks featuring members of Soft Machine.

   バレットの音楽活動期間は10年に満たない。ピンクフロイドとして、4枚のシングルとデビューアルバム『夜明けの口笛吹き(1967)』、セカンドアルバム『神秘(1968)』の一部分、そしていくつかの未発表曲をレコーディングした。
バレットのソロとしてのキャリアはファーストソロアルバム『The Madcap Laughs(1970)』からのシングル『オクトパス』を発表した1969年からである。このアルバムは5人の異なるプロデューサーと年を跨いで録音され、中にはソフト・マシーンのメンバーと関わった楽曲が二曲収められている。

He recorded and released one more album, Barrett (1970), produced by Gilmour and featuring contributions from former Pink Floyd bandmate Richard Wright. In 1972, Barrett left the music industry, retired from public life and strictly guarded his privacy until his death. In 1988, EMI released an album of unreleased tracks and outtakes, Opel, with Barrett's approval.

   彼がレコーディングし発売したもう1つのアルバムが『バレット(1970)』であり、ギルモアと以前在籍したピンクフロイドのバンドメイトであるリチャード・ライトがプロデューサーとして貢献した。1972年、バレットは音楽業界から去り、それ以降死去するまでまったく公に姿を現さずに隠居し続けた。1988年、未発表曲やアウトテイクを納めたアルバム『オペル』がEMIからバレット本人の承認を得て発売された。

Barrett was known for his English-accented singing, and his innovative guitar work and use of techniques such as dissonance, distortion and feedback influenced many musicians. Pink Floyd recorded several tributes and homages to him, including the 1975 song suite "Shine On You Crazy Diamond" and the 1979 rock opera The Wall. Following his withdrawal from the industry, Barrett continued painting and dedicated himself to gardening. He died of pancreatic cancer in 2006.

   バレットは彼のイギリス訛りの歌唱と、不協和音や歪み、フィードバックをテクニックとして使用した革新的なギターワークが多くのミュージシャンに影響を与えたとして知られる。ピンクフロイドは彼に対する敬意と賛辞を込めた楽曲をいくつか録音しており、1975年の『Shine On You Crazy Diamond』の組曲や、1979年のロックオペラ『The Wall』などに収められている。業界から去って以降は、バレットは絵画とガーデニングに熱心に取り組んでいた。彼はすい臓がんにより2006年に死去した。

生い立ち

初期

Barrett was born as Roger Keith Barrett in Cambridge, Cambridgeshire to a middle-class family living at 60 Glisson Road.[2][3] Barrett was the fourth of five children.[4] His father, Arthur Max Barrett, was a prominent pathologist[2][5][6] and was related to Elizabeth Garrett Anderson through Max's maternal grandmother Ellen Garrett, who was Elizabeth's cousin.[5][6] In 1951, his family moved to 183 Hills Road.[2][3]

   バレットはイギリスのケンブリッジシャー、ケンブリッジ、グリソン・ロード60番地に住む中産階級の家庭にロジャー・キース・バレットとして生まれた。
バレットは五人兄弟のうちの四番目だった。彼の父アーサー・マックス・バレットは、有数の病理学者であり、エリザベス・ギャレット・アンダースン(イギリス最初の女性医師)とも関連があったとされ、マックスの母方の祖母であるエレン・ギャレットは、エリザベスのいとこにあたる。1951年に家族はヒルズ・ロード183へ引っ越した。

Barrett played piano occasionally but usually preferred writing and drawing. He got a ukulele at 10, a banjo at 11[7] and a Hofner acoustic guitar at 14.[8][9] A year after he got his first acoustic guitar, he bought his first electric guitar and built his own amplifier. One story of how Barrett acquired the nickname "Syd" is that at the age of 14 he was named after an old local Cambridge jazz double bassist,[9][10] Sid "The Beat" Barrett, which claims Syd Barrett changed the spelling to differentiate himself from his namesake.[11]

   バレットは時折ピアノを弾いたが、文章を書いたり絵を描くことを好んだ。彼は10歳の時にウクレレを、11歳の時にバンジョーを、そして14歳の時にヘフナー社のアコースティックギターを手にした。彼が初めてアコースティックギターを手にしてから一年後、彼は初めてエレキギターを買い、自分自身のアンプを作った。バレットがどのようにして”シド(Syd)”の愛称を得たかという一説には、彼が14歳の頃、地元ケンブリッジにいた古いジャズベーシスト、シド”ザ・ビート”バレット(Sid “The Beat” Barrett)から、自分と区別するために名前の綴りを変えろとクレームがありSyd Barrett となったという。

Another account is that when he was 13, his schoolmates nicknamed him "Syd" after he showed up to a field day at Abington Scout site wearing a flat cap instead of his Scout beret because "Syd" was a "working-class" name.[12]

   またほかの一説には、彼が13歳の時、アビントン・スカウト(ボーイスカウト?)の敷地での野外演習授業でスカウトのベレー帽の代わりにハンチング帽を被っていたことを暴露されたあと彼のクラスメイトたちが彼に”Syd”というあだ名をつけたというものがある(”Syd”はイギリスの労働者階級風の名前だからである)。

He used both names interchangeably for several years. His sister Rosemary stated, "He was never Syd at home. He would never have allowed it."[10] He was a Scout with the 7th Cambridge troop and went on to be a patrol leader.[13]

   彼は数年間は両方の名前を交互に使った。彼の妹のローズマリーは「彼は家では絶対にシドは使わなかった。彼は絶対に許さなかったでしょう」と述べている。彼はケンブリッジスカウトの7期生で、見回りのリーダーになった。

At one point at Morley Memorial Junior School he was taught by the mother of future Pink Floyd bassist Roger Waters.[14] Later, in 1957, he attended Cambridgeshire High School for Boys[15] with Waters.[2] His father died of cancer on 11 December 1961,[9][16] less than a month before Barrett's 16th birthday.[17] On this date, Barrett left the entry in his diary blank.[9] By this time, his brothers and sisters had left home and his mother decided to rent out rooms to lodgers.[16][18][19]

   あるとき、モーリー記念中学校で彼はのちにピンクフロイドの母芯となるロジャー・ウォーターズに勉強を教わった。その後、1957年、彼はウォーターズによってケンブリッジシャー高校への推薦を得ている。彼の父は1961年12月11日に癌によって亡くなり、それから一ヶ月経たずでバレットは16歳の誕生日を迎えた。この日、バレットは日記に何も書かなかった。この時より、彼の兄と妹らは家を離れ、彼の母は部屋を借りることを決めた。

【ロジャー・ウォーターズ(以下、ウォーターズ)。顔からして貧相で、なんでもかんでも自分の都合のいいように悲惨に考えて被害者ぶるのが得意そうである。バレットがピンクフロイドを抜けた後は実質的なリーダーとなってバンドを世界的な成功に導く、が、わたしはまったくこいつに興味がない。自分の親はイタリアで日本軍に殺されたとかいうありもしない因縁を付けてくる、わたしはとにかく嫌いな相いれない人間である】

Eager to help her son recover from his grief, Barrett's mother encouraged the band in which he played, Geoff Mott and The Mottoes, a band which Barrett formed,[9] to perform in their front room. Waters and Barrett were childhood friends, and Waters often visited such gigs.[2][9][20] At one point, Waters even organised a gig, a CND benefit at Friends Meeting House on 11 March 1962,[2] but shortly afterwards Geoff Mott joined the Boston Crabs, and the Mottoes broke up.[9]

   どうにか彼を悲しみから助けることはできないかと、バレットの母は彼のバンドでの演奏を励まし、バレットの作ったジョフ・モット・ザ・モットーズというバンドを居間で演奏させた。ウォーターズとバレットは幼馴染であり、ウォーターズはしばしばそのバンドのギグに訪れていた。またもう一つ、ウォーターズが核軍縮キャンペーンの施設を借りたギグを企画し、1962年の5月11日に行われたが、その後間も無くジョフ・モットはボストン・グラブスに加入し、モットーズは解散した。

In September 1962, Barrett had taken a place at the Cambridge Technical College art department,[21] where he met David Gilmour.[22] During the winter of 1962 and early 1963, the Beatles made an impact on Barrett, and he began to play Beatles songs at parties and at picnics. In 1963, Barrett became a Rolling Stones fan and, with then-girlfriend Libby Gausden, saw them perform at a village hall in Cambridgeshire.[22]

   1962年9月、バレットはケンブリッジの美術を専門とした教育機関でデヴィッド・ギルモアと出会う。1962年の冬から1963年のはじめのあいだ、ビートルズがバレットに衝撃を与え、彼はビートルズの曲をパーティーやピクニックで演奏しはじめた。1963年、バレットはローリング・ストーンズのファンとなり、のちにガールフレンドとなるリビー・ガースデンといっしょにケンブリッジシャーの市民会館でのストーンズの演奏を観に行った。

【デビッド・ギルモア、以下ギルモア。イケメンである。絶対、性格もいい。掘りたい、掘られていいでしょう】

At this point, Barrett started writing songs; one friend recalls hearing "Effervescing Elephant" (later to be recorded on his solo album Barrett).[23] Also around this time, Barrett and Gilmour occasionally played acoustic gigs together.[24] Barrett had played bass guitar with Those Without during the summer of 1963[24][25] and both bass and guitar with The Hollerin' Blues the next summer.[24] In 1964, Barrett and Gausden saw Bob Dylan perform.[22] After this performance, Barrett was inspired to write "Bob Dylan Blues".[26] Barrett, now thinking about his future,[24] decided to apply for Camberwell College of Arts in London.[27] Barrett enrolled in the college in the summer of 1964[24] to study painting.[28]

   この時点で、バレットは曲作りを始めた。ある友達が思い出すには、「興奮した象」(のちに彼のソロアルバム『バレット』に収録される)を聞いたと言う。またこの時期、バレットとギルモアは時折ふたりでアコースティックギグを行った。1963年の夏の間、バレットはトーズ・ウィズアウトといっしょにベースを弾き、次の年の夏にはザ・ホラーリン・ブルースといっしょにベースとギターの両方を演奏したりした。1964年、バレットとガースデンはボブ・ディランの演奏を観た。パフォーマンスが終わった後、バレットは触発されて「ボブ・ディラン・ブルース」を書いた。バレットは今、自分の将来について考えている【注、唐突な現在形のこれはなんだ?素人の書き手がなんか盛り上がってきてるのか?それともおれの英語力のなさなのか?】、彼はロンドンのキャンバーウォール芸術大学に願書を送った。バレットは1964年の夏にその大学に入学し、絵を習った。

ピンクフロイド期(1965 - 1968)

【見ての通り、シドバレットとそれ以外である】

Starting in 1964, the band that would become Pink Floyd evolved through various line-up and name changes including "The Abdabs",[29][30] "The Screaming Abdabs",[30] "Sigma 6",[30][31] and "The Meggadeaths".[30] In 1965, Barrett joined them as the Tea Set[30][32] (sometimes spelled T-Set).[33] When they found themselves playing a concert with another band of the same name, Barrett came up with "The Pink Floyd Sound" (also known as "The Pink Floyd Blues Band",[33] later "The Pink Floyd").[nb 1] During 1965, they went into a studio for the first time, when a friend of Richard Wright's gave the band free time to record.[nb 2][32]

   1964年のはじめ、のちにピンクフロイドとなるそのバンドはさまざまなラインナップと、バンド名を徐々に発展させていた(「ザ・アブダブズ」「ザ・スクリーミング・アブダブズ」「シグマ・シックス」「ザ・メガデス」)。1965年、バレットは「ザ・ティー・セットThe Tea Set(綴りはときどきT-Setになったりした)」という名前の彼らのバンドに加入した。彼らがプレイするあるコンサートで同じ名前のバンドを見つけたとき、バレットが「ザ・ピンク・フロイド・サウンド」(ピンク・フロイド・ブルース・バンド、のちにピンク・フロイドとして知られる)を思いついた。1965年のあいだ、彼らは初めてスタジオに行ったとき、リチャード・ライトの友人の一人が彼らに自由に録音できる時間を与えた。

During this summer Barrett had his first LSD trip in the garden of friend Dave Gale,[40][41] with Ian Moore and Storm Thorgerson.[nb 3][40] During one trip, Barrett and another friend, Paul Charrier, ended up naked in the bath, reciting: "No rules, no rules".[42] That summer, as a consequence of the continuation of drug use, the band became absorbed in Sant Mat, a Sikh sect. Storm Thorgerson (then living on Earlham Street) and Barrett went to a London hotel to meet the sect's guru; Thorgerson managed to join the sect, while Barrett, however, was deemed too young to join. Thorgerson perceives this as a deeply important event in Barrett's life, as he was intensely upset by the rejection. While living within proximity of his friends, Barrett decided to write more songs ("Bike" was written around this time).[36]

【トリップ中】

   この夏のあいだにバレットは庭で友達のデイブ・ゲイル、イアン・ムーア、ストーム・トガーソンたちと彼自身初めてとなるLSD体験をした。トリップしている間、バレットは別の友人のポール・キャリアと、終わる頃には裸で浴槽におり、「ノー・ルール、ノー・ルール」と呟いていた。とある夏、薬物使用の継続の結果としてバンドはSant Mat,Sikh sect【注、ヨガやハーブから神秘体験を得て意識を拡張するという当時流行りのヤバめのやつか?】に夢中になった。
ストーム・トガーソン(まだエールハム・ストリートに住む前)とバレットはロンドンホテルへ向かう道すがら、ある宗派のグル(教祖)に出会った。トガーソンはその宗派の入会の管理をしており、一方でバレットは、しかしながら、まだ加入するには若すぎると判断された。トガーソンは彼がその拒絶に激しく動揺したため、これがバレットの人生において深く重要な出来事だったと確信する。彼の友達のすぐ近くで生活しながら、バレットはたくさんの曲を書くことを決意した。(「バイク」はこの頃に書かれた曲である。)

【注、このあたりから自分が物語を書いているような気持ちになってきて(実際はただ翻訳、しかもウィキペディアを、しているだけだが)非常に気持ちよくなってきている。横文字が多いのもまるで海外小説を読んでいるようで爽快である。


ロンドン・アンダーグラウンド、ブラックヒル・エンタープライズとギグ

While Pink Floyd began by playing cover versions of American R&B songs,[43] by 1966 they had carved out their own style of improvised rock and roll,[44][45] which drew as much from improvised jazz.[46] After Bob Klose departed from the band, the band's direction changed. However, the change was not instantaneous,[nb 4] with more improvising on the guitars and keyboards.[36] Drummer Nick Mason reflected, "It always felt to me that most of the ideas were emanating from Syd at the time."[nb 5][36]

   ピンクフロイドはアメリカのR&Bのカバー演奏をしはじめながら、1966年より彼らはジャズの即興演奏と同じような即興演奏のロックンロールという独自のスタイルを自分たちでつくりあげた。ボブ・クロスはその後バンドをはなれ、バンドの方向性は変わった。しかしながら、その変化はたちどころにではなく、もっとギターとキーボードの即興演奏を増やそうというものだった。ドラマーのニック・ネルソンは振り返る、「アイデアの多くはその時シドから発散されていたものだといつも僕に感じさせた」

At this time, Barrett's reading reputedly included: Grimm's Fairy Tales, Tolkien's The Hobbit and Lord of the Rings, Carlos Castaneda's The Teachings of Don Juan,[clarification needed] and The I-Ching. During this period, Barrett wrote most of the songs for Pink Floyd's first album, and also songs that would later appear on his solo albums.[49] In 1966, a new rock concert venue, the UFO (pronounced as "you-foe"),[51] opened in London and quickly became a haven for British psychedelic music. Pink Floyd, the house band,[47][51][52][53] was its most popular attraction and after making appearances at the rival Roundhouse,[53][54][55] became the most popular musical group of the "London Underground" psychedelic music scene.[8]

   この時のバレットの読書は通説によれば、グリム童話、トールキンのホビットの冒険、指輪物語、カルロス・カスタネダのドンファンの教え、易径。
   その期間に、バレットはピンクフロイドのファーストアルバムのためにたくさんの曲を書き、そしてまたのちに彼のソロアルバムで発表される曲も書いた。1966年、新たなライブハウス『UFO(ユーフォーと発音する)』がロンドンでオープンすると、瞬く間にイギリスのサイケデリック・ミュージックの溜まり場となった。ピンクフロイドや、そのハウスに出演するバンドはもっとも有名な呼びもので、ラウンドハウスのリバイバルだと多くの客を呼び込み、”ロンドン・アンダーグラウンド”のサイケデリック・ミュージック・シーンでもっとも有名な音楽グループになった。

【UFOでのピンクフロイドのライブ、この独創的な照明ライティングは今となってはテクノなどのイベントでは当たり前のVJの先駆けである。と思う。】

By the end of 1966, Pink Floyd had gained a reliable management team in Andrew King and Peter Jenner.[56] Towards the end of October 1966, Pink Floyd, with King and Jenner, set up Blackhill Enterprises, to manage the group's finances. Blackhill was staffed by lodgers Jenner found in his Edbrooke Road house, and among others, Barrett's flatmate, Peter Wynne Wilson (who became road manager, however, since he had more experience in lighting, he was also lighting assistant).[57] King and Jenner wanted to prepare some demo recordings for a possible record deal, so at the end of October, they booked a session at Thompson Private Recording Studio,[53] in Hemel Hempstead.[nb 6][57] King said of the demos: "That was the first time I realised they were going to write all their own material, Syd just turned into a songwriter, it seemed like overnight."[58]

   1966年の終わり、ピンクフロイドはアンドリュー・キングとピーター・ジェナーによるマネジメントチームから信頼を得た。1966年10月が終わりころ、ピンクフロイドはキングとジェナーと共にグループの財源を管理するための会社「ブラックヒル・エンタープライズ」を設立した。「ブラックヒルズ」はジェナーのエドブローク・ロードの家で見つけた下宿人や、その中に住み着いていたものたち、バレットのルームメイト、ピーター・ワイン・ウィルソン(ロードマネージャーとして雇ったが、ライティングでの強烈な体験を経てからはライティング・アシスタントとなった)等をスタッフにつけた。キングとジェナーは有りえべきレコード契約のためにいくつかのデモを録りたがり、ようやく10月末に、ハメル・ハンプスタッドのトンプソン・プライベート・レコーディング・スタジオでセッションの予約をした。キングはこのデモについて語る。「そのとき初めて僕は、彼らが彼らの持っている全ての素材で作るつもりだと気づかされた、シドはただソングライターとして波長を合わせるだけで、たった一晩だった気がする。」

King and Jenner befriended American expatriate Joe Boyd, the promoter of the UFO Club, who was making a name for himself as one of the more important entrepreneurs on the British music scene. The newly hired booking agent, Bryan Morrison, and Boyd had proposed sending in better quality recordings. From Morrison's agency the band played a gig outside London for the first time.[59]

   キングとジェナーはアメリカを国外追放されたジョー・ボイドというUFO Clubのプロモーターと仲良くなった、彼はイギリスのミュージックシーンの中でとても重要な起業家の一人として自身の名を売っているところだった。
新たに雇ったブッキングマネージャー、ブライアン・モリスンとボイドには、より良い品質のレコーディングを送ってくるよう頼まれていた。モリスンの代理バンドは初めてロンドンの外でギグをした。

In November, the band performed the first (of many) strangely named concerts: Philadelic Music for Simian Hominids, a multimedia event arranged by the group's former landlord, Mike Leonard, at Hornsey College of Art.[53][59] They performed at the Free School[60] for the following two weeks, before performing at the Psychodelphia Versus Ian Smith event at the Roundhouse in December, arranged by the Majority Rule for Rhodesia Campaign, and an Oxfam benefit at the Albert Hall[53] (the band's biggest venue up to this point).[59]

   11月、バンドは初めての(そしてたくさんの)奇妙な名前のコンサートに出演した。「シミアン・ホーミングのためのサイケデリック・ミュージック」、「そのグループの前の家主によってアレンジされたマルチメディアイベント」、「マイク・レオナルド」、「ホーンジー芸術大学」。彼らは2週間以下でフリースクールを廻り、それまでに12月にはラウンドハウスでのイベント、「サイケデリアVSイアン・スミス」で演奏し、「ローデシア・キャンペーンのための多数派の規則」に手配され、そしてアルバート・ホールでのオックスファム慈善会に出た。(この時のバンドにとってもっとも大きい会場がここである。)


Tonite Lets All Make Love In London
さあ今夜はロンドンで愛し合おう

At the beginning of 1967, Barrett was dating Jenny Spires (who would later marry future Stars member Jack Monck). However, unknown to Barrett, Spires had an affair with Peter Whitehead. Spires convinced Whitehead (who thought the band sounded like "bad Schoenberg") to use Pink Floyd in a film about the swinging London scene.[61] So at the cost of £80 (equivalent to £1,426 in 2018[62]), in January, Whitehead took the band into John Wood's Sound Techniques in Chelsea,[63] with promoter Joe Boyd in tow.[61] Here, the band recorded a 16-minute version of "Interstellar Overdrive" and another composition, "Nick's Boogie".[61][63] Whitehead had filmed this recording, which was used in the film Tonite Let's All Make Love in London[63] and later on the video release of London '66–'67.[61][63] Whitehead later commented about the band that: "They were just completely welded together, just like a jazz group".[61]

   1967年のはじまり、バレットはジェニー・スパイアースとデートしていた(彼女はその後、スターズのメンバーとなるジャック・モンクと結婚する)。しかしながらバレットは知らなかった、スパイアースがピーター・ウィザーヘッドとある仕事にとりかかっていることを。スパイアースはウィザーヘッド(彼はピンクフロイドのことを「悪いシェーンベルグだ」と思っていた。)がスウィンギン・ロンドン・シーン(当時の若者のカルチャー)についてのフィルムでピンクフロイドを使ってくれると確信していた。
80ポンドのコストがかかったが(2018年でいう1426ポンド)、1月、ウィザーヘッドはバンドを「ジョン・ウッドのサウンド・テクニーク・イン・チェルシー」にプロモーターであるジョー・ボイドとともに引き連れた。ここで、バンドは16分バージョンの「星空のドライブ」と、別の編曲での「ニックス・ブギー」を録音した。ウィザーヘッドはこの録音模様をフィルム撮影し、映画「Tonite Lets All Make Love In London」に使用したあと、ビデオ作品「London ‘66-‘67」として発売した。
ウィザーヘッドはその後、バンドについてこう話している。「彼らは皆が完璧に溶接されていた、まるで一つのジャズグループのように」


夜明けの口笛吹き

【バレット、とそれ以外である。というかブスのウォーターズと二人のみか。】

Boyd attempted to sign the band with Polydor Records.[50][64] However, Morrison had convinced King and Jenner to try to start a bidding war between Polydor and EMI.[64] In late January, Boyd produced a recording session for the group,[50][56] with them returning to Sound Techniques in Chelsea again.[nb 7][50][66] After the bidding war idea was finished, Pink Floyd signed with EMI. Unusual for the time, the deal included recording an album, which meant the band had unlimited studio time at EMI Studios in return for a smaller royalty percentage. The band then attempted to re-record "Arnold Layne", but the Boyd version from January was released instead.[65]

   ボイドはバンドをポリドールレコードと契約させようと計画した。しかしながら、モリソンはキングとジェナーがポリドールとEMIに買収合戦を始めさせようと試みていることを確信していた。一月の終わり、「サウンド・テクニーク・イン・チェルシー」での演奏をもう一度再現させようと、バンドのレコーディングセッションをボイドがプロデュースした。その後、買収合戦は終わりを迎え、ピンクフロイドはEMIの契約書にサインした。そんな普通でない時期の中、契約金をアルバムのレコーディング費用に注ぎ込んだことは、バンドに支払われる対価がすくなることと引き換えに、無制限にEMIスタジオを使用できることを意味した。バンドはそれから「アーノルド・レイン」のレコードを計画したが、代わりに一月にボイドのプロデュースしたバージョンが発売された。【ここらへんがたぶんおれの翻訳は間違ってると思う、時系列が意味不明である

The band's first studio album, The Piper at the Gates of Dawn, was recorded intermittently between February and July 1967 in Studio 3 at Abbey Road Studios, and produced by former Beatles engineer Norman Smith.[67] By the time the album was released on 4 August, "Arnold Layne" (which was released months earlier, on 11 March) had reached number 20 on the British singles charts[68] (despite being banned by Radio London)[65][69] and the follow-up single, "See Emily Play", had done even better, peaking at number 6.[68] The album was successful in the UK, hitting number 6 on the British album charts.[68] Their first three singles (including their third, "Apples and Oranges"), were written by Barrett, who also was the principal visionary/author of their critically acclaimed 1967 debut album. Of the eleven songs on Piper, Barrett wrote eight and co-wrote another two.[

   バンドのファーストアルバム、『夜明けの口笛吹き』はビートルズのエンジニアであるノーマン・スミスがプロデューサーとなって、アビーロードスタジオ・スタジオ3にて1967年の2月から7月にかけて断続的に録音された。8月4日にアルバムが発売されるまでに、「アーノルド・レイン」(何ヶ月も早い3月11日に発売)がイギリスシングルチャートで20位を記録、そのあとの「確認用」シングル「シー・エミリー・プレイ」はより受けがよく、6位まで検討した。
彼らのはじめの三つのシングル(サードシングル「アップルズ・アンド・オレンジズ」を含む)はバレットにより書かれたもので、バレットは批評家たちから絶賛を受けた1967年のデビューアルバムを作った先見の明のある主要なソングライターという評価を得た。アルバムの中の11曲のうち、8曲がバレットの書いたもので、残りのうち2曲がバレットがメンバーと共同で作ったものである。

健康問題とピンクフロイドからの決別

Through late 1967 and early 1968, Barrett became increasingly erratic, partly as a consequence of his reported heavy use of psychedelic drugs such as LSD.[8] There is also speculation that he suffered from schizophrenia. Once described as joyful, friendly, and extroverted, he became increasingly depressed and socially withdrawn, and experienced hallucinations, disorganized speech, memory lapses, intense mood swings, and periods of catatonia.[4] Although the changes began gradually, he went missing for a long weekend and, according to several friends, including Wright, came back "a completely different person."[4]

   1967年の終わりから1968年のはじめにかけて、バレットはだんだん突飛になり、彼の言によれば幾分かはLSDといったような幻覚作用のあるドラッグの過剰摂取の結果である。そこには彼のスキゾフレニア【統合失調症、しかしここらへんが眉唾ものである。統合失調症というの発症すればもうほとんど死ぬまで付きまとわれる精神病であるはずで、寛解というものがあるにしても、この60年代の時期にはたして今で言うこの病気なのか謎であるし、私見ではあるがLSDの幻覚体験には統合失調症の感覚に近いものがあったと思われる故に、単にLSDにハマりすぎていたというだけのようにも思う、統合失調症というのは日本では少し前までは精神分裂病という読むだけでも恐ろしい病名で扱われていた。この精神分裂という単語の禍々しさによって神格化された日本のパンクバンドアーティストをわたしは知っている、何が言いたいかというと、言葉のイメージと届く情報のイメージで受け手が勝手に盛り上がって本来のアーティストのイメージを拡大して見かねないということである。簡単に音楽に結びつけるべきではないはずだ。そしてこれは完全なるわたしの独断であるけれども、シドバレットは統合失調症でもなければ、うつ病になることも生涯なかったように思う。完全なる私見であるが】による苦しみがあったと推測されてもいる。楽しいと言いったり、親しみがあるとか、外向的になったかと思うと、次はどんどんと憂鬱に落ち込み社会的に引っ込みがちになって、幻覚体験、無秩序な言動、しくじった思い出、激しい気分の揺れ、そして緊張病の極致。徐々に変わりはじめていったのだけれど、彼は長い週末のあと戻ってきたとき、そしてライトを含むいくつかの友人たちによれば、「完璧に違う人間だった」


One of the striking features of his change was the development of a blank, dead-eyed stare. He did not recognise old friends, and often did not know where he was; while on a tour of Los Angeles, Barrett is said to have exclaimed, "Gee, it sure is nice to be in Las Vegas!"[4] Many reports described him on stage, strumming one chord through the entire concert, or not playing at all.[71] At a show at The Fillmore in San Francisco, during a performance of "Interstellar Overdrive", Barrett slowly detuned his guitar. The audience seemed to enjoy such antics, unaware of the rest of the band's consternation.

   彼の変化についての一つの際立った点は発達の虚ろな、死んだ目でじっと見つめることだった。彼は古い友人を認識することができない上、しばしば自分がどこにいるのかもわからないようだった。ロサンゼルスでのツアーの間、バレットは叫んでこう言った。「おや!ラスベガスはいいところだなあ!」ステージ上での彼についての多くの報告があり、コンサートのはじめから終わりまでまるまる一つのコードをストロークし続けていただとか、あるいは一度も何も弾かずに終わったというのもある。サンフランシスコのザ・フィルモアでのショウでは、「星空のドライブ」の演奏中、バレットはゆっくりとギターの調律をひねるのだった。聴衆はふざけているのだと楽しんだが、何も知らないメンバーは仰天した。

【このロサンゼルスをラスベガスと間違える奇妙な言説の逸話であるが、単なる冗談か、疲れていたか、無知か、それだけの話ではないのか?ことさらに強調しすぎであると思う。ここにもまた彼の狂気性を煽りたい悪い遺伝子が残っている。】

Interviewed on Pat Boone's show during this tour, Barrett's reply to Boone's questions was a "blank and totally mute stare"; according to Mason, "Syd wasn't into moving his lips that day." Barrett exhibited similar behaviour during the band's first appearance on Dick Clark's popular TV show American Bandstand.[72] Although surviving footage of this appearance shows Barrett miming his parts of the song competently,[73] during a group interview afterwards, when asked two questions by Clark, Barrett's answers were terse, almost to the point of rudeness (though, Clark noted, they had flown non-stop from London to Los Angeles). During this time, Barrett would often forget to bring his guitar to sessions, damage equipment and occasionally was unable to hold his pick.[74] Before a performance in late 1967, Barrett reportedly crushed Mandrax tranquilliser tablets and a tube of Brylcreem into his hair, subsequently which melted down his face under the heat of the stage lighting,[75] making him look like "a guttered candle".[76] Mason disputed the Mandrax portion of this story, stating that "Syd would never waste good mandies".[77]
   このツアーの間でのパット・ブーンのテレビ番組のインタビューで、ブーンの質問に対しバレットは繰り返し「虚ろで完全に生気の抜けた目で見つめる」ことで返答した。メイソンによると、「シドはあの日、唇が動いていなかった」ディック・クラークの有名なテレビ番組「アメリカン・バンドスタンド」にバンドが初めて出演した時もバレットは同じような挙動であった。この番組に出演した映像が残されているのだが、バレットは演奏する曲の自分のパートは充分適切にモノマネしている(口パクに合わせたということか)。グループのインタビューが終わったあとで、クラークから二つの質問をされた時、バレットの答えはそっけなく、ほとんどほとんど礼儀知らずなものだった(クラークの覚え書きによれば、彼らはロンドンからロサンゼルスまでノンストップで飛行してきたのだ)。このころ、バレットはしばしば自分のギターを持ってくるのを忘れたりと機能が果たせず、ときおりピックを握ることもできなかった。1967年終わりごろの演奏前では、バレットは伝えられるところによるとくだかれたメタカロン(鎮静剤)のタブレットとブリルクリーム(整髪用品)のチューブを髪につけ、ステージの照明の熱の下での彼の顔は正気を失っており、彼の様子は「とろけたキャンドル」のようだったという。メイソンはこのメタカロンの錠剤の話について異議を唱えており、「シドは絶対にメタカロン錠剤を無駄に使うようなことはなかった」と述べている。


During their UK tour with Jimi Hendrix in November 1967, guitarist David O'List from The Nice substituted for Barrett on several occasions when he was unable to perform or failed to appear.[78] Sometime around Christmas, Barrett's schoolfriend David Gilmour was asked to join the band as a second guitarist to cover for Barrett, with the idea of retaining a five-member line-up of the band. For a handful of shows, Gilmour played and sang while Barrett wandered around on stage, occasionally joining the playing. The other band members soon grew tired of Barrett's antics and, on 26 January 1968, when Waters was driving on the way to a show at Southampton University, the band elected not to pick Barrett up: one person in the car said, "Shall we pick Syd up?" and another said, "Let's not bother."[79][80][81][82] As Barrett had, up until then, written the bulk of the band's material, the initial plan was to keep him in the group as a non-touring member—as the Beach Boys had done with Brian Wilson—but this proved impractical.[81][83][84] Gilmour subsequently became a full-time member of the band.

   1967年の11月にジミ・ヘンドリックスとイギリスツアーを回っているあいだ、バレットがたびたびわけのわからない演奏をしたり出演をすっぽかした時は代わりにザ・ナイスのデイビッド・オーリストがギターを弾いた。クリスマスの前後になると、バレットの学友であったデイビッド・ギルモアがバンドから、バレットをカバーするためにもセカンドギタリストとして加入しないかと打診され、この五人のメンバーでバンドを持続するという案が保持された。一握りのショウのためにも、ギルモアはバレットがステージ上で奇妙な行動をしているあいだは歌い演奏し、たびたびバンドに参加した。いよいよほかのメンバーたちがバレットのおふざけに耐えきれなくなったのは、1968年の1月26日、サウスハンプトン大学でのショウへ向かってウォーターズが運転しているときだった、バンドはバレットを迎えにいかないことを選んだ。車の中である一人が言った「シドは迎えにいくか?」別の誰かが言った「もう気にしなくていいさ」バレットとしては、それまでは、バンドの一員として楽曲の大半を書いた、初期計画としては彼をツアーに帯同しないメンバーとして残しておくつもりだったが -ビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンのように- しかしながらこれは実行不可能と証明された。その後はギルモアがバンドのフルタイムメンバーとなった。

According to Waters, Barrett came to what was to be their last practice session with a new song he had dubbed "Have You Got It Yet?" The song seemed simple enough when he first presented it, but it soon became impossibly difficult to learn; they eventually realised that while they were practising it, Barrett kept changing the arrangement.[81][84] He would then play it again, with the arbitrary changes, and sing "Have you got it yet?" Eventually, they realised they never would, and that they were simply bearing the brunt of Barrett's idiosyncratic sense of humour.[85] Waters called it "a real act of mad genius".[81][84]

   ウォーターズが後に述べるには、バレットは彼らの新曲「ハブ・ユー・ゴット・イェット?」を作る最後のセッションにやってきたという。この曲を彼が初めに提示したときは単純すぎると思われたが、まもなく教わることが困難で不可能だとわかった。ついに彼らは演奏中に気がついた、バレットがアレンジを変えつづけていることを。彼がもう一度演奏しだすと、勝手に変わっている、そして歌う「まだ持っているのかい?」ついには、やがて、彼らが絶対にできないことに気がつき、バレットの白痴的なセンスのユーモアに単純に応じた。ウォーターズはそれを「ほんものの狂気の天才」と呼んだ。

Barrett did not contribute material to the band after A Saucerful of Secrets was released in 1968. Of the songs he wrote for Pink Floyd after The Piper at the Gates of Dawn, only one, "Jugband Blues", made it to the band's second album; "Apples and Oranges", became a less-than-successful single; and two others, "Scream Thy Last Scream" and "Vegetable Man", were never officially released until 2016 in The Early Years 1965–1972 box set, as they were deemed too dark and unsettling.[4] Feeling guilty for ousting their friend, the members of Pink Floyd were unable to bring themselves to definitively tell Barrett that he was no longer in the band.[4]

【ピンクフロイドのセカンドアルバム、『神秘』このアルバムではシドバレットは「ジャグバンドブルース」の一曲のみを提供し、その後は脱退している。このアルバムから先のピンクフロイドはまったく別のバンドである。興味がない。とくにウォーターズの顔が気にくわない】

   バレットは1968年に発売されたバンドのセカンドアルバム『神秘』のあとからは何一つ貢献しなかった。彼が『夜明けの口笛吹き』以降にピンクフロイドで書いた楽曲はただ一つ「ジャグバンド・ブルース」のみであり、バンドのセカンドアルバム用に作られた。「アップルズ・アンド・オレンジズ」はシングルとしてはうまくいかなかった。そのほかの二曲、「スクリーム・サイ・ラスト・スクリーム」と「ベジタブル・マン」はあまりに暗く不安を煽ると思われ、2016年に『The Early Years 1965 - 1972 box set』として発売されるまでは公式にはリリースされなかった。彼らの友人であったバレットを追い出したことに罪の意識を感じていたピンクフロイドのメンバーたちは、彼がバンドから居なくなってからも長い間バレットにしっかりと伝えることができなかった。

【注、このあたりからしばらくはおれが怪しいのか、それともとんでもないイタめのファンが小説風にノリに乗って書いているからなのか、ちょっと意味がわからないがせっかく頑張って訳したので載せておく。己の英語力のなさを恨むばかりである↓】

According to Rick Wright, who lived with Barrett at the time, Wright had the awful job of telling Barrett that he was going out to buy cigarettes while he went off to play a gig. He would return hours later to find Barrett in the same position, sometimes with a cigarette burned completely down between his fingers (an incident later referenced in Pink Floyd's The Wall).[4] Emerging from catatonia and unaware that a long period of time had elapsed, Barrett would ask, "Have you got the cigarettes?".[4] Barrett supposedly spent time outside the recording studio, in the reception area,[86] waiting to be invited in.

   その頃バレットといっしょに住んでいたリックライトによるとライトは、タバコを買いに行ったかギグの演奏に出かけたバレットに伝えるというひどい仕事を請け負った。彼は同じ場所にバレットを見つけるために数時間後に戻るだろう、タバコが指の間で完全に燃え尽きた(のちにピンク・フロイドの『ザ・ウォール』で参照される出来事)。新たな緊張病と長い時間が経ったことを知らないで、バレットはたずねるだろう、「タバコを持ってないか?」バレットはおそらくレコーディングスタジオの外で時間を費やしたと思うだろう、受信地域で、招待されるのを待ち続けていた。

He also showed up to a few gigs and glared at Gilmour. Barrett played slide guitar on "Remember a Day" (which had been first attempted during the Piper sessions), and also played on "Set the Controls for the Heart of the Sun".[87] On 6 April 1968, the group officially announced Barrett was no longer a member,[86] the same day the band's contract with Blackhill Enterprises was terminated. Considering Barrett to be the musical brains of the band, Blackhill Enterprises retained Barrett.[4][81][88]

   彼はまた少しのギグとギラギラ光るギルモアのもとに現れた。バレットは「リメンバー・ア・デイ」でスライドギターを弾いた(始めのファーストアルバムセッションで試みられていた)そして「セット・ザ・コントロールズ・フォー・ハート・オブ・ザ・サン」もまた同様に演奏した。1968年4月6日、バンドはバレットが脱退したことを公式に発表し、同じ日にバンドはブラックヒル・エンタープライズとの契約を解消した。バンドの音楽的支柱であったバレットを思えば、ブラックヒル・エンタープライズはバレットとの関係は留保とした。

感想

   普段書いている日記とは違って、翻訳なので読み返してみるとすごく純粋な子供みたいな文章が綺麗に思えて勉強になりました。それからすでにウィキペディアは全て翻訳し終えてシドバレットに関しては残り二回で終わるのですけども、こうしてある人間が生まれて死ぬまでを(単なるウィキペディアではあるけれども(でもおれは英語が苦手で頑張って一文一文と奮闘して結局徹夜で三日かかって翻訳し終えたのだが))追ってみると、不思議な心地がした。役者というのは、こういう心地なのかという感じなのかもしれないとおもった。あるいは森鴎外の渋江抽斎であったり、太宰治の右大臣実朝など過去の人物に取材した日本の文学作品を思い出して、なるほど面白いものだと思った。ここに創作をくっつけて、自分なりの解釈を加えて一つの作品とするのだろう。現在、日本においてシドバレットの情報はあまり多くない中で、こうしてシドバレットというか人間を紹介できたことを嬉しく思っていますだと?了

二へつづく

♪オクトパス/1970/6/6(あとで語られる唯一のシドバレットのソロ公演の演奏から一曲)





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