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本の記憶。マルクスの『資本論』

わたしがこれまで読んだ本のなかで、一番大きな影響を受けた本はなにかと訊かれたら、わたしはマルクスの『資本論』の名前をあげざるをえないと思っている。

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立原道造の詩集や堀辰雄の小説のように大好きな本や、もう愛しているといってもいい横光利一の『春は馬車に乗って』や『機械』のような本、藤沢周平が書いた『用心棒日月抄』、ハモンド・イネスも好きだし、ウィリアム・フォークナーにもしびれる。これらはみんな好きな本だが、自分がものを考え、作家として文章を書いていく上で一番大きな影響を受けた本というと、やはり『資本論』の書名をあげざるをえない。

マルクスは19世紀の哲学者・思想家でその学的範囲は唯物論からプロレタリア革命にまで、膨大な領域に及ぶ。

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実はわたしも学生時代、[革命]という幻惑的な言葉に纏いつかれてものを考えた時期があったのだが、大学を卒業して、会社勤めを始めたトタンに、プロレタリア革命(それと歴史主義)なんてちゃんちゃらおかしいな、と思った。しかし、マルクスの経済学だけは(つまりマルクス経済学だけは)それとは別で、自分が社会的なことについてものを考えていく上で、最大最重要の基本の枠組みを作ってくれた考え方だと思っている。
簡単にいうと、それは人間の生きることに関わる[価値]を使用価値と考え、それを経済学的にとらえ直したときに商品価値と考え、この価値の形態が社会を動かす原動力となる、という考え方。また、その価値というのは人間の労働によって生み出されるものであり、すべての社会的動因の根源は労働力であるという考え方だった。
この考え方に基づいて、世の中の様々のことを見ると、どんな理想を掲げて生きる人間が美しいかとか、別に不倫したって本人が責任をとればそれはそれでいいじゃないかとか、社会的な美や倫理、様々の観念の側面のいろんなことがわかってくる。あるとき、わたしがあまり頭の働かない、ある友人に「マルクスの資本論を読むといい」といったら、「シオザワさんてアカだったんですね」といわれたので驚いた。マルクスの事績をそういうふうにしか考えていないのかと、ガッカリした。アカというのは戦前の治安維持法時代にマルクスの思想の信奉者を世の中の庶民がそう呼んだ呼称である。
自慢話になってしまうから、関連する周辺資料を自分の図書館に何百冊持っているなどという話はしないが、自宅の書斎の机回りの関連書籍をかき集めただけで8冊あった。

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学生時代にわたしが読んだのは長谷部文雄さんの訳した『資本論』(多分、青木書店版)だったと思うが、これは40歳くらいのときに急にたくさんの本に囲まれて生きているのがイヤになって、蔵書を売り払ってしまったことがあり、そのとき、処分してしまった。いまわたしが持っている『資本論』は大内兵衛の訳した大月書店版で、古本屋で買ったもの。全巻そろいで千五百円とかだったと思う。
マルキシズムを過去の遺物のようにいう人がいるが、その歴史主義的な革命思想はともかくとして、社会科学としての近代経済学とマルクス経済学の両方を勉強すれば、近代経済学のモダニズムと同時に基本の社会観、企業観はマルクス経済学の価値論に依拠しなければ社会科学として成立しない、学としての根底部分の絶対性がよく分かるはずである。マルクスの学的成果なしでは、近代経済学はただの数字遊びに堕しかねない。

マルクスの政治哲学的な部分は二十世紀末のソ連などの共産主義国家=社会主義国家の崩壊で、ある部分、限界性が見えたと思うが、根本の経済学的な[使用価値]から始まるものの見方は、いまも有効というより、周囲に煙幕が張られているような混沌の時代に生きているわたしたちにとって、社会がよく見えるようになり、人間というのがどういう存在なのか分かるようになる真実を突きとめる魔法のツールみたいなモノだと思う。
日本の未来も、人類の将来も、依然として[資本のもつ暴虐性=収奪の誘惑]をどうやって克服するかという問題にかかっている。資本=お金は大事だが、お金に振り回されて生きてはならないのだ。

ここから先は【資本】というものをどう考えるかについての論及だが、先日の朝日新聞でこういう記事を見つけた。

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この原稿。重田園江さんという明治大学の先生。教授なのだが、原稿の彫り込みが浅いのが気になっている。これが現在の最前線の学者たちの一般的な認識なのだろうか。安倍政権が株価の維持を重視したことを弾劾している。小見出しがふたつ、

「促された分散小口、株価維持が最優先」
「不正や弱者は見ず 失う公正の感覚」

と並んでいる。この先生に、個人的な意趣はなにもないのだが、朝日新聞がなにも考えずにこの言説をのせているのではないかと気になって、これを書いている。ここに書かれているのは、先日の社説、『安部内閣は異形の政権』という認識と同じ、わたしたちみんなが、日本という沈みそうなヤバい船に乗っているという認識がない。
くり返すと話が複雑にならざるを得ないのだが、この原稿のなかには、いまのそもそも【資本主義社会】である日本がどういう状況にあるのかの認識がほとんどない。わたしは、いま、日本は徐々に国力を衰亡させつづけていてかつてあった社会の活力や集団のエネルギーの衰弱をどうすれば止めることが出来るのか、そういうところであがいているのだと思っている。
このことは、現在の日本社会が【資本】の持っている人間から〝やる気エネルギー〟を絞り出す能力を使いつくして、そこに存立している産業がある程度能力いっぱいのところまで完成させていて、だからもいくら働いても賃金も売上げも上がらず、経済成長率に大きな変化がないという一種の空転状態に陥っている、ということだと思う。これは普通にやっていたら、会社勤めの労働者も小売り商売の商人たちもあまり大きな収入増大の方策がないことを意味している。

これも『資本論』を読んだことからはじまった考え方だが、わたしは社会の活力や体力の指標というのは経済成長率だと思っている。この経済成長がマイナスになったり停滞したりすると、みんな、元気がなくなる。

考え方の出発点はマルクスなのだが、つづいて、昔、若いころ読んだ『産業構造論』という近代経済学の泰斗であった篠原三代平さんという人が書いた本、それと、レヴィ=ストロースの構造主義から教わったことである。わたしは構造主義の洗礼を受けたことで、社会の基本構造は血縁関係(親子関係)や性的関係(夫婦関係)によって成立していて、残余の集団活動の発展や進歩はこの構造の上で繰りひろげられている、と考えるようになった。これはフロイトが人間の本然は[性的欲求]であると考えたり、吉本隆明が[対幻想]こそ、唯一の信用出来る思念であると言ったりした考え方と同じなのだと思う。対幻想というのは男女間の恋愛感情という意味である。その上に、[生産と労働]が産業として成立している。その産業は、社会的な存在形態として、構造を持って存在している。

話が寄り道したが、日本社会の[21世紀の末世思想]=社会的衰退を食い止め、社会全体を元気にしていくために一番必要なのは、すでに社会の潜在能力ぎりぎりのところまでたどり着いている経済成長をどうやってプラスにしていくか、このことしか手段としてはないのではないかと思う。
社会的な弱者を救済しなければという、福祉的な政策はたしかに重要である。経済的に困っている人たちが救われて、生活出来るようになるのは大事なことだ。しかし、そのことが社会にどのくらい活力をもたらすかはまた、別の問題。
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ここから、新聞記事に対する、わたしなりの疑問。
………
株式の小口投資の推進を悪者扱いしているが、カール・マルクス的に考えてみると、投資は規模にかかわりなく、労働者たちが貯金などの行為を経て、
資本家に転化していく(起業していく)ための相当に重要な行為なのである。ここのところで、私たちが思い出さなければならないのは、ジョセフ・シュンペーターの『資本主義・社会主義・民主主義』のなかの一節だ。
 
資本主義体制の現実的かつ展望的な成果は、資本主義が経済上の失敗の圧力に耐えかねて崩壊するとの考え方を否定するほどのものであり、むしろ資本主義の非常な成功こそがそれを擁護している社会制度をくつがえし、かつ、「不可避的に」その存続を不可能ならしめ、その後継者として社会主義を強く志向するような事態を作り出すということである。(略)最終結論においては私もたいていの社会主義的著者、ことにすべてのマルクス主義者のそれと異なっていないのである。けれどもこの結論を受け入れるためには、何も社会主義者たるを要しない。

細かに説明するところまでは避けるが、よくマスコミなどで論者がすっかり成熟し尽くしてしまった日本の資本主義社会を「まるで社会主義国家のようだ」といったりするのはたぶんシュンペーターのこの謂いとつながっている。起業の成否、可不可はその国の資本主義の発達具合、金融資本の成熟とか、法的規制の整備とか、社会的なルールと大きく関連している。
そして、起業は資本主義社会の変化=変革を促す主要な推進力なのである。
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起業という言葉はフランス語ではentreprise、アントレプリーズと発音する。
(英語表記ではenterprise=おなじみのエンタープライズという語彙である)という。その言葉の付随的な意味を調べると❶企て、計画、❷企業、事業とある。そして、この言葉は辞書のなかでアントレプレナー=(起業家、entrepreneur)という言葉と並べてその言葉の次に記載されている。じつは、二十世紀フランスの哲学者J・P・サルトルの『実存主義とは何か』という著書のなかにentreprise[投企]という言葉が出てくる。投企について、サルトルはこう説明する。

人間はみずからつくるところのもの以外の何ものでもない。これが実存主義の第一原理なのである。(略)われわれは人間がまず先に実存するものだということ、すなわち人間はまず、未来に向かってみずからを投げるものであり、未来のなかにみずからを投企することを意識するものであることをいおうとするものだからである。人間は苔や腐食物やカリフラワーではなく、まず第一に主体的にみずからを生きる投企なのである。

サルトルは哲学者だから、生きること総体についてこういう言い方をしている。手元に原書がないので確認できないでいるのだが、曖昧な記憶だが、
たしかサルトルがentrepriseと書いたのを訳者は投企と訳していたと思う。
二十世紀の中葉にサルトルらが実存主義をさかんに喧伝し、流行し、歴史の表舞台から消えていったあと、entrepriseは起業=ベンチャービジネス
というような意味で使われるようになるのである。考えてみると、ヨーロッパ、アメリカを含めて先進資本主義国では二十世紀の中葉におこなわれた政治的革命運動はほとんど成功しなかった。しかし、そのあと、その政治的な理念と主張によって人間的刺激にあふれた時代が到来する。
その政治的エネルギーが消尽され尽くしたあと、戦争や闘争のかわりに
市場での競争を中心にした経済活動、さらには大衆の生活のいたるところで
さまざまの革命的な変動が起こった。電気器具や自動車の普及、情報網、
メディアの発達、さらにたとえば個人向けのコンピューター、つまりパソコンの出現(アップルなどによる)は、社会構造全体をそっくり作りかえるところまで来ている。ここではいちいち例証はあげないが、歴史のなかで過去、さまざまの投企が成功したことで、社会はその有り様を猛烈な勢いで変えていった。そして、それはいまも一種の永久運動のように継続している、と考えるべきだろう。
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そして、これは逆に考えると、そういう、時代の進む方向性に対応というか、適応した起業家が長い年月を生き延びることのできる可能性を保持しているということだろう。起業家の多くは全体的には成熟した産業社会のなかの、まだ未熟な市場に参入して、その市場自体を育てることに腐心するわけだから、全ての新しいビジネスはベンチャーである、と書くこともできるだろう。だから、まずもっての問題は想定されている市場の将来的な可能性である。シュンペーターは起業=イノベーションの特長として、新しい財貨の生産、新しい生産方式の導入、新しい販売先の開拓、原料あるいは半材料の新しい供給源の確保、新しい組織の実現、などのことがらをあげて説明している。すべて、どの項目も新しいのである。 
実存主義的に、つまり哲学的にいうと、投企はひとりの人間の考えを理念として、その実現のために行動を開始することである。それが社会とのつながりのなかで人間が生きていくことの本質だというのだ。つまり未来に向かって生きることが人間として生きることの真実だというのだ。
このことを経済学の範疇で言い直すと、投企とはまさしく直截的に起業を意味している言葉だろう。サルトルと同時代のオーストリアの経済学者、ジョセフ・シュンペーターは起業(entreprise)を、「社会的革新(イノベーション)のための原動力であり、これによって経済は成長し、社会的変化が生じる」最重要行為と位置付けたのである。
説明が長くなったが、先日引退した安倍さんと安部内閣の評価を七割くらいの人たちが評価している、という話があったが、これは、その前提として、
日本社会が、人口減や社会の高齢化、出生率の悪さなどで、衰弱していっている、そのことを大衆がよく分かった上で、現実を判断していることの証拠だろう。
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大学にいてものを考えていると、往々にして、大衆は愚かだと考えがちだが、そこのところは考えをあらためた方がいい。みんな、特定の人たちをのぞいて、ものを冷静に判断出来るほど頭がいいのである。
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産業の内部の老化、退嬰した部分が社会の活力をそぐ=不景気を促すのであれば、新しい起業によって盛んになる、新分野の産業が、そのマイナスを埋めてくれる。そして、そっちに向かって労働者たちのシフトがおこる。ここで、企業が労働者を低賃金で働かせないように、監視するのは政府の役目である。労働者の賃金が保障されなければ、社会は活発に文化活動を展開しない。文化こそが、人間の社会活動に明るい未来をもたらすのだ。
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わたしはいろいろあったが安倍さんはよくやったと思う。低経済成長がもたらす安定や平和な生活は文化的には腐敗や頽廃をもちこむ。とくに権力のまわりには膨大な利権があり、ここがいちばん腐りやすい。そのことを肝に命じなければならないが、政治の実態が権力による利権のばらまきであることは、自明の理である。あらためて言うほどのことではない。それを騒ぎ立てるのは政治的に言うと、利権の生み出す儲けにありつけなかった人たちの不平と不満である。
ここから先は、菅内閣が打破していかなければならない現実である。   

資本は[悪]ではない。ただ、それが生み出す[儲け]=利益を独り占めしようとするところから、人間的な[悪]、腐敗や堕落がはじまる。マルクスは十九世紀的な歴史的志向のなかでそういう状況の果てにプロレタリア革命があるといったが、二十世紀の歴史は、そのプロレタリア革命と共産主義思想を否定している。いま、資本主義は抜き差しならない形で日本社会の骨組みを形成して、高度に発達している。コロナのこともあり、自由も平等も博愛もそのグローバル化したあげくに、現在の地勢的状況のコロナ禍によって寸断された基盤の上に存在し、現実に[資本]=金を儲けてなんとか生き延びたいという本能的な欲求にがんじがらめに縛りつけられている人間を苦しめている。

結論だが、日本社会は徐々に衰退し続けている。そのことを肝に命じて、確固たる人間的な意志をもって、生きる意志を明確に保持して、やる気になって生活していかなければならない。『資本論』はそのための教導の書である。


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