好きなコンテンツをずっと好きであり続けるのは難しい、という話

めっちゃ長いので先に結論を書く。

①コンテンツを提供する側は「新しくて」「面白く」その上「売れる」ものを作り続けなければいけない。

②そのコンテンツの消費者、ファンが「好き」だと感じる要素は上記「①」によって突然無くなることもある。

③なのでコンテンツを楽しめる今を大切に日々を過ごし、もし上記「②」が起きてしまったとしても、強く生きて欲しい。

以下本文。

種々のコンテンツにおける、サービス提供側と消費側の関係について浅学非才かつ社会経験のほとんどない頭で考えてみた。

まずは色々なところで書かれている二番煎じみたいな所から。

A:提供者側への視線

あるコンテンツが提供され消費されるとき、

「そもそもどうしてそのコンテンツが作られ、そして提供されるのか」

という企業の目的から考えたい。

まずコンテンツを提供している企業。営利企業であれば、その目的は単純明解で、利潤を得るため、平たく言えばお金を稼ぐためだ。

もっと言えば半永久的にお金を稼ぎ続けるためにコンテンツを提供している。お金の次くらいには、社会的地位の獲得なども目的になる。

なんでその企業はお金を稼いだり社会的地位を得るためにコンテンツを提供するのか、という所まで掘り下げると、何もしないでお金を得るのは不可能だから。

そりゃあ社員全員ダラけて寝てても会社に何億何兆のお金が永続的に入ってくるなら、わざわざ多額の経費をかけてモノづくりなんてするわけない。

でも世の中そう甘くないので、企業は代わりに何か社会のためになる事をして、その対価としてお金をもらう事にしているのだが、つまりコンテンツを提供している企業は「社会のためになる事」として「コンテンツを提供する」事を選び、その対価としてお金を稼ごうとしているわけである。

ただ勿論、どんなコンテンツでもお金を稼げる=社会のためになる、というわけではないので、では「どういうコンテンツならお金を稼げるのか」というのを考える必要も出てくる。これを考えるのは企業の中にいる人たち、つまり役員とか社員の方々である。

企業の中にいる人たちの中でも偉い方の人たちは、どんなコンテンツが売れるかを考えたり、実際に作るクリエイターの人たちに作らせたりするわけだ。その判断基準には流行だとか、ターゲット層がどれだけいるかとか、人々の共感をどれだけ得られるかとか、まあ何かしら色々とあるのだが、その中でも特にクリエイターの人たちに目覚ましいやる気を出させる基準に「面白い」がある。

クリエイターの人たちにとって、「面白い」か「面白くない」か、というのはやる気が出る出ないに関係する結構大事な基準であったりする。

そもそも企業に所属するクリエイターはなんで企業に所属しているのかと言えば、大体において「自分のやりたい事・やれる事が出来るから」だろう。

やりたい事とやれる事が出来る、という状態には、自分のやりたい・やれる仕事が回ってくる、自分のやりたい・やれる仕事が出来る人材や設備、また資金など職場環境が(ある程度以上)整っている、生活していくのに必要な給料の金額や福祉厚生が(ある程度以上)整っている、という面が含まれていると考えられる。

逆に言えばクリエイター側も上記の状態を既に手に入れているなら企業に入る必要は無く、自前で揃えた環境でコンテンツを作って発表することだろう。机上の空論だが、その上で本当に何もしないで「面白いコンテンツを作る」という社会的評価まで得られると仮定すればクリエイターの中にはマジで何もせず過ごす人間もいるかもしれないが、現実的には「面白いコンテンツを作る」という社会的評価は面白いコンテンツを作らなければ得られないので、やりたい事が本当に無かったり、社会的評価が一切必要ない人以外は「やりたい事・やれる事が出来る」状態があれば、何十年柄ずっとではなくとも一年に数回くらいは何かを作って発表するはずだ(というか、そうしないクリエイターをやってる人というものはあんまり想像つかない)。

そう考えると、あるクリエイターが企業に勤めて仕事をする目的が「自分のやりたい事・やれる事が出来る」であると企業の中で仕事をしようとするクリエイターが自分の勤める企業を選ぶときも出来る限りその目的を達成出来る(達成しやすい)企業を選ぼうとするだろう。わけても、「自分のやりたい仕事が出来る」企業であったり、それを超えて「面白い事が出来る」企業というのは非常に魅力的に映るはずだ。

「面白い事が出来る」というその一点だけで入る企業を選ぶ人間はクリエイターに限らないし、もらえる給料が他の企業に比べて安くても構わず入社していく人間はそう少なくもない。「面白い」というのはどうやら人間を支配する力のある感覚の1つであるらしく、クリエイター自身が面白いと思ったものは、熱が入って時間も手間もお金も何でもかけたくなるもので、そうすると「面白いコンテンツ」が出来上がる可能性は格段に上がっていく。この話題になってるコンテンツフィクサーとはちょっと違うが、ジョブズなんか上記の典型に近い存在だと思う。

結局のところ世に出てくるコンテンツでよく消費されるものは偉い人たちが考えた「売れるコンテンツ」とクリエイターが考えた「面白いコンテンツ」の総和である事が多い(もしくは、筆者がそのように感じる)。 

B:消費者側への視線

翻って、コンテンツの消費者の側を考える。これも誰かの二番煎じであると思うが、消費者は幾つかの層に分けられると考えられる。

まず、そのコンテンツに全く関心のない「無関心」層、そのコンテンツに興味があるがそんなにお金を使わない「周辺」層、そこそこお金と時間をかける「ファン」層、そしてかなりのお金と時間をかけ、自分から「ファン」を増やそうとする人も出てくる「コアなファン」層の4つだ。

そして、コンテンツを提供する企業の視点でこれらを分析してみたい。

まず「無関心」は数的に最も多い、と考えられる。将来的にコンテンツや企業そのものを大きくしようとすれば、この層に訴えかけるのは必要不可欠だ。この層に訴えかける方法としては、「お金を掛ける」のが最も早く効果的だろう。具体的には「テレビや電車の広告に起用する出演タレントに有名人を起用する」のが最もわかりやすい手法だろうか。

理由としては、コンテンツそのものに興味がなくても多くの人々はテレビやYouTube、映画で有名なタレントにはかなり興味があるものだ。好きなアイドルや俳優が宣伝しているコンテンツを取り敢えず触ってみたくなるファンは少なくないので、かなり高額な費用がかかる可能性が高いがストレートに有効な手法だ。いわば「人々の『好き』という感情を借りる」戦法とでも言ったところか。「虎の威を借る狐」ということわざもある。

そして「周辺」層。「無関心」層を引き込んだり、そもそもそのコンテンツの入っているジャンル自体に興味がある層は、もう少しでお金を払ってくれる「ファン層」まで引きずり込める。その手法で効果的なのは「面白いコンテンツを立て続けに作る」ことだろう。面白いコンテンツを作り続けていれば、「周辺」層はいつか必ずと言っていいほどそのコンテンツを「好き」になり、お金を払ってでもそのコンテンツに触れていたくなるようになる。

意外と消費者側は「面白い」コンテンツであるだけではお金を払ってくれない事も少なくない。これは違法アップロードされた漫画を無料で読める「漫画村」というサイトが大流行した事実で裏付けられる。

合法で沢山のお金を払ってもらうためには、面白いコンテンツを作ることで、まず「出来るだけ多くの人に見てもらえる」確率を上げ、そして消費者にコンテンツ「好き」だと判断して貰える、コンテンツに「好きな所」を見出して貰う必要がある。

それに成功すれば、それなりにお金を払ってくれる「ファン」が付く。あとはファンに飽きられて見限られないよう、面白いコンテンツ、それも「新しくて面白い」コンテンツを作り続けるだけだ。

そして一部の「ファン」は、沢山のお金と時間をかけたり、コンテンツやコンテンツの一部を愛して自分から「ファン」を増やそうとして「布教」活動に励んだり、コンテンツの自己解釈を発表する「二次創作」などをする「コアなファン」へと成長していく。

「コアなファン」というのは企業にとって一長一短で、上記の通り沢山のお金を払ってくれたり、布教や二次創作で勝手にファンを増やしてくれる面もあるが、その反面、コンテンツの価値を毀損しようとする者も現れる。

コンテンツの価値を毀損する、というと「アンチ」という用語を思い浮かべる人も多いと思うが、実はそういう事をするのはアンチだけではないのだ。

C:提供者と消費者の間で、地獄

何故「コアなファン」はコンテンツの価値を毀損するのか。

その原因の奥深いところにあるものは、「そのコンテンツ(またはその一部)が『好き』だから」という、全くもって救いようのない、悲しい現実である。

まずはき違えて欲しくないのは、そうなってしまった時でも「コアなファン」が本当にやりたい事は、

コンテンツの価値を毀損することそのものでは全く無い、少なくとも最初はそう考えている者は殆どいない、という点である。

「コアなファン」はそのコンテンツやコンテンツの一部に対して深い愛情を注ぐものである。しかし、愛情を注いでいたコンテンツは、悲しい事に突如として「好きでは無い」ものに変わってしまうこと、「好き」だった要素が変更されたり消されたり、他の要素の追加・変更によって陰に隠されてしまう事も往々にしてあり得る。

もちろんコンテンツの提供者は「コアなファン」たちを傷つけるためにやっているわけではない。

提供者側は「周辺」層を取り込むため、「ファン」層を手放さないために「面白く」「新しい」展開を常に作り続けなければならない。そのためにさまざまな要素を追加・変更し続けていく必要があるのだが、たまたま或る「コアなファン(たち)」にとっては受け入れられないものであった、というだけに過ぎないのだ。

だから、

基本的には、誰にも罪は無い(たまに悪い人もいる)。

しかし、受け入れられなかった「コアなファン」側としてはたまったものではなく、「好き」だったコンテンツに戻すためにコンテンツ提供者に対して要望を送ったり、ともすればSNSで文句を書いたり、果ては署名活動までやろうとしてしまう事もある。

提供者に要望を送るのは消費者の権利だが、SNSで文句を書いたり署名を集めて抗議をするような活動は、それを目にした「無関心」層や「周辺」層をコンテンツから遠ざけてしまう効果がある。誰も自分がそうした活動をしてしまうほど傷つけられる可能性があるコンテンツなど関わりたくないし、そもそもそういう行いは「面白くない」のが常だ。大抵の人間は、その様を無視するか、面白がるだけ面白がる。そして、余程抗議活動が成功を収めない限りは、「好きだった」コンテンツは戻ってこないし、そうした活動は往々にして成功しない。

「好き」という価値判断は、「面白い」という感覚に比べて強い欲望や執着心を生じさせる事が多い。さもなくば、人間は限りある収入からコンテンツに対して多額のお金を注ぎ込むことなど無い。

提供者側の考える「面白くて売れるコンテンツ」と消費者側の「好きなコンテンツ」が乖離していくのがこの現象の主たる原因なのである。

これがよく観測されるのは、例えば某ドルマスターの某デレラガールズというコンテンツだ。深くは言及しないが。

そもそも「面白い」という感覚、もしくはその感覚を生じさせるコンテンツ、というだけでも「好き」という価値判断を適用する事(もしくは自らの脳によって適用されてしまう事)は出来るが、もし「コアなファン」でも「好き」の理由が単純に「面白いから」だったら話はわかりやすく、そのコンテンツが面白くなくなれば興味が自然と無くなっていくだけだ。その他の要素、特にそのコンテンツにしか無い要素、兌換不可能な要素に「好き」が適用されてしまうからこそ地獄が生まれる。

コンテンツの「ファン」や「コアなファン」の中でも特にコンテンツそのもの、その存在自体を愛していている者は特に「建設的な意見」を大々的に叫んでしまうものでもある。それが実際に建設的であるかどうかは別として。(その具体例は某スポーツの世界大会直前に、当時某国の監督であった某氏を解任した某国サッカー協会に対する一部サッカーファンによる反応である。もちろん、その時の某国サッカー協会の決断であったり、それに抗議した某国サッカーファン達による言説の正誤を筆者がここで結論づけるつもりは無い。)

D:地獄を耐えて、生き抜く

さて、結局この消費者側の「好き」と提供者側の「新しくて面白い」問題をどう解決するか。

企業からすれば、提供側の「新しくて面白い」と「好き」の乖離を起こした消費者の割合がごく小規模なものであれば無視すればいいし、ちょっと規模が大きめなものであれば、その乖離の傾向を掴んで、少なくとも表面上は乖離を起こしていないよ、と消費者を安心させるよう振る舞うことだ。規模が大きく沢山のお金を払ってくれる消費者がその中に含まれているのであれば、収支が必ずプラスになる範囲で費用をかけても大きな問題はないだろう。

とはいえ、実のところ筆者は自分自身が上記した某デレラガールズの「コアなファン」層として苦しんでいる、という類型に当て嵌まるという自覚が強いため、企業側の理路にはさほど興味がない。

何よりも、提供者側の「新しくて面白い」と自身の「好き」が乖離してしまった消費者が今後どうしていけばいいのか、という点が最も重要であると考えている。

では、消費者側から見た解決策とは何か。こういう時に参考になるのは、意外にも「コアなファン」ではない層の意見である。

よく見るのは大きく分けて2つ、「じゃあやめればいいじゃん」と「他の趣味を持ちなよ」であるが、それぞれを単体で見てしまうと、何でもかんでもやめようと思ってすぐやめられるんなら警察も医者もいらねぇしこんな苦しんでねぇよ、とか、他の趣味とか関係ねぇんだよこのコンテンツに対して悩んでんだよ何なら他にも趣味ぐらいあるわアホかお前、など思ってしまいそうであるが、2つの意見を複合し、冷静になって考えると適当な方法が思い浮かぶ。

「出来るだけコンテンツに関わる時間を(半ば強制的にでも)減らし、他の事に取り組み、やめられるまで待つ」という方法である。

この方法はお寺の住職さんが悩みに答えてくれるサイトにも同様のものが載っていたが、結局のところ執着を捨てられるまでそのコンテンツから離れて時間を割いて待つ事が一番なのだ。これは解脱へ至る道と同じである、のかもしれない。

これが無理なら、ほかには「抗議活動の規模を数万〜数十万人単位まで大きくする」「自分の好きな展開を二次創作として自作する」「コンテンツ提供企業(および関連企業)の株式を51%以上買い占める」あたりが現実的な手法になってくるが、人間には能力的・社会的な限界というものもある。出来るならちょっとやってみて欲しい。もし成功すれば、全てを取り戻せるのかもしれない。筆者はそれを全く保証はできないが。

なので、筆者を含めた普通の人はゆっくり時間をかけて、カサブタが自然と剥がれるようにコンテンツへの執着が消えるのを待つしかない。もし執着が消えなかった場合は、多分それがあなたに課せられたカルマとか運命だと思うので、どうか強く生きて欲しい。

ところで某デレラガールズのことをちょっとだけ書くと、あのコンテンツはキャラクターを演じる声優さん方によるライブイベントが頻繁に行われているのだが、そのイベント終演後にファンたちによってコンテンツの名前共に「最高!」と叫ぶ儀式があるのだが、あの儀式に不快感を感じるようになったら地獄の始まりなのかもしれない(その儀式を楽しむ側と不快に思う側とでどちらが正常でどちらが異常なのか、その判断は読者の皆様に任せる。普通にどっちも異常かもしれない)。

E:筆者の言いたいこと

最後に言いたいことを1つだけ。

あなたが今好きなコンテンツは、いつまでも好きでいられるとは限らない。せめて好きでいられる内は、精一杯そのコンテンツを楽しんでいて欲しい。きっとその気持ちは、永遠ではないから。

「○○さんと…このまま…時が止まればいいのに…」












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