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「○○せよ。」という建築―「インポッシブル・アーキテクチャー―もうひとつの建築展―」とJR御茶ノ水駅

埼玉県立近代美術館で開催されている「インポッシブル・アーキテクチャー―もうひとつの建築展―」に行ってきた。

会場は北浦和。
交差点のミスタードーナツが撤収工事をしている。
埼玉大学の最寄りだし、大学生が長居してドーナツ端から全部食べてたんだろうなあ。いいなあ。

展示されている作品は実現性というくびきから解放されたためかコンセプチュアルであったりメッセージが強かったりしていてとても挑発的。
題材は公共施設や都市計画が多く、通常そうした大規模な施設に見られがちな多様な利用者や用途への対応を目指す汎用的な建物と正反対で「そりゃあ実現しないよなあ」とつぶやけば「そんなの承知の上だわ」とツッコミ返されそうでもある。

これらの建築は単に利用者の要求に追従的な利便性快適性を求めるだけに留まらず、時に規範やライフスタイルをハコ側から積極的に提案してくる。「○○せよ。」……と。

例えば入り口で出迎えてくれるウラジーミル・タトリンによる《第三インターナショナル記念塔》はその行政や立法を司る各構造体によってその団体の規範や世界観を人々に感じさせる。「万国の労働者よ団結せよ。」

そうした社会への影響力を考えれば個人邸宅や商店ではなく自ずと規模の大きい公共施設や都市計画が中心になるのも無理ならぬ話だ。

では「○○せよ。」と現実に命じる建物に会いに行こう。例えば商業空間は究極「消費せよ。」と語りかけてくる。それ以外がいい。

降り立ったのはJR御茶ノ水駅。
外濠の崖にへばりつくようなダイナミックな駅で周囲の自然と合わせて大変絵になる駅である。そして学生時代に幾度となく使った駅だ。

駅舎は1932年伊藤滋氏の手によるもの。この駅が語りかけるのは「留まるな。」。

猫の額ほどの土地に建てられた駅のホームもまた狭小にもかかわらず大学や病院の集中する御茶ノ水橋とオフィスの多い聖橋の両側から人がひっきりなしに駅に流れ込んでくる。その乗客を次々と各方面へ向かう列車に乗せて送り出すため、この駅は自らを「通路」と規定した。
導線が緻密に計算され機能性に徹した駅舎の中には商業スペースもほとんどない。もちろんベンチも置かれていない。

しかしそんな御茶ノ水駅にも転機が訪れる。それは外濠の護岸工事。これによって堅固な足場を手に入れた駅は積年の課題だったバリアフリー工事に着手する。その削ぎ落とした機能的な設計のためこの駅にはエスカレーターやエレベーターが設置されていなかったのだ。階段の手すり沿いのリフトがゆっくり昇降する様子は御茶ノ水駅の名物だったかもしれない。

この日ホームに降り立つと真新しいエスカレーターとエレベーターが2階から降りてきていた。上った先は両側を壁に囲われた通路でこれから先両側にテナントが入るのだろう。カフェや雑貨とか。かつて「留まるな」と語りかけた駅舎は今「留まれ」と私たちをとどめようとしてくれている。

学生時代幾度となく待ち合わせをした駅前は、その「立ち止まるな」のメッセージのせいかどこに立って待っていてもどこか居心地が悪く感じたものだった。卒業してから数年、やっと御茶ノ水の駅に受け入れられる日が近づいているように感じる。それが消費を誘発するものであったとしても、帰り道に止まり木として十数分でも憩える場所があるのは貴重である。

この御茶ノ水駅のように同じ建物によっても時代によって語り掛ける言葉は変わってくる。

都内の地価はオリンピックを前に高騰している。それが空中空間でもその地価に見合うだけの収益を上げるために、利用者に留まって消費を促さなければいけないのは無理ならぬ話だ。

では、オリンピックが終わった2021年以降の建物はどういった命令を私たちにするのだろう。社会を一体化させる目標がない現代ではそれぞれが多様で細やかなメッセージを発するようになるのではないか。楽しみで仕方がない。

(2019/4/12 改稿)


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