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確定する認識という燈明 意訳

ニンマ派のミパム・リンポチェは近代ニンマ派の大学者、大変高名な師で、その著作は素晴らしい教えが数多く残されています。私の恩師からは、「仏教の初心者には分かりやすく、しかし熟練者にも考える余地があるように、同じ著作の中で説かれているのがミパム・リンポチェの教えの優れた点です」と教わりました。
ニンマ派の師ですが、ロンチェン・ニンティクを著したロンチェンパと同じく他空説中観の教えも受け継がれていたようです。他空説中観の教えを聞いた弟子の方が残された著作がリンポチェの全集の中に残っています。

ADARSHAHというカルマパ17世法王の勧めで始められたチベット大蔵経だけでなくチベットの幾らかの師の全集が読めるアプリでミパム・リンポチェの著作をチベット語で読んでみたい方におすすめです。写真はそのADARSHAHのHPの写真です。

意訳しました ངེས་ཤེས་རིན་པོ་ཆེའི་སྒྲོན་མེ་ はADARSHAH の མི་ཕམ་གསུང་འབུམ་ ཤྲཱིཿ にもあります。

さて、この「確定する認識という燈明」の教えは、リンポチェが8才くらいの頃に思い付き一度で著されたと聞きました。内容的にはチベット仏教各宗派の哲学見解を拾い上げつつニンマ派の空の見解を主張されていますから、各宗派の見解も多少理解している方を対象にして著されているようです。

確定する認識という燈明 (1つ目の問いの終わりまで)

疑問という網で(分厚く)強化された覆いで(真実を正しく)見通せない状態の心 (その疑問の覆いを)バラバラにする文殊金剛の燈明(に喩えられる二諦を理解する正しい認識)は 誰の胸にも深く(存在と空の)あり方を確定する認識(という光)として差し込むので (正邪を見分ける)賢い道を見る(のは文殊菩薩の)眼と私も確信します

あゝ、存在の深い在り方に 繋がる「確定する認識」という宝 あなたなしではこの輪廻という幻影の囲いから 何も見通せず無知(なまま)です

土台・道・結果というあらゆる存在を (正しい認識で)確定して(修行の土台・道・結果があり得るという)確信が生まれるのと (教えを)聞いて(疑問を持たず修行の結果が必ずあると)信仰する2つ(の信仰)は 「道」と「道を描いた絵」ほど(に違います)

(インドの論理学の権威)法称と(インドの中観学の権威)月称からの素晴らしい説法の光と共に 仏教は空のどこまでも輝き (疑い深い、また)闇の深い疑問を(すら)断ちます

(学ぶ事で理解する)一般社会で言語的にも認識が成立する存在「世俗諦」と、分析で究極認識し得るあり方の結果である「勝義諦」(のニ諦)を知る2種類の正しい認識で (自他を傷つけず大事にするのに)取る行動とやめる行動に間違いがなくなります

(ですので)特に教えとお釈迦様への(究極の信頼に足るか) 確信を得るただ1つの入口 (仏教などの定理を証明する認識・論理を養う)論理学書と、究極の(存在の)あり方を確定し、錯覚・誤解を除きハッキリさせ、正しい認識で得た優れた大乗(に至らしめる)中観学書の2種類(の論書)を 良く学ぶ心と眼を合わせ持ちなさい (学ぶ心と眼を)開いてお釈迦様の説かれた教えの道を 誰か(の学説、教義などそれがたとえ恩師であれ他人の評価・意見)に左右されず (自身の認識・論理に従い理解し証明した内容から)正しく修行する方を賞賛します

そのように考える(論理学と中観学における議論を自派と他派の優劣・勝負としてではなく)真実を求める方に ふっと私の心に湧いたいくつかの疑問に対し 問答形式で議論(と証明を)しようと 7つの問いを挙げます

誰かの意見を根拠にするようでは、その議題を理解している賢者とは言えません
自身に閃いた考えを 7つの問いそれぞれに直ぐに答えて下さい あなたの思考回路が目で見るように明らかになります

教えを知る事が象の鼻のように(博識で様々に通じるもので)あっても (それだけでは本当に深い所にあるキレイな)井戸水のように  (究極を分析する)深い所(の教え)の水は 味わえません (それなのに)現代の賢者として名声を願うのは 例えば非行の者が(王でもないのに)王妃に執着する(その結果犯罪を犯して死刑となる)ようなものです

①空の見解は完全な否定か否定から空の存在を認識するかのどちらを主張するのか

②(仏・菩薩が理解するように)声聞・縁覚の阿羅漢は人無我と法無我を理解するのか

③空性を直接認識する禅定時に存在を把握するのか

④空性は分析しての瞑想か集中しての瞑想か

⑤世俗諦と勝義諦はどちらが大事か

⑥六道の有情は共通する存在を見るのか

⑦中観派であるとの主張はあるのか

以上の空性に纏わる、この7つの深奥な問いに 経論と矛盾なく正しい論理が成り立つよう答えをおっしゃって下さい

(誤った)論理の言葉を繋げた棘の付いた槍で 十万の棘を一度に刺しても(深い空性の理解に)届かないように 高名な方もわからない難しい所を 議論する舌を稲妻のように伸ばし そのような知性に勢いづけられた(7つの問いという)言葉を発する気が わずかに動いても(空性を理解しているという賢者や)仙人の心に (吹き荒れる)世界最後の暴風で(心の中で思っていた答えの)山が動くようになって (辻褄が合わなくなり結果沈黙して)無言の行に少しの間も入らない様お願いします

あゝ たくさんの大変な苦労を持って 何度も何度も分析する鋭い知性の火を 絶やさず次第に大きく燃え盛えさせても この(7つの問いにすぐに正しい論理と認識で答える)事が (品行方正な)欠点を離れているような方に(すら)成し得ないなら 生まれながら自慢の才能がなく 長年の修練という苦労もしていない なんの取り柄もない私に何が言えようと 文殊菩薩に困って呼びかけたら その時(文殊菩薩の)お力であると思われる(事が起こり) (私の)心(の暗い夜の闇)に(日の出前の)明け方の明るさのように (7つの問いに対する論理と認識と証明に)自信をいささか得た様に感じ(ましたので) (その)良い教えを内容の通り正しく分析して伝えます

ゲルク派は空の見解は完全否定を主張し チベットの他の宗派は否定から空の存在を認識すると言います。我がニンマ派はというと (空を理解する)双入の偉大な智慧の場合、完全否定による否定だけとか、否定からの空の存在などあるでしょうか どちらも(一般の)分別心で(本体・実体がないのを)言語的に認識している場合での話で 実際(の智慧の時)はどちらかを主張する事は出来ません 否定と否定のない(という)2つを離れた (分別)心を離れた本初の法性(が双入の偉大な智慧)なのです(から)

(空の見解をどのように実体、本体がないのかという)空のあり方だけを考えての 質問なら(究極の分析の場合、実体・本体は)完全否定以外ありません インドの吉祥なる月称とチベットの(翻訳官)ロンソム・チューサンのお二方が 同じお考え、同じ説明で カタ(そもそも清浄)である偉大な空を(論理的に証明され実際)成立させています 「存在がそもそも清浄である」事とか 「元より本性がないので ニ諦共(実体・本体を伴って)生まれない(存在である)」として(いるのに) なぜ(実体・本体の)完全否定の主張を疑うのでしょうか

(例えば)「柱は(実体・本体が)ない」と否定せず 「(柱は究極の)柱でない」と否定してどうするのでしょうか 柱を除いた空と(空の)分析の結果残る存在の2つが 空と空でないものの双入(として同体で別概念)は (なる事は)あり得ません、(それは2色の)糸を撚るようなものです

(例えば)「柱は(空である は)柱(である実体・本体)が空でない」と言う話と「法性は(空である は)柱(である実体・本体)が空である」と言う話であるのとは 空の土台を(それぞれ)設定して(そうでないものの空を主張する、実はどちらも)他空です 言葉が他空であるか実体が他空であるかのいずれかです

あゝ、否定の土台が否定の結果残るなら 空の土台は実体・本体がある空ならざるものとして残ります

(また)「物質には物質の本体・実体がない」と言うのは文章表現として、(また)正しい論理として矛盾します

柱と柱の実体の2つが 一体なら片方を(誤りとして)除くともう片方も除く事になり(ます) (柱と柱の実体の2つが)別物なら、柱でない柱の実体を除いて、柱は (結局)何の実体・本体が空ならざるものとして分析に耐え得るのでしょうか

「(柱の)実体・本体は存在した事がないので (柱と柱の実体の2つが)一体か別物か(という議論は)必要ない」と言うなら 実体・本体は存在しなくても一般の方は (例えば)灌頂瓶を実体・本体が存在するものと捉えるから(煩悩が生じるので、実体・本体を分析する中でそれが一体か別物かは必要な議論なのです それなのに、一般の方のように実体・本体が存在する)空でない灌頂瓶を捉える方以外に 実体・本体を成立して(捉えて)いるのは誰ですか (現在議論中の)空の存在の現れ方を(誰の場合の話をしているか)確定していないようですね

(中観自立論証派への問いとして、また)「究極の実体・本体として成立していない」などと強調して いずれの否定の場合にも(究極という言葉を)頭に付けて説明する事は 中観自立論証派を主張する論師の書では良く知られていますが 究極の分析をしている時に 「究極の」と付ける必要はありません

(もし「究極の」と付けなければ)空なら一般の存在としてですら 「柱はない(事になる)」と思って そのわずかな差を恐れて「究極の」と付けたのだとしても わずかな差からの矛盾は大きいです

「一般の存在としては柱がある」と言うのではだめで 「柱は(究極の柱の実体・本体はないが柱の実体・本体は)空でない」とは何を指すのでしょうか

「一般存在として柱がある」と「柱は空でない」を同じ事と主張するなら 「(実体、本体を持つ柱)でない柱はある」と言うのと 「柱に(本体、実体を持つ柱を除いた)柱がある」と言うのは 同じではありません、後者は柱と柱が(などと同じ議論の対象なのに、)存在とその特性(つまり別の存在)と 実際は認めたのと同じ事になります (前者は)究極の(分析をしている時に実体、本体を持つ)柱が認識し得ないなら 柱が柱として空でないのは何故でしょうか

「一般存在の柱は柱として〜」などと (柱を)2度重ねて使うのは文法を知らないかのようです 自身が自身の空でないなら (単に)自身は有りつつ他が空である(事になります) 否定の場合、(自身と関係ない)他が存在しない事を理由に 自身が否定されない、空でない事を主張をするのは無理があります

一般的に(言ってもその存在以外の)他が空であるのは空である条件を満たしません 馬に牛(の定義)が成り立たなくても (それを根拠に)馬が空であるとは確定しません (例えば)馬を見る事が牛に何かプラスかマイナスがあるでしょうか

ですから空でない涅槃と(空である)輪廻というのも (空である・ないというだけで)存在とその特性とは なりません、現れと空の双入(一体)と 輪廻・涅槃の平等性はこの場合は(違う議論なので)ありません (もし)水月が月ではない(水月はそらの月の空であるから空)と言うように 空の月の空と水月自身の現れが(空のあり方を指す)双入であるなら 双入(つまり存在は現れつつ空であり、空でありつつ現れる)を理解するのは誰しも簡単です

牛が馬でないのは皆知ってますし 牛の現れは目で見えます (牛が馬でないのを双入と思い)その(深遠な)理解に驚嘆するなどと 偉大な方がなぜ説くでしょう

という事で、自派では 水月を分析すると水月自身 (水月として成立する本体や実体を)いささかも得られず、得られないままで (自身以外の条件によって現れる)水月の現れを直接認識する時に (自身の本体や実体に関しては)完全否定でありながら(正しい認識に)現れ得る (同じ存在が、共通しない)「空」と「現れ」という一般の方の分別心には (正しい認識上で)矛盾しながら(現れる)も(聖者の)直接認識には(矛盾なく正しい認識として現れ)双入である これに驚嘆すると 驚きの言葉で賢者は讃えます

空であるかどうかで認識すると 空でない(存在)は(この世界に)わずかも存在しないので (本体・実体がある存在は)ないと完全に言い切れますが ないという理解を手放さず (輪廻・涅槃の)現れが妨げない(条件に依る)事で現れる (条件に依り存在として認識に)現れるという理解を手放さず (本体・実体という)土台のない偉大な空に住する そこでのこれが空、これの空とか この現れ、この現れという分別が 一切得られないのを 心の底から理解する時(が来たら) (空を)探究する博士が必要なくなるので 心の奥底から恐れが生じず 安寧を得るのは大変な驚きです

空の見解はどちらを主張するのか・終

インドからチベットに伝わった文化である「仏教」を仏教用語を使わず現代の言葉にする事が出来たら、日本でチベットの教えをすぐに学べるのに、と思っていた方。または仏教用語でもいいからチベットの経典、論書を日本語で学びたい方。可能なら皆様方のご支援でそのような機会を賜りたく思います。