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short stories

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お話集めました。
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記事一覧

時代のはざまで(小説)

濃紺の遮光カーテンは分厚いのに、外の光を受けて透き通っている。淡く、部屋中が青く染まっていて、まるで海の中のようだ。ぴちゅぴちゅと聞こえる鳥の声は幻想的で、私は自分が夢の中に揺蕩っているような気もしていたし、意識は明晰で何のわだかまりもなくまぶたもひらくので、あっと驚くほど美しい目覚めを迎えているのにも気づいていた。でも、すぐに起き上がるのはなぜか悔しくて、もう一度目をつむる。が、二度寝の余地はな

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いつか忘れる話(小説)

夫がトイレに行くというので、大型ショッピングモールのレストラン街を時間つぶしになんとなく歩き始めた。抱っこひもで眠る娘の頭ががくんと後ろにのけぞっている。額の寝汗を指でぬぐった。娘がむずがるように言葉にならない声を出す。上下に動かすと首がゆさっゆさっと揺れるのが心地よいのか、また、娘は眠りの世界に落ちて行った。
弾むように歩く。行き交う人を見るともなしに見て、レストランの食品サンプルを見て、また、

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千花と夏希(小説)

満員に近い電車から押し出されるようにホームに降り立った瞬間、ねえどこいくの、と声をかけられた。普段だったらそんな声に振り向いたりも立ち止まったりもしない。それでも立ち止まったのは、男の声ではなかったと思うからだ。落ち着いていてかすれているのによく通るきれいな声。わざと行く手を阻むような人の流れと湿度の中で、首をひねる。男か女かわからない中性的で小柄な人物がこちらを見つめて立っていた。まっすぐと、こ

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POISON of LOVE(小説)

愛は怖いです。怖すぎます、つーか毒です。これはもう私史上最高の名言ってことにしておいてください。二つ下の後輩が、四個上の先輩と付き合っていて、ああつまり私の二個上の先輩ってことになるんですけど、その彼氏なんてほんとにひどいもんで、スカート履くな、男がいる飲み会はいくら職場の付き合いであっても参加するな、それより俺様に毎晩電話しろ、とか言うんですって。と思えば急にいじいじしだして泣き出して、夜も寝れ

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untitled(小説)

築三十八年のアパート、六畳の部屋の畳は色褪せて、うす暗闇の中では全てがモノクロ映画のようだった。片方だけ開けた窓の、アルミサッシに美栄子は腰かけている。あらわになった太ももに食い込む銀色の金属が鈍く光っていた。美栄子の太ももは、爪楊枝で突けばはじけてしまいそうなのに、マシュマロのようにやわらかくもある。彼女の太ももは妖艶で美しい。
「起きてるなら、声かけなよ」
頭上から声が降ってくる。答えないでも

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Dear My Sister(小説)

「たぁこちゃん」

 小さな子どもの声というのはとても独特だと思う。休日のショッピングセンターや昼間の公園、そういうところから聞こえる彼らの声は決して私の世界とは交わらないと思える。甲高いとは違う、媚をうる女の声とも違う、滑らかで甘いザラメの付いた飴玉のようで、タマゴボーロのようで、小さなキーホルダーのようで、でもどれでもない、軽やかなひねりを持った声だ。その声に、自分の名前を呼ばれたことにどぎま

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50日(小説)

父が触るなと言い続けていた開かずの間も主人がなければただのふすま1枚隔てた押入れである。
長兄は躊躇なく和紙に手を突っ込むようにして強引にふすまを開けた。あっ、と思うが、父の怒声は飛んで来るわけがなく、そこで父の不在を実感する。
長兄はきっと、私の実感など思いもよらない、というか、思いがけない、というか、思い至らないというのか、もし長兄が私の気持ちに気づいたとしても、言葉をうだうだと選んでいるから

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あの夜(小説)

「結婚する、ってんなら、俺は男一人の長男だし、向こうは女二人の長女なわけで、どっちかが家に入るとか、いうことになるわけで、そしたらやっぱりうまくいかなくて、それでダメだったとか言われたくないし、たぶん」

角松はそういって両手の人差し指で×印を作って見せた。そうすると隣に座っていて恋愛経験ほぼゼロ、おとぼけ安藤くんが何、どういうこと、というので私は彼の膝をぺちっと叩いて、バカだね、と言う。それでも

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どうでもよくない人たちへ(小説)

「まごちゃん、肌すべすべなんだね」
一瞬だけ触れた私の肌について、伊多波(いたば)さんはそう評した。車に乗る瞬間、二人のタイミングが合い、座席と座席の真ん中に偏った腕が触れた、その短い間で彼はそう言ったのだから、侮れない。私はふざけて、
「じゃあ触ってみますか」
と言ったら、伊多波さんは素直に腕を伸ばしてきて私の二の腕を柔らかくもむ。以前、平熱が高いのだと言っていた彼の手のひらは温かく、眠いときの

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ひとなつ(小説)

少し寝汗をかいていて、目を覚ましたらもう昼過ぎだった。とはいえ、縁側に面している障子を全て締め切ってしまうと薄暗いこの部屋にいれば、今が朝なのか昼なのか、夕方なのかよくわからない。時計さえもない。昼過ぎだと思ったのは、蝉がじいじいとせわしなく鳴いているし、なんとなく部屋が暑くなっていたからだ。
ゆっくり起き上がり、はだけていた寝巻の裾を直した。浴衣を着て寝るのなんて、こんな田舎だけだと思う。枕元に

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海の恋人(小説)

「せあ」
俺が声をかけるとせあは薄く目を開けてうっとりするように微笑んだ。夜、ベランダに子ども用のビニールプールを出して海水を入れては、せあを浸して月光浴をさせている。するりと手触りの良い足を折り畳み、できるだけ海水に浸るように。めっきり体の色が薄くなってきて、骨格や内臓が透けて見える。月の光りはほの青く、せあの肌をより病的に見せた。肌よりも白い骨の奥で動くもやがかかったような赤いものがとくりとく

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untitled(掌編)

雨が降っているのに気付かないで、一階フロアを横切ったら、総務課で一人残業していた澤谷くんと目があった。去年まで同じ課で仕事をしていた彼は、同い年だけれど大学時分の留学などが関係して私よりも一期下だ。年が同じと分かるとため口を聞いてくる輩が多い中で、澤谷くんは几帳面に私に敬語を使ってくれる。

「徳田さん、雨降ってますよ」
「そうなの。まあ、車だからすぐだ」
「そうですね。もう帰りですか」
「うん。

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マチルダのこと(小説)

マチルダのこと(小説)

 マチルダは、苗字が町田というので自然とそんなあだ名がついてしまった。少なくとも、俺は小学校の低学年のころはマチって呼んでたけど、五年生のときにはたぶんマチルダって呼んでたと思う。周りも大体一緒で、小学校も中学校も小さな規模の一校だけだったし、高校も隣町の中堅の高校に大体みんな進んだから、マチルダのことを知ってるやつは、男でも女でも大体マチルダって呼んでた。中学校の、英語のアシスタントしていたアニ

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短歌に寄せる三つの掌編(小説)



たまごサンドをつくろうと思ったのだった。市販のサンドイッチはどこか機械めいた匂いがするから、サンドイッチだけでなく、市販の食べ物なにもかもが機械めいた匂いがするから、なんでも作ろうと思ったのだった。

蛇口をひねり、細く水を流しながらたまごの殻をむく。朝六時半。台所にある給湯器横の窓から、朝の静かな光が注いでいた。隣人の部屋から目覚まし時計が鳴る。止まる。動く音がかすかに聞こえた。知らない隣

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