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short stories

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お話集めました。
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#短編小説

いつか忘れる話(小説)

夫がトイレに行くというので、大型ショッピングモールのレストラン街を時間つぶしになんとなく歩き始めた。抱っこひもで眠る娘の頭ががくんと後ろにのけぞっている。額の寝汗を指でぬぐった。娘がむずがるように言葉にならない声を出す。上下に動かすと首がゆさっゆさっと揺れるのが心地よいのか、また、娘は眠りの世界に落ちて行った。
弾むように歩く。行き交う人を見るともなしに見て、レストランの食品サンプルを見て、また、

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千花と夏希(小説)

満員に近い電車から押し出されるようにホームに降り立った瞬間、ねえどこいくの、と声をかけられた。普段だったらそんな声に振り向いたりも立ち止まったりもしない。それでも立ち止まったのは、男の声ではなかったと思うからだ。落ち着いていてかすれているのによく通るきれいな声。わざと行く手を阻むような人の流れと湿度の中で、首をひねる。男か女かわからない中性的で小柄な人物がこちらを見つめて立っていた。まっすぐと、こ

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Dear My Sister(小説)

「たぁこちゃん」

 小さな子どもの声というのはとても独特だと思う。休日のショッピングセンターや昼間の公園、そういうところから聞こえる彼らの声は決して私の世界とは交わらないと思える。甲高いとは違う、媚をうる女の声とも違う、滑らかで甘いザラメの付いた飴玉のようで、タマゴボーロのようで、小さなキーホルダーのようで、でもどれでもない、軽やかなひねりを持った声だ。その声に、自分の名前を呼ばれたことにどぎま

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50日(小説)

父が触るなと言い続けていた開かずの間も主人がなければただのふすま1枚隔てた押入れである。
長兄は躊躇なく和紙に手を突っ込むようにして強引にふすまを開けた。あっ、と思うが、父の怒声は飛んで来るわけがなく、そこで父の不在を実感する。
長兄はきっと、私の実感など思いもよらない、というか、思いがけない、というか、思い至らないというのか、もし長兄が私の気持ちに気づいたとしても、言葉をうだうだと選んでいるから

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