Not Reborn to born

予定もないくせに、誕生日だからといって有給休暇をもらった。でも、予定がないので、誰かに祝ってもらうこともない。
自分のために何かを買おうと、都会の駅ビルへ行き、きらびやかな世界に身を置いたが、きらびやかなものはどれもこれも私のことなど見ていなくて、居心地が悪くなる。
結局、友人の出産祝いと姉の誕生日プレゼントを買って帰ってきたら日が暮れていた。
待ちゆく人は誰も、今日が私の誕生日など知らない。

誕生日っていうのを忘れていたいと思う。
人の誕生日を祝うのは好きだし、人の誕生日プレゼントを選ぶのは好きだ。でも、自分の誕生日を祝われるのはどこか居心地が悪い。しかし、私も人間なので、誕生日だと思うとそわそわして誰かに祝われたくなってしまう。そういう自分が、ちょっとさもしい気もする。だってそもそも、誕生日を祝うなんて誰が決めたんだ。キリストの誕生日でもあるまいに。
だから、祝わない人がいても、私の誕生日を知らない人がいても、それはなんの罪ではない、全くない。でも、365日のうちの、たった1日を、その人が祝ってくれなかったというだけでうっかり恨んでしまいそうになる。
今日が誕生日だって覚えていると、この人は祝ってくれたとか祝ってくれなかったとか馬鹿げたことで、また来年の誕生日までさめざめ暮さねばならない。

それに、昨日まで27歳で今日から28歳で、大して変わることもないのに、というかほとんどなにも変わらないのに、誕生日がきたということだけで、まるで生まれ変わったように感じてしまう。何も変わっていないのに。
私の誕生日は28年前の6月26日、たった1日だけだ。生まれ変わることなどない。私は私。私を生きていくのみだ。となると、私の誕生日は誰にも影響しないし、私にすら影響しない。

誕生日なんて、歳ばかりとらせやがって、と、もうやけくそな気持ちだ。歳をとることがどんどん不得意になっていく。歳をとること、そして、老いていくことの根源的な意味に、体がおののいているのかもしれない。どうだろう。やっぱりよく、わからない。

とはいえ、時間は平等にみんなのもとから過ぎ去っていくし、過去を増やしていく。否が応にも歳をひとつとってしまった。不器用な人生を、また一歩、進めてしまったのだな。

来年は絶対に誕生日なんて忘れてやる、と思っているけれど、きっとまたそわそわしているんだろうな。