逃亡者

数年前まで同じ課の同じグループで同じ仕事をしていた先輩と後輩と三人で焼肉を食べに行った。このメンバーでは大体半年に一回ぐらいのペースで、お肉を食べる会をやっていて、毎度おいしそうなお店を後輩が見つけてくるので私も先輩も二つ返事で決定する。
今日のお店も大変においしくて、牛タンは冷蔵庫に入れないで保存するらしく、そのためなのか分厚いのに柔らかく、三人で革命だとわいわい騒ぎながら食した。
今、三人ともが別の課に異動しているが、話題は前の課の話になる。今、その課にいるのは私と後輩と一緒に仕事していた、もう一人の後輩・ハナコちゃんだが、先輩はハナコちゃんと仕事をしたことはない。私も後輩もハナコちゃんとは割と仲が良く、よくランチを一緒にしている仲で、職務内容も理解があるのでハナコちゃんの愚痴を聞くこともしばしばある。その話になり、ハナコちゃんはハナコちゃんなりに悩みがあるのだ、と、先輩に言ったら、先輩が、
「でも、はなえはハナコちゃんの話しか聞いてないのだろ?」
と言った。
「そうですね。ハナコちゃんがむかついている相手とは私はあんまり話さないですからね」
と答えると
「俺は、そっちの相手とよく話してるけど、ハナコちゃん側にも問題があるんじゃない」
という。まあ、そうだろう。正義の反対はまた別の正義、なんて言葉もあるぐらいなのだから。ハナコちゃんにももちろん悪いところはある。それは私もわかっている。わかっているが、わかっていても、ハナコちゃんがあまりにも悩み、泣いていた姿を見た以上、それはもう、誰かの不幸の上に誰かの幸せが成り立つのはやはり違うのではないか、と思ってしまう。先輩は、仕事に感情を持ち込むのはおかしいし、こじれるだけだ。割り切るしかない。結局、今のメンバーがそれぞれの特性を生かして、仕事が回るようにするしかない、というのだった。至極正論で、先輩はいつも間違ったことは言わない。だから私は、うん、と答えた。答えながら、先輩の後ろのテーブルで、酔いつぶれた青年がテーブルに突っ伏して眠っており、テールスープがこぼれて連れ合いがテーブルを拭くのをぼうっと見つめていた。うるさいな、と思ったが、向こうのテーブルにか、先輩の正論にか、無理矢理に話題を変えた私の甲高い声にか、は、自分でもよくわからなかった。

先輩と後輩と別れ、アパートの駐車場についても車を降りる気力がしばらくわかなかった。夫とは昨日、急に気まずくなってまともに口をきいていない。どうして家に帰ってきてもこんな孤独感にさいなまれないといけないのか、先輩ならまた、正論で答えを出してくれるだろうか、と思うものの、今度ははっきりと、そんなこと言われたらうるさいと言ってしまいそうだ。ふと、車の中にいる私に気づいていないのだろう、大きく身体を揺らし、男性がランニングしながら暗い道を横切って行った。もうすっかり肌寒くなったのに、ライトグレーの半そでTシャツの背中には、大きな汗染みができていた。どこをどんなふうに走ってきたのかよくわからないが、ひどく必死で、何かから逃げているようにも見える。わかるよ、と心の中でつぶやいた。逃げたい気持ち、あるよね。私は今、ここから、家に入らないで逃げたい。先輩の正論を聞いているときも逃げたかった。

仕事上の大義名分から、
非の打ち所のない正論から、
SNS上の憂国談義から、
友人のいたわりの言葉から、
夫の愛情深い言葉から、
自分という存在からも、いつも、逃げたい。
逃げたいのに、でも、私の足は動かない。
だってきっと、逃げても誰も追ってきてくれない。誰に追いかけてもらいたいかもわからないが、追いかけてもらえないことが恐ろしく、その真実から一番逃げたくて、逃げないでいる。一歩も、動けないでいる。だから私はきっとこのまま、どんなことにもわだかまりを抱えて、解決もできないし逃げることもできないままなんだろうと思う。でもやっぱり、そういう自分の存在からは逃げてしまいたい。

家に入っても相変わらず夫はむくれつらで、私もただいまだけを言って多くは語らない。気づけばメッセージアプリで先輩からも後輩からもメッセージが入っていた。簡単な言葉を選びながら、今頃になって先輩にもっと言い返してもよかったんじゃないかと思える。でも、なんといって言い返せばよかったのかは、わからない。
なんとなく、文章の最後には颯爽と走り去る人の絵文字を入れた。