時代のはざまで(小説)

濃紺の遮光カーテンは分厚いのに、外の光を受けて透き通っている。淡く、部屋中が青く染まっていて、まるで海の中のようだ。ぴちゅぴちゅと聞こえる鳥の声は幻想的で、私は自分が夢の中に揺蕩っているような気もしていたし、意識は明晰で何のわだかまりもなくまぶたもひらくので、あっと驚くほど美しい目覚めを迎えているのにも気づいていた。でも、すぐに起き上がるのはなぜか悔しくて、もう一度目をつむる。が、二度寝の余地はなくなっていた。ふわりともれたあくびは、身体の起床の合図だった。
固いベッドに転がったまま視界で追うことのできる範囲を見るともなしに眺める。
白い壁紙、白く丸い月のようなLEDライトのカバー、ウォールナット色のクロゼットの扉。すべてが淡く青く透き通っている。私の意識も同じように、透き通るようにすっきりとしていて、昨日の出来事をありありと思い出せる。思い出したくもないのに、できればなかったことにしたいのに、記憶は映画のように私の脳裏にすべての映像や登場人物たちのセリフを上映していく。昨日だけでなく、一か月前、半年前、一年前、二年前。映像を眺めていると、のどの奥の方、胃より少し上、ぎゅっと握られてがぎりぎりと痛むような、優しくなでられているような、何かがせり上がってこみ上がってくるような感覚が、ずっと私を苛んでいる。唾液を飲み下しても、ただ生臭い匂いがするだけで違和感は緩和しなかった。起き上がる。
冷たいフローリングがいよいよ私を現実の世界へと連れて行く。映像が頭の中で再生されないように、リビングでテレビをつけ、何も考えないようにして音だけを聞きながら冷蔵庫へ向かう。冷蔵庫の中には、あの人がつくり置いたたくさんのおかずが並ぶ。でも、昨日は、私が珍しく夕食を作ったのに、お互い食欲がなくなって手を付けられなかった。結構焦げたチキンソテーとマッシュポテト。ボウルに入ったままのサラダを覆うラップが汗をかいている。油分が固まったチキンソテーをレンジで温め、コーヒーとともにローテーブルに並べた。豪華な朝ごはんなんだろうが、全然おいしそうじゃない。
「伊勢神宮では、新たな元号初日の御朱印をもらおうという行列が大変なことになっていました」
情報番組は、新元号の特集をしている。静謐な境内に不似合な行列が、暗い中にあふれていた。
そうか、昨日、一つの時代が終わって、今日はもう、新たな時代が始まっているのだ。忘れていた。
脳内の映画館では陳腐な恋愛映画が上映される。たわいもない恋愛が、まるで唯一無二のようなラブストーリーになる。学校で出会う二人、カフェでお茶をする二人、雨の中で抱き合う二人、喧嘩をして激しくぶつかり合う二人、携帯を寂しそうに眺めていたり、笑顔を浮かべて話をしている。二人で涙を流しているシーンもあるし、キスをしたり肌と肌を合わせているシーンもある。でも、最後は二人とも笑顔も涙も怒りの表情もなく、夢から覚めたような冷静な顔になって話をし、コーヒーを一杯ずつ飲み、片方が部屋を出た。部屋に残された方の顔がアップになる。
昨日の私たち。一つの時代の終わりと一緒に私たちも終わった。
こんなの本当に三文芝居みたいだ。
芝居だったら安易なオチだってバッシングもあるかもしれない。でも、これは芝居じゃない。
私にとっては唯一無二のラブストーリーだった。もう、きっとないほどの。
「このために朝五時から並びました。いい幕開けになったと思います!」
画面にアップになった彼自身の熱気のせいなのか、御朱印を受けた男性のメガネは曇り前髪は額に張り付いていた。ワイプで映るコメンテーターたちは苦笑を浮かべている。私も思わず苦笑した。そのうち苦笑が体中に広がり揺れになり、自分でも止められないうちに涙がこぼれていた。泣きながら、チキンソテーにかぶりつく。表面だけがあったまっていて中はじんとするほど冷えている。焦げた部分の苦味が舌をなでていく。
別れを切り出したのは私だ。でも、それを予期していたのはあの人――彼女も一緒だ。時代の終わりも始まりも、どうでもよかった。ただ、もう、彼女はここにいない。

*****

新しい元号がわかるよりもっと前から、新しい部屋を探し始めていた。彼女はそれを承知の上で以前と変わらぬように接してくれていたのだと思うと、もうきっと、この先、会うことがなかったとしても彼女には頭が上がらないし足を向けて寝るようなことはできない。それだけじゃない。彼女はいつも、自分に対して深い愛を持ち続けてくれていたのだ。出会ってからも、付き合ってからも、ずっと。

部屋を見つけて契約をし、ゴールデンウィークの中日に引っ越しをすると言ったら、不動産会社の営業は平成最後の日に引っ越しなんてなんだかおもしろいですね、新時代を新しいお部屋で過ごすっていうのもなんだかいいですね、と言うので、思わず真顔で楽しくないですよ、と答えてしまった。それから、人の好さそうな、福々しい彼はこっくりと黙ってしまったので、八つ当たりをして悪いことをしたと思う。
新元号が発表されてから仕事もばたばたと忙しくなり、家に帰るのも日付を越えてからになることが多くなった。生活時間帯がずれると、同じ部屋に住んでいても彼女の顔を見ることがなくなる。図らずも、この先独りになるための練習をしているようだった。先に彼女が眠っているベッドに入ろうと思って寝室のドアを開けると、荷物が詰められた段ボールがいくつか積み上がっている。彼女の文字で「服」とか「鞄」とかが書いてある。
ベッドの端に腰かけて、彼女の寝息を聞いていると、ここを出ていくのが嘘なのではないかと思えてくる。外にある街灯がぼやりと光り、濃紺の遮光カーテンの色が部屋の白い壁紙を染めている。深海のように静かに。自分も彼女も、このまま深海魚のように、ただ生きていくだけの何かに特化していけば、何も考えることもなく、ただ、それだけに特化していけば、閉塞感なんて感じないで、二人でずっと、生きて行けたかもしれないのに。寝室をそっと出て、その日からはソファで眠った。

最終日まで、手が回らない自分の代わりに荷造りをしてくれた。ゴールデンウィークに入ってからは二人で荷造りをして、車を借りて荷物を運んだ。新しい部屋に入り、彼女は新しい部屋を見ると自分も引っ越したくなっちゃうなあ、と笑顔で言った。じゃあ、来れば、とは言えない。だよね、とだけ、答える。うまく笑えたかどうかはわからない。
荷解きを少ししてから彼女のマンションへ向かう。駅からの道、どこにもかしこにも「平成」と「令和」の文字が並んでいる。セールとか感謝祭とか、国旗とか花輪とか、そんなものがずらりと並び、まだ寒さの残る晩春の夜でも賑々しい。
きっと、新しい元号が発表になったらセールとかですごいことになると思うよ。年末年始みたいな風になってさ。元号が発表されるより前、自分が部屋を探すよりもっと前。彼女とこの道をぶらぶらと歩きながら、路面店に入ったりしながら、そんなことを話していた。手をつないでいた。彼女がもたれかかっていた。それで、帰ってからセックスをした。そういう、ことが、もう遠い昔に思える。マンションのドアを開ける。
「なんかうまく焼けなくって。焦げちゃった」
チキンソテーとマッシュポテトとサラダの並ぶテーブルの前で、彼女はほとんど泣きそうな顔で言った。焦げたせいではなかったが、それから二人ともうまく話ができなくて、結局食事はせず、コーヒーを飲んだのだった。
「……一つの時代の終わりと一緒に、あたしたちも……終わりになったね」
「ふふ、つかさちゃん、そういうの嫌いそうなのに」
彼女は困ったように笑う。
「うん、嫌い……。な、エミ。幸せに……なってほしい」
「……私もう、つかさちゃん以外の女の子なんて好きにならない、だから、結婚して、つかさちゃんなんて忘れて幸せになる。絶対、忘れる。もう、思い出してやらない。もう泣いちゃいそうだからもう、……行って、お願い」
別れると言ったのは彼女だった。でも、言わせたのはあたしだった。大きな閉塞感の前に、あたしたちは無力だった。
駅へ向かって急いで走りぬける。新元号もお祝いモードもどうでもよかった。そうしなければ涙がこぼれてしまう。
人であふれた駅前の居酒屋で、わっと歓声が上がり乾杯の声とともにげらげらと大きな声が響いた。

驚いて立ち止まったせいで、ぼろぼろと涙がこぼれていった。


私たちは終わったのだ。時代の終わりに。
そして、新しい時代を独りで迎える。互いが幸せであるように祈りながら。

****

文学フリマで配布したフリーぺ―パー。
「ごはん」と「平成と令和の間」というテーマで書きました。