untitled(小説)

築三十八年のアパート、六畳の部屋の畳は色褪せて、うす暗闇の中では全てがモノクロ映画のようだった。片方だけ開けた窓の、アルミサッシに美栄子は腰かけている。あらわになった太ももに食い込む銀色の金属が鈍く光っていた。美栄子の太ももは、爪楊枝で突けばはじけてしまいそうなのに、マシュマロのようにやわらかくもある。彼女の太ももは妖艶で美しい。
「起きてるなら、声かけなよ」
頭上から声が降ってくる。答えないでも起きていることを伝えるため、寝返りを打つ。タオルケットがさらさらと素肌を滑っていった。暑くもなければ寒くもなく、温かくもなければ涼しくもない。窓が開いていても空気はみじんも動かなかった。外の世界の音すら何も聞こえない。まるで六畳間だけが切り取られて、どこかに放られたようだ。
美栄子は立てていた右足をひっこめ、今度は左足を立てた。彼女のなめらかな踵が畳をこすり、しゃりしゃりと音がする。彼女の一挙一動は無駄がなく、映画のようだった。美栄子がこすった畳に藺草のにおいなどなく、届いてくるのは粘ついた生活臭だけだ。美しい富士。彼女の立てた足はそう見える。ふわふわしていてざらざらする、彼女の肌は類稀なく美しい。
「眠れないの?」
声をかけた。私の声はかすれている。酒を飲んで寝た夜はいつもそうだ。気分を害したのか、美栄子は答えない。私は伸びをして上体をひねり、起き上がった。そばに寄っても彼女はこちらを見ないで、視線を外したままでいる。何が見えるのか、美栄子の横に並び目線を合わせてみたが、道路をはさんで向こう側には、ここと同じようなアパートの外壁だけが見える。風化して、白い壁にいくつもの黒い筋状の雨カビが這っている。青白く弱弱しい街灯に照らされ、光のわずかな明滅のせいか黒い筋が動いているようだ。雨カビなら上から下に流れていくのだろうが、下から上にのぼっていくように見えるのだった。目がおかしくなる。じんとした痛みが目の奥を刺激して、浮かしていた腰を畳に下ろした。しゃりしゃりした感触が、自分の太ももに這う。私の太ももは、美栄子のように妖艶ではない。半分ぐらい空気の抜けたビーチボールのように張りもなければ心地よい柔らかさでもない。
「どうかしたの。目が覚めてしまったの?」
美栄子は相変わらず、私の問いには答えないで、そっぽを向いたままだった。少し釣り目の瞼に、どこかの街灯が光をさしていた。青白く光りを受けた彼女の瞼も頬も、沈黙している。私は彼女の太ももに手を置いた。羽二重のようにやわらかく、ゆでたそうめんのように腰があり、生きているもののあかしとしての産毛がある。この手触りが大好きだった。すと指を走らせると心もとない温度が確かに伝わる。安っぽい綿のパンツがよく似合っていた。
「美栄子、どうしたの」
彼女は黙っている。私はただ、彼女の太ももを何度もなぞっていた。
「美栄子」
何度か名前を呼ぶと、彼女はすと視線を動かした。その動きのせいでか、はらりと一筋だけ涙が流れていった。逆光になり、暗い部屋の中で彼女の表情をうかがい知ることはできない。音もなく声もなく呼吸を乱すこともない。彼女は感情を震わせる時でさえ美しいのだった。その切れ長で、人を射殺すような光を持つ瞳から、こんなにも美しい涙がこぼれることを、私以外誰も知らないだろう。
「どうして泣くの。寂しいの? 辛いの?」
「そうして問うてくるからよ」
美栄子は驚くほどのスピードで私を押し倒し、厚みを忘れた布団の上に転がした。倒れた拍子に布団にしわが集まり重なり、二人で眠るのでも十分でない大きさが、余計に決まりが悪い形になってしまっても気にしなかった。私に覆いかぶさる美栄子からときおり滴る涙は、私の口を濡らした。

数時間後、鬱屈した六畳間にも朝の光が徐々に差し込み始める。スズメの鳴き声が活発になってきて目が覚める。枕とは反対方向に頭がある。私はゆっくりとあくびをし、丸出しになって冷えてしまった腹を温めるようにさすった。美栄子の肌のさわり心地とは大違いだ。同じ女でもこうも違う。美栄子は美しく、けなげで、すぐに愛情にへこたれてしまう。彼女の求める愛は、異性から得られるものでもなかったし、同性からも得られないのかもしれない。私は私なりに美栄子を愛しているが、美栄子ではないのでわからないのだった。
永遠にゼロにならない他人との距離を、彼女はどんな風に見ているのだろう。
「ねえ、…」
しんしんと積もる朝の空気の中に、美栄子の姿はなかった。
乱雑に脱ぎ捨てられた寝間着替わりのふざけたプリントTシャツだけが、彼女の抜け殻だった。