明日も明後日も

「ちょっとさあ、やりすぎだったんじゃないの」
さっきまでの小雨でしんなりしたアスファルトから、すこし熱を帯びた湿気が上に上がってくる。こういう匂いをかぐと、春なんだなあと体が感じる。住宅街の生活道路沿いに植えられた桜からはずいぶんと花びらが散っており、暗さのせいもあってそこだけ白線の塗料が飛び散っているようだ。下手な業者が塗ったみたいだねと言うが、桜を見上げる彼には届かなかった。ん?と首をかしげてくる。
「今日のやつ。びっくりした。もうさ、話は先にしてたし、よかったのにさ」
「いやあ、でも、一応けじめでしょう。世間話が長いし、話がどんどん先に行くからびっくりした」
「だって前もって言ってたもん。結婚したいって」
「まあ、そうだけど、形って大事でしょう」
彼は立ち止まり、等間隔に立つ街灯に照らされた桜を見つめる。ライトアップをしているわけでもないので、桜の花の一輪一輪をじっくり眺めることはできず、ぼんやりと桜が集まっているな、と認識するぐらいだ。それに、大分散っているので、穴ぼこのように、花と花の間から夜空がのぞいている。
「ああ、でも、何言ったか覚えてない」
彼は情けない声を出して、わざとらしく顔を覆う。
「ちゃんと言ってたよ、娘さんと仲良くさせてもらってます。これからも添い遂げたいと思いますので、よろしくお願いします、って」
「ああ、やめて、言わないで、恥ずかしい」
「覚えてないって言ったのそっちじゃん」
「言ってとは言ってない」
すぐに屁理屈を言うのだ、この男は。私はふんふんと鼻歌を歌って、車通りがなくなった道路でくるくると回って見せる。湿気っぽい空気が鼻先をかすめる。春なのだなあ、と、やっぱり思う。スプリングコートもいらないぐらいの、少しもたついた暖かさが辺りに広がっていた。

彼がプロポーズしてくれたのは、4月に入って間もない日で、まだまだ寒い日だった。ごうごうと春の嵐が勢いを増して町中を巡っている頃、彼はポケットから小さな四角い箱を取り出した。瞬間、何も考えていなかったのに涙が出てきた。泣き虫、と、彼も涙をにじませて言った。

そうして二週間も経たないで親にあいさつに来てくれた。プロポーズを受けてから間もない気もしていたが、確実に季節が移り替わっていく。桜は散り、緑の葉を茂らせ、紅葉してまた散っていく。その間に、私たちの関係も移り変わっていくのだ。不思議だ。誰がそうしろと言ったわけでもないのに、そうしたいと思うとことが運んでいく。

いい加減道路でまわるのも飽きて、彼をうかがい見るが、それでもまだ辺りの桜をちらちらとみては立ち止まる。マイペースなのだ。本当にこの人でいいのだろうか。私が我慢することも、相手が耐えることも少なからずあるだろう。やっていけるのか。法の下、私たちは契約することになる。解約は簡単だけど、人の情は簡単にほどけるものではないし。早まったのだろうか。違う選択肢がほかにあったのか。100点ではない。私も、この人も。補いあうことができるか。お互いかけたままにならないか。そもそもこんなこと、考えてはいけないのかもしれない。でも。もしも。たぶん。
「えっちゃん、危ないよ」
彼がすと道路に下りてきて、私の腕をつかんで歩道に引き上げた。少しして車が入り去っていく。落ちたばかりの桜の花びらが吹き上げられて、小さく舞っていた。
「よくわかったね、音が全然しなかった」
「地面が微妙に揺れてたよ」
「なにそれ、なんか仙人みたい」
「はあ?」
彼はふふと笑い、私の手を取って歩き出した。
「一緒に早く住もう。明日も明後日も一緒にいられるように」
「ロマンチストだな」
「男はそういうもんだよ。明日も明後日も、この人に、任せられるというか、明日も明後日もこの人と一緒にいられるって思える人が、おれにはいるんだーっていうのが、うれしい」
「ひー、すごい」

湿気が鼻をかすめていく。桜の間からのぞく夜空に、月が見えた。