朝が眩しいから

朝が明るくなった。朝の光、色、空気、音、全て、この間までの寒い空気や暗い色を払拭して、あっという間に明るい、夏のすべてを朝が背負って持って来た。夜は、まだ春が名残惜しいのか、夏の前の最後の悪あがきのように肌寒い風を窓から押し込む。
朝が眩しいと、起きたはなから少し悲しい。置いてきぼりにされたように思ってしまう。朝が眩しいと、力が全部持っていかれてしまうように思う。季節の変わり目に、どんどんついて行けなくなるようだ。心も体も。

嫌だなと思うことや、苛立つこと、悲しいこと、思い通りに進まないこと、そういうことは日常生活、仕事の中で、多々ある。ありすぎるほどある。でも、それはそれで、どうにかするし、諦める。だけど、諦めたときの、はみ出た感情を私は上手く整理ができない。夏を背負った朝に追いやられて、どうにか肌寒い風を窓から押し込む夜のように、私もどこかにそれらを押し込んで、眩しい朝を受け入れたいのだけど。だけどね。
みな、整理上手だ。心の整頓がうまいように見える。きっと同じように、どうにもならない感情をかかえて、意思を押し殺して、自分以外のことが上手く回るように、自分のことが上手く回るように、バランスをとろうとしているのだ。朝も夜も、本当は違いがないのかもしれない。夏には、朝に追いやられる夜だけど、冬は、夜が朝を追いやる季節だ。

自分が傷ついたと思う横で、自分が傷つけた誰かがいる。だけど誰も言わない。言わない約束だ。
だって、眩しい朝に追いやられても夜は夜であり続ける。その時まで肌寒い風を送り続ける。そうして悲しい夜があるからこそ、朝は眩しくいられるのだ。