通過儀礼

またひとつ、年を取った。

毎年経験しているくせに、誕生日前日になると次の日に何かあるのではないかとそわそわして、朝を迎えて目が覚めて、期待をひも解いてみるものの、前日の気だるさが体に残っているだけで、新しい私、なぞにはついぞ出会えぬのである。
祝ってもらっても、どこか居心地が悪い。新しい私ではないから、だと思う。

それを私は、物心ついたころから同じように期待して、してしまうからこそ、誕生日の朝は大体、落胆から始まる。そして大体、一日中落胆している。

私を包む世界にとって、私ごときの誕生日はただの平日ないしは休日なのだから、いくら私が落胆しようと関係ない話なのだった。
私が、新しい私になろうが、旧い私のままでいようが、すべての時間には何も関係がない。

けども、そのことを知っていてもわかっていない私は、いつも落胆する。
誕生日の朝も、その次の朝も、その次の朝も、ずっと次の朝も。
ついぞ巡り会えない新しい私。
どこにいるのか、探しているうちにまた、次の誕生日の前日を迎えて、そうしたら、今度こそ新しい私に出会えるのではないかと期待して、落胆はその日だけはきれいさっぱり失われ、穏やかに眠りにつく。
どうせまた、落胆するのは想像に難くないくせに。

そうやって大人になっていくのだと、大人になるための通過儀礼だと、思っていたのに、気付けば大人だと言われる年になって、それなのに期待と落胆はいつも私について回る。

旧い私は旧いまま、いつまでも新しい私を待ち続けている。