Dear My Sister(小説)

「たぁこちゃん」

 小さな子どもの声というのはとても独特だと思う。休日のショッピングセンターや昼間の公園、そういうところから聞こえる彼らの声は決して私の世界とは交わらないと思える。甲高いとは違う、媚をうる女の声とも違う、滑らかで甘いザラメの付いた飴玉のようで、タマゴボーロのようで、小さなキーホルダーのようで、でもどれでもない、軽やかなひねりを持った声だ。その声に、自分の名前を呼ばれたことにどぎまぎしながら、私ははぁい、と返事をする。前髪が汗で額に張り付いている。黒々として束になった髪の毛は、小さな子特有の柔らかさを持っていた。車の助手席の窓から必死に顔をのぞかせているその様子は微笑ましい。

「真佐紀、身長伸びたんじゃない?」
「そう、あっという間だよ。ほら、まさ、後ろに乗るんだよ。明子は前ね」

 顔をのぞかせていた真佐紀をだっこし、ベビーカーを畳んでトランクに仕舞い終えた姉は後部座席に乗り込んだ。促されて、明子が助手席に座る。最近のませた女の子のような原色だらけの服装ではなく、いたってシンプルに白いロゴTシャツとデニムのショートパンツを履いていた。手足はよく焼けており、健康的な少女そのものである。私はふと、まだ姉が結婚する前に、子どもができたらどんな服装をさせたいかという話をしていたのを思い出した。黒地にピンクのドット柄も、シフォンのチュニックも、赤いレースの見えるタータンチェックのミニスカートも絶対に履かせない、子どもはシンプルなのがいいと力説して、まさに有言実行している姉を尊敬する。

「明子、何歳だっけ」
「7月に十歳なったよ。なんで、たこちゃんいっつも聞いてくるのに忘れるの」

 明子はけらけら笑った。鈴が鳴るような声とはこういうものなのだろう。車のエアコンが黴臭いので窓を開ける。そよそよと風が入ってきて、明子の黒髪をなびかせた。

「あー、ここのお店なくなったの。ケーキ好きだったのにな」
「移転したんだよ。粕屋の交差点のところにあった、フィリピンパブあったじゃん。あれがなくなってさ」
「うそー、あそこ私が高校生のときからあったのに」
「でもあんなん、やってるかどうかも怪しかったでしょ。不法入国がばれたとか言って」
「むしろ遅すぎるでしょ」

 私にしてみれば、もう馴染んでしまった町の景色や移り変わりも、数年ぶりに見ると感慨深いらしい。姉は綺麗になった道や新しくできた店、姿の変わった家々の様子を見ては反応した。明子も時に一緒になってへえ、とかふうん、とか大人びた風に相槌を打っている。ルームミラーから盗み見ると、真佐紀は道中疲れたらしく、姉の膝の上で眠っていた。安心しきった寝顔だった。

「あー、ただいま。じゃないか。おじゃまします。あ、ほら、明子、ちゃんと靴揃えて」

 軽やかにスニーカーを脱ぎ捨てた明子を呼び止め、姉が靴を指差す。結婚する前も、結婚して家から出るまでも、一番靴をそろえなかったのは姉だったのに、驚いた。家族四人が住んでいた頃、何人家族が住んでいるんだと言われたほどに雑多に靴が並んでいた我が家の玄関も、今や私がよく履くスリッパとスニーカーとパンプスだけが並んでいる。父や母の、古くなってしまったパンプスやスニーカーは半年前ぐらいに一気に捨てたが、天袋に仕舞ったままのレインブーツやチャッカーブーツなどは箱に入ったままにしてある。いつか捨てることになるのだろうが、父が好きで履いていたリーガルの革靴を何の感慨もなく捨てられるほどにはまだ感情が凍てついているわけでもないので、まだしばらくはそのままになるだろうと思う。明子ははいはい、と慣れた返事をし、紺色のニューバランスのスニーカーをそろえた。真佐紀もそれを見て自分の靴をそろえようとするが、上り框からうまく手が届かないらしい。まだ重心が頭にあるので、下を向くと土間に頭を叩きつけそうになるのが危なっかしく、土間に立ったままだった私は彼の靴をそろえてやった。ああと、と、舌足らずの感謝の言葉を彼は言った。真佐紀を抱き上げ、姉と明子が手を洗っている洗面所へ行く。ずしりとした、生きた重みが腕に響く。

「ほら、手洗って。あー、洗面所もすっきりしたね。でも、なんか匂いは変わんないもんだね。東京の家の匂いよりも、この家の匂いの方がやっぱ自分の家って感じするわ」
「東京の家は洒落た匂いがするよね」

 何度か遊びに行った姉夫婦の住居は静かな住宅街のこぢんまりとした一軒家で、四人家族でちょうど良さそうな広さだった。実家の方が少し広くも感じたが、姉と義兄と明子と真佐紀が暮らしていることがぴったりのような、そんな家で、例えば、友人の家に行ったときに、この友人がこの家に住んでいるのか、というような意外性をどんな友人の家でも感じていたものだが、姉夫婦の家に関してはそういうことがなかった。姉も私もずっと実家に住まうものだという意識があったのに、いつのまにかそういう無意識の束縛がなくなったということなのだろうか。彼らの家は、いつもジャスミンの匂いがしていた。芳香剤でもお香をたいているわけでもないらしかったが、どこかしら甘く爽やかな匂いがしていた。

「あー、和室もすっかり片付いてるじゃん。あのでかい机とかどうしたの。あれどうやって捨てたの。たこちゃんなんだかんだ働きものだよね。面倒臭がりなのにね」

 姉はリビングに荷物を置きながら、ふすまで仕切られた隣の和室を覗く。仏壇と床の間と、少し前までは大きな炬燵机が置かれていたが、今は小ぶりのローテーブルだけを置いている。三日前に会社の後輩に手伝ってもらって粗大ごみとして出したよ、というと、姉はさっぱり捨てたんだね、と驚いた。姉が、十年来付き合っていた尚志君と結婚すると決め、ようやく彼が我が家の敷居をまたいだとき、案内したのは和室だった。ローテーブルを端に寄せ、炬燵机に両親と若い二人が向かい合い、話をしていた。私はそういう場がどうも苦手で、というのも、尚志君とは面識があったので、今更こんな風にかしこまった挨拶をするのが緊張したので自室に逃げていたのだが、父からお呼びがかかり、少し打ち解けた空気の中にようやく座った。静かな、五月の土曜の午後だった。それ以外にも、あの炬燵机は色んなシーンで活躍していたが、今に限って言えば同じ大きさの炬燵机がリビングにあるので不自由はない。本来はこうであるはずの和室が、妙にがらんどうに見える。
 独り言を言う母を後目に、明子も真佐紀も行儀よくリビングに座った。

「麦茶でいい? ああ、でも明子たちにはジュース買ってきたらよかった」
「でも、お母さんはジュースダメって言う」

 明子は不服そうだったが、和室から戻ってきた姉がいいのいいの、と言う。

「麦茶で十分。ジュースなんて、私たちもあんまり小さい頃から飲んでなかったでしょ。真佐紀には氷入れなくていいよ、すぐお腹壊すから」
「尚志君からの遺伝かな。お姉ちゃんもそんなにお腹強くなかったでしょ」
「まあね。お母さんもよくお腹下してたしねえ」
「しかも貧血持ちだからほんとに困ったね。何回倒れてたんだろ」

 貧血持ちだった母は急激な血圧の低下に耐えられず、何度かトイレで倒れたことがあった。そのたびに私たちは冷や汗を流していたものだが、当の本人はのんきなもので、私たちが何度気をつけろと言ったってのほほんと聞き流しているだけだった。そういう母に、何度も救われたこともあるが、父を始め私も姉も苛立つことが多かったように思う。今になっては笑い話だが、一人で思い出すだけでは笑えないので、姉が今、この場にいてくれてよかった。
 それから真佐紀がうとうととし出したので、片付いた和室に布団を敷き、明子にお守りを頼んで私と姉は買い物へ出た。車に乗り込むとき、懐かしい姉の髪の毛の匂いがした。姉にはダメだよ、と言われたが、やっぱりそうしたかったので二リットルのリンゴジュースとオレンジジュースを一本ずつ買った。

 夕飯はみんなで餃子を作った。明子も真佐紀も餃子が好きらしく、姉は昔は餃子が嫌いだと言っていたのに、母になると自分の好き嫌いで子どもの好き嫌いが決まるのが怖いと思うようになったらしい。自分が苦手なものでも、子どもに食べさせるために作るのだそうだ。尚志くんも料理が好きで、バーやカフェに出てくるようなものの写真をいくつか見せてもらったが、子どもの頃からそんなものは食べさせられない、と、姉は笑った。すっかり母の顔をしていた。

「はいはいはい、デザート」

 桃を剥いて持っていくと、真佐紀がうふ、と笑った。桃が好きらしい。スーパーで見かけるたびに食べたいと思うのに、いつも四玉一パックで売っているものだからどうしても手が出ない。姉はそこまで果物が好きではないが、自分の家に、自分以外の人がいるというのが嬉しくて今日は買ってしまった。真佐紀は食べ過ぎたらお腹壊すから少しだよ、と、姉は言うが、真佐紀は桃の淡く熟れた実に夢中だった。明子は眠たげにソファに腰掛けている。

「明子、風呂入ってくる?」
「うーん」
「この子さ、風呂嫌いなんだよ、面倒なんだって。たこちゃんみたい」

 明子が本当? と起き上がって聞いてくる。私は真佐紀がこぼす果汁をティッシュで拭き、そうだよ、と答える。

「お風呂なんて一日入らなくっても大したことないよ。明子はまだ若いから余計に大丈夫」
「えー、ほんとー」
「ほんとほんと。お風呂に入らないと悪者にみたいに言ってくるからみんなね」
「でも夏は入らないと臭いでしょ。明子、あんた友達に臭いとか言われるよ」
「それはいやだ」
「お母さんも入るから一緒に入っちゃお。真佐紀も入るよ」

 まだ桃を頬張る真佐紀はいやいやと首を振った。桃の汁が口の周りにべったりとついて、へたくそなグロスの塗り方をしたようだった。私は笑いながら真佐紀の口周りを拭く。

「いいよ、私、真佐紀いれるから」
「ほんと、助かる。風呂ぐずるから気を付けてね」
「え」

 姉はボストンバッグから真佐紀の分のパジャマと下着をこちらに放り、明子と一緒に風呂場へ消えて行った。真佐紀はまだもしゃもしゃと桃を食べている。相当好きらしい。臆せず桃を買ってよかったと思う。

 次の日は、海の見える公園まで車を走らせた。大したテーマパークも楽しいイベントもなく、子どもにとってみれば夏休みの大したことのない土日だったが、私は久しぶりに誰かと一緒に過ごす休日だった。昔、両親と土日に出かけるのは面倒だったし、連れて行ってもらえても子どもにはつまらない景観の良い高台やお寺とか神社とか、そういう場所ばかりだった。大人になってもきっと自分はこんなところに来たいなんて絶対に思わないと思っていたのに、今やすっかり、景色の良い高台で日がな一日ぼうっとしていたい。仕事が煮詰まれば煮詰まるほど、人間関係がうまくいかなければいかないほど、高台から少し霞がかった景色を見たいと願うのだった。
 夏休みということもあって、海沿いの道を走ると水着姿の家族や浮き輪を持ったカップルとか、そういう人たちがちらほら歩いていて、強い日差しを感じるよりも夏を感じさせた。明子は海だ海だと興奮していたが、今日は入らないよ、というとがっかりしたようにふうん、とだけ頷いた。真佐紀は姉の膝の上で寝ている。
 海の見える公園は浜辺の裏側にある。なだらかな丘が続いていて、堤防のすぐ横がウォーキングコースになっており、堤防の向こう側はテトラポットが並び、波が打ち付けている。夏は海水浴客が多く、浜辺の方に人が集中しているらしい。公園の方はあまり人がおらず、犬の散歩をしている人が歩いているだけだった。私たちはパラソルを立て、丘の芝生にレジャーシートを広げてお弁当を食べた。昨日の夜、子どもたちが寝た後に姉と一緒にせっせと作ったのだった。私はタコウィンナーを作るので精いっぱいだったが、姉はテキパキと工夫をして、ウズラの水煮にゴマで顔をつけたり、チキンライスを卵で包んで小さなオムライスボールを作ったり、すっかり母親としての技術を身に着けていたのだった。

「すごいね。覚えたの」
「覚えたっていうか、ほら、明子が通ってた幼稚園でこういうお弁当が人気なんだって。すごいお母さんだとキャラクターとか作るらしいけど、そこまでは私は面倒だからやらん」
「ここまでできるならできるでしょ」
「毎日やってたら続かないからたまにがいいんだよ、たまに」

 殆どの料理を姉が作ってくれたので、私はどんな風に切れ目を入れたらタコウィンナーの足が綺麗に開くかをゆっくり研究できた。

「なにこれ、イソギンチャク?」
「違う、タコ」
「たこちゃんなのにタコウィンナーできないの」

 明子はウィンナーを頬張ってケラケラ笑った。子ども特有の甲高い声が風にさらわれる。ずいぶん暑いだろうと覚悟していたが、海風が心地よく思ったほど汗は出なかった。

「ねえねえ、なんでたこちゃんっていうの」

 明子がオムライスボールを目いっぱい頬張ってそう言うので、口からぽろぽろと米粒が出た。姉がもう、と言ってそれを拾う。真佐紀も手づかみでタコウィンナーを食べていた。

「ほら、ほんとは貴子っていうじゃん、私。でも、みんなたかこ、って、言いづらかったみたいで、たこって呼ばれてんの」
「へー」
「興味ねえのかよ」

 明子は笑って、今度は卵焼きを食べた。これ、うちのと味が違うーと言いながらも嬉しそうに食べてくれた。卵焼きも私が作った。姉は出汁を入れて作るらしいが、母の卵焼きは三温糖をたっぷりと、塩を少しだけ入れた甘い味の卵焼きだ。三温糖を入れると卵液が少し茶色くなり、焦げ目がつきやすくもなるが、私は出汁が入っているよりも、ご飯の甘味を増すようなこの味が好きだった。母の料理は決して派手でも、小料理屋のように繊細なわけでもなかったが、素朴で家庭の味としておいしかったから、好きだった。もちろん失敗するときも多々あって、やはりそういうときには私たちから駄目出しをされてすねていたものだ。

「はー、懐かしい。たこちゃんって結構、しぶい味出すよね」
「おしゃれなの作れないもん。服装もそうだけど、お姉ちゃんが最先端すぎなんだよね」

「そんなことないよ。もっぱら最近はワンピースばかりですわ」

 姉は麻のワンピースをひらひらとゆすって見せる。明子とお揃いのワンピースだった。何の変哲もない生成りのワンピースは、姉が纏っていることで美しく見える。
 姉は目鼻立ちがはっきりしていて、美人かそうでないかと言えば美人の類なのかもしれないが、純和風やアイドルのような顔をしているわけでもない。エスニック風と言われることもあるが、私はそういう美人ではないと思うし、家族なので美人という感じもせず、綺麗という言葉が一番しっくりくる。身だしなみにはいつも気を付けていて、自分の美意識にはこだわりを持っていた。私はどちらかというと美意識やそれに位置づけられる考え方というのを持つのが気恥ずかしかったので、姉ほど女性然としていられなかった。戦後十年もしない内に生まれた父は、見目が際立ち女性然としている姉を見て、色気づいてとかませやがってとか、苦言やときには怒声が飛ぶときもあったが、それでも、姉は自分の美意識を信じていた。私はそういう姉がうらやましくもあり妬ましくもあり、尊敬もしていた。そういう姉だから、十年も付き合ってくれる彼氏ができたのだろうし、色々な職場にいても愛されたのだろうし、こうして良い子どもが二人もできたのだろう。三十を過ぎ、半ば自分の新たな家族を持つことをあきらめた身としては、ただただ、姉が美しい女として目に映った。二児の母になった今も、もちろん美しく見える。
 食後、明子と真佐紀はウォーキングロードの端でボール遊びをしていた。強風に遊ばれて思うように飛ばないゴムボールを、二人で必死に追いかける。青空に、二人の笑い声がすうと響いていく。引っ込み思案そうに見えた真佐紀も、楽しげに笑っており、芝生の上とはいえ思いきり頭からこけたときも泣かなかった。案外逞しいね、と言うと、そうでもない、と姉は言う。

「来年から幼稚園に入れようかと思ってるけど、すごい人見知りだから心配。近所のおばさんにも全然挨拶できなくて、最近やっと、私の足の間から顔だすようになったよ」
「明子はそんな風でもないのにね」
「やっぱ弟だからかなあ。明子はほんと、私の小さい頃と一緒。あんたも結構人見知りだったよね」
「そうかな。相手による」
「そういうとこあるね、確かにね、狡猾」
「狡猾ってひどくない」

 姉は笑う。笑い皺が年を感じさせる。目元が母に似ていた。

「要領が良いっていうのかね」
「最近思うけど、要領が良いっていうのはあんまり褒め言葉じゃないよね。ずるがしこいって感じするわ。……つまり狡猾か」
「わかってんじゃん」
「上を見て学ぶんだよ。きっと真佐紀もそうなるはず。まあ、一姫二太郎だから良い兄弟になるんじゃない? 年も私とお姉ちゃんと同じだけ離れてるじゃん」
「まあ、そうだね」

 姉は立ち上がり、その瞬間にワンピースが大きくはためいた。おかあさーん、と、明子が姉を呼ぶ。たぁこぉ、と、真佐紀が私を呼んだ。

「貴子」

 夜、子どもたちが寝静まってから姉が私を呼んだ。豆電球だけを灯した和室は暗いが、目が慣れてしまえば淡いオレンジ色の明るさだけでも十分室内の様子は見渡せた。

「明子たち起きちゃうよ」
「大丈夫、今日たくさん遊んでたから」

 夕飯には回転ずしに行ったが、子どもらは食べながらうつらうつらと舟をこいでいた。夏の日差しの下、目いっぱい遊んだのだから相当疲れたらしい。明子は口にチョコレートケーキを頬張りながら寝ていたほどだ。昔、両親が思い出したように、私が生まれる前の家族旅行で泊まったホテルで、ディナーの最中に姉が寝てしまったことを笑い話として話してくれた。口に物を入れたままなんてあんまりだと思ったが、よくあるよ、と、姉は平然とエビを食べていた。姉は、父と母と同じ気持ちなのだろうか。私はまだ、母にも妻にもなっていないからよくわからず、ただただ、行動原理のままに動く子どもらというのが脅威にも感じたし、愛らしくも思えた。

「あんたさ、彼氏、いないの。ほんと」
「いないよ。いたらちゃんと言ってる」

 というのは半分ぐらい嘘だった。実は三日前に彼氏と別れたのだったが、そのこと、というか、彼氏がいたことを姉には言わなかった。二人そろって休みを取り、炬燵机を運び出すのを手伝ってもらった後、一緒にそうめんを食べていたら結婚したらこんな風に飯とか食うようになるんかな、と、彼がぽつりと言ったので、結婚したらの話ね、と(そういうつもりではなかったが彼にしてみたら結婚はしないからあくまで仮定の話だと釘を刺された気分になったらしい)言ったら彼があからさまに不機嫌になったので、どうかしたのと言ったら、たこは俺たちの将来とかちゃんと考えてるのかと言われ、私は一瞬で気持ちが萎えて口論になり、むちゃくちゃな言葉を並べている最中にどうしてここまで躍起になって結婚するしないを言い合いしなければならないのだろうと思い始めると、目の前の男と、これから三十年乃至四十年をともに歩んでいくのかと思うと億劫で、じゃあもう結婚してくれる女と付き合えばいいだろうと言い放ったら彼が半泣きになり、じゃあさようなら、と、私は蕎麦猪口を自分のと彼のとを取り上げ、流しに置いた。
 姉に話したらあんた何やってんの、と呆れられるか、そういう男はあんたには合ってないからよかったよ、と慰められるか、どちらにしても自分がいたたまれなくなってしまう気がしたので、本当に、この先、万が一にでも結婚を考えることができる人がいれば、その時は、姉に一番に話そうと思う。自分の周りはいつのまにか一児や二児の母になっていて、私がまだ躓きまくっている恋愛どうのこうの、恋人どうのこうのの次元ではなくなっている。唯一血のつながっている姉にしか、もうこんな話はできないだろうが、それでもやっぱり、話すには覚悟がいる。

「……まださ、結婚するのに抵抗とかあるの?」
「抵抗っていうか、相手いないからもうそんなことを考える余裕ないけどね」
「言うわりに余裕綽綽じゃん。結婚する気ないでしょ」
「する気あっても相手いなかったら意味ないじゃん」

 姉はそうじゃなくって、と、息を吸いながら発語するのでさわりと言葉が抜けていく。明子が姉の方に寝返りを打った。

「まだ、結婚したらお父さんとかお母さんに申し訳ないとか思ってたりするの」
「さあー……」

 姉が父に結婚を申し出たとき、父は失神しそうな勢いだったらしい。私は姉が結婚したいと話したことは知らなかったので、二人の間にどんな攻防があったのか知らない。けれども尚志君が和室に座り、両親との面会ができたのだから父も覚悟はしていたに違いない。別に嫁になんかいかなくてもいい、ここにずっといたらいい、と、冗談めかして言っていたが、あれは呪文だったのだと今になってみれば思う。その言葉が、私を今も縛っている。結婚することが申し訳ないとか、そういうことではなくて、私は、姉にとっての尚志君のような、あの呪文を解いてくれる、もしくは他の呪文をかけてくれる人がいないのだ。この先一人でこの家にいればよいのだと思っている。思うようにしている。そんな自分がむなしい反面、姉の呪文がとけてよかったのだと安心もする。
 両親の呪文に向き合う強さを持っていた姉は、自分で新しい魔法を覚えた。私は向き合う強さを持たないばっかりに、ただただその呪文にすがって生きている。

「別にね、こんなこと言ったらいかんかもしれんけど、もうお父さんもお母さんもおらんのだからね。あんたの人生、生きなきゃだめなんだよ」
「……わかってる」

 バツが悪くなって、姉の方に向いていた体を仰向けにした。小学生や中学生の頃、テストの点数が悪いと父によく怒られた。そのたびに姉がこっそりと部屋にやってきて、テストの点数が悪いからってたこちゃんが悪いわけじゃない、怒られるのが嫌だからってお父さんのために勉強しなくたっていい、と、慰めてくれた。自分のことはそっちのけで、何度も何度も私のことを慰めてくれた姉は、二児の母になっても相変わらず姉なのだった。それでもまだ、私はその慰めの言葉の意味を考えあぐねている。答えを出しそびれてばかりいる。

「……姉ちゃんは、要領がよくないけど」
「失礼だな」
「だからちゃんと、物事と向き合えるよね」
「褒められてるって思っていいの」
「まあ。私はなまじっか何でもできるもんでね」
「私も優等生だったよ」
「まあそうだね。私は真面目に見えるクズだったから」
「すぐそういうこと言う。変わんないね」

 姉は少し起き上がり、明子の肩にはいでいた布団をかけた。寝る直前に冷房を切ったのだけど、暑くなってきた。空気がじわりと湿っているのがわかる。彼氏がいたとしても四人でくっついて寝るなんていうことはまずないので、人口密度におののきながらも、冷房を入れる。ぶうん、と鈍い音がして室外機の動く音が聞こえる。遠くで救急車が走っていた。

「……いまさ、良い人いないんだったら、一緒に暮らす?」
「へ?」
「いや、ずっとね、考えてはいたんだけど。尚志もいいよ、って、ほら、あの人は家族たくさんいたらいいよって感じの人だからそんなね」
「いや……まさかそんなことを言うとは……だってさ仕事どうすんの」
「まあ……辞めてもいいんじゃない。あんなにいやいやだったじゃん。こっちで新しいの見つけたら。家には困らないんだし」
「そんな、寄生虫みたいな。こんな中途なんて誰も取ってくれないでしょ」
「まあ……そのうち、考えてもいいかなーってさ。家族なのにやっぱ離れてるのってやだなと思って」

 姉はこの話をしたかったのかもしれない。私はオレンジ色の豆電球をじっと見つめているうちに眠ってしまった。

 次の日、すっかり元気になった真佐紀は朝から帰りたくないとぐずり、明子もまだ遊びたい、と不機嫌そうだった。ここにいてもやることないよ、と言うと、嬉しいことにたこちゃんとまだ遊びたい、と言ってくれる。姉は、別にいたいだけここにいてもいいけど、お父さんが今頃飢え死にしてるかもしれないというと、優しい子どもらはそれはいけないと(若干迷った様子だったが)重い腰を上げた。

「昨日の話だけど」

 後部座席に話しかける。ルームミラーごしに姉を見た。

「家を出たこと、申し訳なく思ってるんだったらそういうの大丈夫だよ。何回も言ってるじゃん」
「そんなことはないけど、さすがにあの家にあんた一人ってのが心配なんだよ」
「本当はそのうち引っ越そうかと思ってたんだ。ちゃんと整理終わってからだけど」

 それが、箪笥や本棚やそういうもろもろのことなのか、気持ちのことなのか自分でも言いながらよくわからなかったが、それでもそう言う。
 姉は自分が長女なのに婿をとらず家から出ることをずっと気にしていた。家を出る前、姉は私に手紙をくれたが、その中にもそのことについての謝罪が述べられていたほどで、それはつまり、彼女がいかに今後自らがいなくなった後の家族を心配しているのかを物語っていた。そして、姉がまだ、あの呪文に囚われているということでもある。でも、その呪文はもう、家を出た彼女には無効だったし、無効にしてあげたかった。

「気にすることないよ。今だって帰ってきてくれるじゃん。私もそっちに顔出したりはするんだし、今までどおりでいいよ」
「でもさ」
「いいんだよ。お姉ちゃんはお姉ちゃんの人生でそうなって、私は私の人生でこうなってる。怖さはあるけど不満はないよ。お姉ちゃんは尚志君の妻だし、明子と真佐紀のお母さんでしょ。ひどいこと言うかもしれないけど、お姉ちゃんはもう、うちの人間ではないんだよ」

 姉はすと黙った。ラジオからアイドルグループの曲が流れ、明子が鼻歌を歌う。
 駅に着き、送迎車の停車場所で三人を下ろした。明子も、姉に抱かれた真佐紀も、まだ不満そうではあったが、飢え死にしているかもしれない父親を思うと、帰ることも致し方なしという顔をするので笑える。真佐紀の額からもう、一筋汗が滴っていた。

「じゃあ、次は私が年末年始にそっちにお邪魔しますんで」
「おせちつくるか。ねえ、お祖母ちゃん家で作ってたあの二色卵の作り方覚えてる? あれ、作りたいなあ」
「調べとくよ」
「うん。じゃあね」

 真佐紀がばいばいと手を振る。明子も笑顔を浮かべ、たこちゃん今度はちゃんとタコウィンナー作ってね、と生意気なこと言うのだった。

「たこちゃん」

 シフトレバーをドライブに入れると、姉が少し困ったような顔で笑って言う。

「私、たしかにもう樋口の姓にはなってるけど、たこちゃんのお姉ちゃんだよ。だから、いつでも、頼ってもいいんだからね」

 私はひらひらと手を振り、走り出す。停車場所からロータリーを通り、駅を抜けるところの信号で止まりふと後ろを向くと、まだ三人は私の車を見つめていた。気付くかわからなかったが、もう一度手を振り、青信号にアクセルを踏んだ。姉が、変化に気付いて驚嘆の声を上げていた景色はでも、私にはやはり物珍しくはなかった。慣れてしまって忘れてしまって、気付かないものがたくさんある。
 でも、不意に気付かされる。
 久しぶりに誰かと食べる餃子のおいしかったこと、夏の海は美しかったこと、姉が相変わらず綺麗だったこと、桃がおいしかったこと、子どもの体温が柔らかいこと、三日前に別れた年下の彼氏のことはそれなりに好きだったこと、気にかけてくれる人がいることが嬉しいこと、厳格な父を憎んだことがあること、姉がいたから父という重みに耐えられたこと、小さな頃からいつも姉に支えられていたこと、違う姓を名乗っていても姉はいつまでたっても姉であるということ、そのありがたいこと、涙がしょっぱいこと。
 帰りに、フィリピンパブがあった場所のケーキ屋でロールケーキでも買って、別れた彼氏のところに謝りに行こうと、私は信号を待った。