苦しみなんかどうでもいい

背中が痛い。夫が帰ってこない。疲れた。もうみんなうるさい。どうしたって報われない世界で、どうしてこんなに何かを求めたいと思っているのか、それすらも本当は嘘なのか自己暗示なのか、毎日迷子になって苦しんでいて、でも、そういうこともすぐ忘れる。だって背中が痛いし夫は帰ってこないし疲れているしみんなうるさいし。

世の中陰鬱でみんな晴れ晴れとしないで、晴れ晴れとしないということをまたみんなが言い募って、私はそれを見てもう何も言葉はなく口を閉ざすしもともと話したいことなんかなかったんだと思う。お前たちの苦しみはどうでもいい。私の苦しみだって誰も拾ってくれないんだから、お互い様だろって思って、ああでも、私の苦しみは私しかわからないんだし、お前たちの苦しみはお前たちだけのものなんだからどうにかしろよ、と思いながら、おっかけているSNSを開く回数がどんどん少なくなっていく。お前たちの苦しみに付き合う暇はない。私の苦しみにも付き合ってもらえる暇はない。

なんてったって言葉がもうないんだ。読んでほしい言葉も知ってほしい感情ももうないんだ。私にあるのは、こうしてパソコンを打っているときに夫がたまにちょっかいをかけてきたりしてすごいつまらなくて無視するときの感情と、たまにちょっかいかけてきたりしてそれがすごく面白くて笑うぐらいの感情ぐらいなもんで、人に語りたい気持ちとか人に共感してほしい気持ちとかどんどんなくなってきたんだよ。いつだか見ていた夢は、タイムラインに流れてくるうるさい夢の形にどんどんめくられていって、上書きされて、私の夢なんてどっかいっちゃった。うるさいな、と思うことはあっても、私もそうだ、なんて、夢にも思わない。夢だけに。よくわからない。夢って言葉、そもそも嫌いだ。

いろんな人が言ういろんな言葉。隣の仕事ができる男の言葉、向かいのぼそぼそしゃべる男の言葉、斜め前に座っているバイトのおばさんの言葉。そういうことばに飲み込まれて、いつも私の言葉はどっかに消える。何も考えないで、口だけでしゃべってるから、ほら今日も、何をしゃべったかなんて覚えていないんだ。何も覚えてないんだ。だってもう、ほら、どうでもいいから。眉毛を八の字にしてありがとうって言ったり、もっと声出してよって苦笑いしたり、いつか子どもができたらいいんですけどねって照れ笑いしたり、全部ウソ、私じゃないから。背中痛くてもう誰とも話したくないってことを誰かに聞いて欲しいのが私だから。でも、お前たちに聞いて欲しいわけじゃない。誰に聞いて欲しいかなんて私が一番聞きたい。

寝る前にエアコンをタイマーにすると、五時間後に切れる。切れるときにエアコン内の清掃をするらしくてその音がめちゃくちゃうるさい。私の頭上でがちょんがちょん音を出すエアコンに、私よりも夫が怒りだす。夫は怒りっぽいから私の新車にもすぐにケチをつけていた。前に乗っていた軽自動車にもケチをつけていた。だから私はありったけの感情をつかって無視をして、甘えた声を出して気を反らすしかないから、寝るころにはもう感情なんて枯れ果てていてエアコンについて怒る元気がもう残っていない。でも、エアコンはうるさいと思う。うるさいと思うけど、うるさいと思いながら5分ぐらい待つしかない。エアコンも、急に電池が切れた子ども静かになるから。

背中が痛い。三十路になって急に体調が悪くなった。身体の中の巡りが悪いな、とよく感じる。生理はもう三か月もきていない。妊娠ではない。ストレスと不健康。なんかそんな感じで、私は女であることももう放棄しているのかも。人間であることはとりあえず放棄はしていない。仕事なんてどうでもいいと思うのに、客から問い合わせがあると緊張してちゃんと答えなければと必死になって変な汗をかいてブラウスがすぐにべちゃべちゃになる。だから今日から消臭成分がすごくはいった柔軟剤を買ってきた。
この柔軟剤一か月は使おう、って思うことと、背中が痛すぎて身体の巡りが悪すぎて心臓も心なしか痛くて苦しくて死ぬんじゃないかって思いながら毎晩寝ることが、乖離しすぎていて信じられない。柔軟剤を買ったときはなんとも思わなかったのに苦しすぎて死ぬんじゃないかって思ってしまう自分は、たぶん寝るとまた背中の痛みが消えているから死ぬなんてこと微塵も思わないのだ。怖い。怖すぎる。首筋も痛くなってきた。怖すぎる。この場合は自分について怖い。死ぬのも、もちろん怖い。本気で死にたいなんて思ったことはない。

背中が痛い。意味のわからない言葉しか出てこない。夫はずっとケータイゲームをやっている。眠くて眠くて仕方ない。テーブルに置いた、ハリスツイードのベストを着たテディベアが落ちそうになっている。傾いていて悲しそうになっていて、その片足はもう落ちかけている。でも直さない。私はそんなに優しくない。いつだって優しくしてほしいから、どうしても自分は優しくない。愚か者だ。
みんな嫌い。私より頭のいい人も、私よりバカな人も、みんな嫌い。でも、私ばっかりの世の中なんて反吐がでるぐらい嫌い。こんな私の苦しみなんてどうでもいい。