あの夜(小説)

「結婚する、ってんなら、俺は男一人の長男だし、向こうは女二人の長女なわけで、どっちかが家に入るとか、いうことになるわけで、そしたらやっぱりうまくいかなくて、それでダメだったとか言われたくないし、たぶん」

角松はそういって両手の人差し指で×印を作って見せた。そうすると隣に座っていて恋愛経験ほぼゼロ、おとぼけ安藤くんが何、どういうこと、というので私は彼の膝をぺちっと叩いて、バカだね、と言う。それでも安藤くんはのんびり、え、なんで俺叩かれた、と言うので、角松が苦笑する。少し暗めの照明に照らされた、シェフが72時間煮込んだというビーフシチューと器代わりの丸いフランスパンがぐたりとお皿に倒れている。フォークで少しちぎって食べた。冷めたけど、シェフが煮込んでくれたおかげで牛肉がほろほろ口の中で溶けていく。周りのテーブルにはカップルだとか女子三人組とか、うるさそうに見えるグループばかりだったのに、存外静かで、むしろ私たちのテーブルが一番うるさかったのかもしれない。

「ねえ、でも、うまくいかないもんなのかな。それって、やっぱり」
「だって、結婚って、家同士の問題なわけじゃないすか。当人同士が結婚したくても、そういうことの所為でうまくいかなくなるとか、そういうことが絶対あると思うんすよ。ていうか、それでとやかく言われたくないなっていうのがあって」
「別れるん?」

安藤くんはぼやっとしたままローストビーフを頬張って言う。西洋わさびが辛かったらしく、少し涙目になって鼻の頭を赤く染めていた。決定的な言葉を避けていたのに、さすが天然の安藤くんだけある。私たちの中で一番年長の癖に、一番ぼやっとしていて、こうやってたまに確信に臆せず触れてくるのだ。

「まあ、すぐどうのってわけじゃないですけどね。相手も年上だし、将来が見込めないなら別れるしかないのかなっていうか、そうなりますよね」
「あー、それってほんとにダメなの? なんか聞いてていたたまれないし、なんか、なんていうか。そりゃ結婚って家同士の話かもしんないけど、やっぱ当人同士の想いじゃないの、私、夢見すぎ? だって親だって死んじゃうんだよ。お互いが一番、お互いの傍にいられるんだよ」

角松は少しだけ悲しそうに笑った。スパークリングワイン一杯と赤ワイン一杯で、彼の顔は真っ赤になっていた。私もサングリアを白と赤、一杯ずつ飲んだだけでべろべろだったが、頭ははっきりしていたし、自分が言っていることが子どもっぽくて角松の選択肢が正しいだろうこともわかっていて、それでも、言わずにはおれなかった。好きなのに別れるっていう、その、意味がわからなかった。子どもなのだろう。

「でも、そういうの乗り越えても、そういうのうっちゃっても、結婚したいって思わなかったんなら、そういうことなんじゃないの。外野がどうこう言うことじゃないよ」

クランベリージュースしか飲んでいない安藤くんの声は鋭く静かに、テーブルの上を広がっていった。私も角松も妙に納得がいって、薄く笑った。そうだね。声に出さないで、私たちはわずかに笑った。最初に頼んだフライドポテトが運ばれてきて、今更食べられない、と、ちょっと文句を言って、また笑う。

「江利川さんはなんかないんすか、恋愛的なの」

会計を済ませ、安藤くんがお手洗いから帰ってくるのを店の外で待っていると、少しだけ居心地が悪そうに角松が聞いてきた。こういう、なんとなく気まずそうな顔をしているのを見ると、後輩ではあるが同い年であることを思い出す。モヘアの聞いた黒いVネックニットを着こなす彼は、傍から見ればイケメンなのだろうし、モテるのだろう。そんな彼が選んだ彼女はどんな人なのだろう。可愛いだろうか。案外そうでもないのか。別れるなんて、彼女も思っているのだろうか。私が考えあぐねている間、私たちのことを幾人もの酔っ払いのグループが避けて歩いて行く。みな、土曜の夜を楽しんでいるようで、結構なことだ。

「ない、ね。仕事、ずっとバタバタしてたし」
「そうすよね。落ち着きました?」
「うん、今月入ってやっと。今は暇なぐらいだな」
「ふ、言いますね」

仕事が忙しいなんて言い訳だ。忙しくたって腹が減ったって人のことを好きになるときは、好きになる。

「おまたせ。さて、いこう」
「待たせたくせに先導きるんかい」

すっきりした顔で安藤くんが出てくる。今日のドライバーは安藤くんだ。私も角松もいそいそと彼の車に乗り込んだ。
車中ではずっと安藤くんをいじり倒して、私と角松でげらげら笑っていた。私の家の方が遠いため、角松を家でおろし安藤くんは私の家へと向かってくれる。

「ねえ」
「うん?」
「言わなくてよかった?」
「何が」
「恋人のこと」
「あ、ああ。うん。まあ、もう少し」
「もう少し?」
「二人の時間を味わってからにしようかなと」
「ふ、ふふふ、バカねえ」

後部座席から安藤くんの頬を触ると少しだけひげが伸びていた。
付き合い始めて二週間、安藤くんは相変わらず天然ボケでのんびりしていて、ちょっと面白くて、キュートだ。たまに言う、冷たい一言がドキッとさせる。そういうところも、好きだなと思う。
数年後、お互いにもう少しだけ歳をとったときに、今より大人な考え方ができるようになっているんだろうか。少し悲しそうに笑った角松の気持ちが、わかるようになっているんだろうか。好きだとか、惚れた腫れたとか、そんなこと以外に、彼のことを考えられるようになっているだろうか。こんな風に、バカみたいに相手のことを好きだとかかわいいだとか思うことよりも、もっと、常識的な答えを見つけるようになるのだろうか。あんな夜があったね、なんて、話したりするようになるんだろうか。

「ほい、到着です」
「ありがとう」

家の近くの公園で車を降りる。運転手席の窓が相手、相変わらずぼやっとした安藤くんの顔が眠たげにあくびをした。すきを見計らって頬にキスをすると、彼は驚いたのだろうが相変わらず表情を変えずに、少しだけ早く瞬きをした。

「江利川さんは相変わらずずるい」
「んなことないよ。安藤くんが隙ありすぎだから。また、明日ね」
「うん、また明日」

彼が行くのを見送ろうとしても安藤くんは車を出そうとしない。私の姿が見えなくなるまで、彼はいつも見送ってくれるのだった。離れても、まだ、車のエンジン音が聞こえる。何度か振り返ると、彼の車はまだそこに止まったままだった。手を振る。暗闇で見えないが、彼も振り返してくれている気がした。

いつ、どうこうならないとしたって、どうか、角松とその彼女が少しでも自分たちのためだけに、同じ時間を過ごせたらよいのにと思う。まるで、神か仏になったような気分で、私は少しだけ足をふらつかせながら家へ向かった。