去りゆく日々に(小説)

女の柔らかく白いふくふくとした手が自分の頬を打ち付ける音を聞きながら酒井田がまず気にしたのは、女の涙でもなく女にたたかれる己の世間体でもなく、女がこの飲食代を払うだろうか、ということだった。パチンとし響いた音も、まるで三文芝居の一場面のようだったが酒井田は何も感じない。ただ、己の懐は寒いので、どうにもここの飲食代ばかりが気になるのであった。酒井田の逡巡を読み取ってか、女はますます涙をその瞳に盛り上がらせて目の周りが赤く爛れるのも気にしないで一生懸命にこすっている。酒井田は外の雑踏を眺めて、女の気が落ち着くことを待つしかできない己の役割をよくわかっていた。それ以上のことをするつもりもなかった。
「どうして、ひどい」
その問いに明確な答えを知っていたら、今こんな風になっていないだろうに、と、酒井田は思う。が、わからないのでこうなっているのだ、という至極単純明快な答えに戻ってくる。答えないこともわかっていように、女はどうしてもそう問わずにはいられなかったようで、問うてまた、涙を盛り上がらせた。
「さようなら」
酒井田が一言も発することなく、女は机にテーブルに置かれた伝票を握りしめるとかかとを高らかに響かせて店を出ていく。ぶたれたことへの謝罪がなかったことなど気にならないほどほっとした心持をかみしめ、懐から煙草の箱を取り出すが中身が入っていなかった。どうにか女の三文芝居を完成させるためにとっていた体勢をゆっくり崩し、腕を伸ばした。自然とあくびも出る。この喫茶店で何人の女にふられてきたことか。
「君、ほんとに女泣かせな男だね」
「どうしたもんですかね。煙草、一本もらえます?」
カウンターの奥から主人が立派な口髭を動かしてぼそぼそと笑った。

そのまま夕刻までだらだらと新聞を読んだり色あせた漫画を読んだりしていると、雑踏の中を時折見知った顔が歩いていて手を上げていく。皆似たようなセーターとジーンズ姿で同じ方向に向かうようだった。彼らの行先も、そこでの出来事も興味はないのに、することもなく下宿に帰ることも手持無沙汰で、何をしようかと考えることもわずらわしく、学友の間島とその数人も酒井田を茶化すような動きをして同じ方向へ向かうのを見届けてから、彼も立ち上がった。会計をもう気にする必要はない。

地上より潜った場所にある入口からは、もうすでに内部の重低音が響いておりわずかな揺れになっていた。何も知らなければこの奥に地獄があるのだと言われても信じるかもしれない、と思い、自分はやはり信じないかもしれない、と思いなおして冷たい金属の取っ手に手を伸ばして重厚な扉を開いた。極彩色のライトと爆音の音楽と噎せ返るような人の臭いが一気に身体を包む。窮屈な空間で、皆、そうしていないとすぐに命を落とすかのようにか身体を寄せ合いくねらせ大声で語らいあっている。酒井田はなり喚く音楽のせいで自分ですら聞こえぬため息をついて、人の波をくぐり、カウンターへたどり着いた。回遊魚のように必死な男女はフロアの真ん中に躍り出ていくことが唯一の価値のようにしており、店の奥にあるずらりと並ぶ酒瓶の前は浮かび上がる孤島のように静かなものだった。間島もそこにおり、隣に女を置いている。
「おお、来たか優男」
「ビール」
酒井田が酒を注文し、カウンターに沿った席に座る間島の隣ではなく自然と女の横に座った。女が振り向く。ひどく年増だなと思うが、身体にしみついた性分で考えるより先に笑みを向ける。女ははにかむと、困ったようにでも決して嫌悪ではなく身体のむきを間島に戻した。
背中の真ん中あたりまで伸びた黒髪はつややかで、目まぐるしく色を変えるライトを浴びてそれもまた目まぐるしく色を変えた。後姿はずいぶん若く見える。驚くほど短いスカートから、惜しみなく素肌を出しているからかもしれない。女越しに間島が不敵な笑みを浮かべた。ビールが手元に届く。懐からなけなしの金を渡し、今日はもう飲まない、と無意味な約束事をする。
「困るぜ、俺が先に声をかけたのに」
「僕は声をかけてないぜ」
「おっしゃる通りだ。君、またふられたんだろう」
「ふられたというか、向こうはふったと思っているんだろうが、僕からしてみればそういうのもちょっと違うというか」
「それでいて女を切らさないんだから、君は魔性の男とでも言うべきだな」
「うれしくない話だね」
年増の女が顔だけ振り向き、酒井田を見つめる。その目はもう、間島ではなく酒井田を欲していることは明らかだったが、酒井田はわざとらしく目を反らして外国銘柄のビールを一口あおった。よく冷えていて、こめかみのあたりが収縮する。
「サワコは元気か」
間島の口にした女の名前に、年増女が反応し、酒井田の顔を見た。ほんのり暗いから見られたものであって、この女は自分が思っている以上に年増じゃないのか、と、酒井田は考えた。間島の女の趣味は少しずれているが、それはそれで見ていて面白い。抱けなくはないが、と、ビールをまた口にした。
「サワコって誰?」
「君の名前は」
「あたし、ケイコ」
肩口にたまった長い髪の毛が、年増女の表情を半分覆う。間島はあきれたように口をすぼめ肩をすくませ、席を立って行った。人波にすぐに紛れていなくなる。
間島が重石になっていたように、ケイコの身体がぐいと酒井田の方へ傾いた。女が色々を隠すためにつけている香水がかおる。蒸れた人の匂いの中で、激しくサワコの存在を感じた。妙に濃い眉毛も、上唇のそばにとれそうについている大きなほくろも、似合わない赤い口紅も、今夜の酒井田のために用意された女だと思えた。カウンターに置かれた女の手は、大げさなほどの化粧とかけ離れた無骨な手をしていた。指には何の装飾もなく、爪は短く切りそろえられている。近くで見ると、寄る年波を隠すことができない年増だった。
「お酒、強いの?」
「強くはないが、なかったら俺は弱いだろうな」
「なあに、それ」
年増の癖に甘ったれた話し方をする。魅惑的な女を演出しているつもりなのか、ケイコは意味ありげな視線をもたげたまま、身に着けていた小さな黒いハンドバッグから煙草をくわえる。酒井田がごく自然にその煙草を取り、自分の口にくわえた。ケイコが少し驚いたようにして、でも嬉しそうに笑みを浮かべてライターで火をつける。一服吸って、その煙草をケイコにくわえさせると、彼女はされるがままに口を開き、わずかに酒井田の指を舐めたのだった。

ケイコの部屋を出たのは次の日の昼頃で、飲みすぎたせいかケイコが思った以上に激しく求めてきたせいか頭から首筋までがぎしぎしと痛んだ。腰も痛い。酒井田は自らを若さだけが取り柄と考えていたが、あの年増女の前では無力だったようだ。女は年を増すと性欲も増すと聞いたとおりだった。酒井田の上で蛸のようにくねり獅子のように吠え始めたのにはうんざりだった。昼になると部屋が明るくなり、崩れた化粧を隠そうとするケイコにはまだ愛着がわきそうでもあったが、唇の上のほくろが口を合わせたときにひどく邪魔だったので、もうここには来ないだろうと思ったのだった。自分が渡り歩いた女の話をすることを酒井田は好まないが、間島には伝えておこう、と、首をぐるりと回した。
深夜に最もにぎわう歓楽街は、ネオンのきれた看板だけが立ち並んでいて、ただただ猥雑だった。いかにも卑猥な言葉を並べたてる看板も、下品な駄洒落の店名も、着飾った男女の写真の看板も、夜中であれば生き生きとして永遠の出来事のように見えるのに、昼間の光にあたってしまうとすべてが刹那なものであるという真実をまざまざと見せつけられるようである。たまに店先に転がる酔っ払いの寝言を聞き流しながら、できるだけ足元を見て酒井田は肌寒い通りを進んだ。どうしても、もの悲しいのは苦手で、ほんの少し前まで年増女の醜態にうんざりしていたのに、もうひと肌が恋しく思う。
女からは女たらしの最低男と罵られ、仲間内からは色男優男と笑われる。それでも、酒井田は女を渡り歩くことをやめることはなかった。別に始めたわけでもない。そばにいる女に接していたらそうなったことであって、別に誰を特定の女と決めたとか、付き合うとかふったとかを酒井田がはっきり女に言ったことはなかったのだが、女たちは勝手に盛り上がり、何度も酒井田に抱かれたいと願い、好きだといい愛していると言ってほしいとねだり、最後は皆、どうして、最低、もう嫌い、と、涙を浮かべて去っていくのだった。惚れた腫れたもそこにまつわる面倒も、酒井田の得意とするものではなかった。女たちの様々に配慮することもあったがそれも結局長続きせず、すべて同じ結末を迎える。付き合いの長い間島などはその様子を笑ってみているが、真面目な男などは酒井田の自堕落さに憤慨し、また、女たちをはべらせていることへの嫉妬する者も多く、それもまた酒井田を煩わせるのだった。
店先の酔っ払いがむくりと起き上がり、無精ひげを生やした顔で酒井田にニコリと笑いかけた。酒井田は首を上下に動かして、会釈を返す。首がまだ、ぎしぎしと痛んでいた。

***

そのうち長編にできたらいいですが…
♪ song by サザンオールスターズ/青春番外地