天花粉

恋人と少し遠出をして、海を見てきた。
朝から入ると有料の駐車場は、夕方の時間をこえるといつの間にか無料になっており、勝手に入っても何も誰も言わない。夕釣りをしている人が堤防の上でまばらに竿をたらしている。
海は南東側に広がり、西側には山があるため、サンセットは見ることができないのだけれども、それでもしっかりとゆっくりと空は暮れなずんでゆく。橙と薄い水色を上手くにじませた空は次第に暗くなり、日中は溶けるほど暑かった空気も穏やかな夕涼みに変わる。恋人と二人並んで、遠くに浮かぶ島々や小指の先ほどのタンカーについて議論した。欄干にもたれ、気付けばはっきりと浮かぶ月を見つめる。隣に数か月前までは全くの他人であった男が、今は自分の隣で肩を抱き、鼻先が擦れるほど近くにいることの不思議さを想う。

「えっちゃん、どうした」
「ん?」
「泣きそう?」
「んなことないよ」

恋人は私の頬を優しくつねる。私は目を瞑って、眉根にしわを寄せてみせると、恋人はくすくす笑って手を放した。恋人はいつも体温が高く、触れられると安心するし、離れていくと必要以上に寂しくなる。汗かいたね、今日は、と恋人はどこかぼんやりして言うので、眠いの、と尋ねると、気持ちがいいからね、と目を閉じて答えた。その頬にすかさずキスをすると、バカだね、と言って恋人は笑った。
堤防をとぼとぼ歩いていると、夕釣りをする親子がきゃっきゃと喜んでいた。見るともなしに二人して見ていると、海に釣り針をたらして数秒で魚が釣れる。また、餌を付け直して垂らすとまた釣れる。小学生ぐらいの娘と、保育園ぐらいの息子が、父親が釣り上げる魚を一生懸命捕まえようとする。魚はびちびちと堤防の上を跳ねまわり、そうして子供たちは喜ぶのだった。

「何が釣れるんですか」

思わず声をかける。恋人は驚いたように私を見た。

「サバですよ。本当はアジがいいんですけどね、サバばっかりとれます」
「すぐにとれるんですね」
「針の位置さえ間違ってなければ」

父親は面倒臭そうにすることもなく、丁寧に答えてくれた。恋人は私の手を握って、サバいいねえ、と言うのだった。夕飯には魚介類の出汁を使ったラーメンを食べた。

恋人と別れ、家に帰ってきて一人風呂に入った。
汗をかきすぎたからか、左足の膝裏にあせものようなものができてしまっている。かゆくてかきすぎてしまい、爛れのようになってしまった。軟膏をぬるものの、どうもべたべたとしてそれがまた痒さを助長している気がする。普段はあまり話さない母になんとはなしにいいものはないかと相談すると、天花粉がいいんじゃないの、と言う。
天花粉、という言葉がまったく聞き馴染みがなく、母が物入れから出してきたのはベビーパウダーだった。なんで天花粉っていうの、と聞くと、さあ知らない、とそっけない返事であるので、容器だけ受け取って自室に引っ込んだ。

膝の裏に天花粉をはたく。化粧に使うフェイスパウダーと違い、少しのせるだけで霧のように視界が白くなる。面白くて、何度もパフで膝裏をぽんぽんと触った。懐かしい香りがふわりと漂う。少し気になったので、肘の内側にもぽんぽんと触れてみた。うっすら白くなった肌は滑らかな触り心地をしている。心地よい。
ふと、海で欄干にもたれて二人くっついたときのことを思い出す。汗をかきっぱなしだったから、二人ともがべたついた肌をしていたのだが、不快ではなかった。むしろ、べたついていたのかすら覚えていない。恋人の体温は心地よかった。それだけのことだけを覚えている。恋人も、そう言ってくれるような気がしていた。

布団に入りながら、天花粉をはたいた肌に触れる。恋人は、天花粉をはたいた肌も、汗でべたついた肌も、好きだと言ってくれるような気がしていた。そうして、改めて、恋人が恋人であることの不思議を思うのだった。