いつか忘れる話(小説)

夫がトイレに行くというので、大型ショッピングモールのレストラン街を時間つぶしになんとなく歩き始めた。抱っこひもで眠る娘の頭ががくんと後ろにのけぞっている。額の寝汗を指でぬぐった。娘がむずがるように言葉にならない声を出す。上下に動かすと首がゆさっゆさっと揺れるのが心地よいのか、また、娘は眠りの世界に落ちて行った。
弾むように歩く。行き交う人を見るともなしに見て、レストランの食品サンプルを見て、また、人を見る。真っ白な大理石調の床が奥へ奥へとつながっていて、人がその上を延々と歩いていく。
「あ」
思わず、本当に、意図せず、声が漏れた。まるでモーセの十戒のように人の波が私の前を避けているように、すっと引いたその一瞬間、私の視線の先に一人の女性が立っていた。明るい茶色の髪の毛をした彼女も、私を見て、同じように、思わずと言った感じで立っている。
沙代子。大学の同級生だった。大学といっても、ここから新幹線と在来線を乗り継いで四時間ほどの場所にある、辺鄙な土地の大学だ。それに沙代子の地元はここではなかったはず。

「よっこ」

彼女は大学時代のあだ名で私を呼ぶ。

「やっぱり沙代子じゃん。なんで、ここに?」
「仕事でさ、転勤多くてね」

彼女は勤め先として、私もたまに買い物をするファストファッションのブランド名を言った。このショッピングモールにも入っている。
大学時代からおしゃれで美人だった沙代子は、やはり相変わらずおしゃれで美人だった。そして、どこか疲労がたまったような顔も相変わらず。私の抱っこひもを覗き込み、娘の寝顔を見て彼女は微笑む。

「かわいい。結婚、したんだ?」
「うん、二年前」
「おめでとう」

急に、大学時代、沙代子が同じ学科のななちゃんと同じ先輩を好きになって、ななちゃんに敗れてから軽音楽部はやめた、というのを聞いたのを思い出した。その噂を聞いて以後、ななちゃんとも話しているのを見たことはない。ボーカルをななちゃんがやるか沙代子がやるかでもめた、という話も聞いたことがある。ななちゃんはいつも誰かと一緒にいて、いつも笑っていた。そういう子だった。
沙代子は結婚は、と、聞こうと思ったがなんとなく口をつぐんだ。大学時代とは絶対に変化があるのもわかっているが、そんなことを軽々しく尋ねられるような関係性は、私たちの間には、大学時代から存在しない。

「じゃあ」
「じゃあ、またね」

大した世間話もしないで、沙代子は疲れたような笑顔を見せて去って行った。見計らっていたように夫が戻ってきて、私から抱っこひもを受け取って娘を抱っこする。
それから何度かそのショッピングモールには行ったが、沙代子のいるであろう店には足が向かなかった。
一年経った頃に、夫がどうしても行きたいというので意を決してその店に立ち寄ったら、もう、沙代子の姿は見えなくて、なんとなくほっとしたような気になって、一人ばつが悪くなった。