母の日

明日の朝、早いんだよね、と昨夜母がつぶやいていた。なんで、と父と私が訪ねると、町内会で決められた一斉清掃の日だという。そんなものがあることを、私はついこのあいだまで知らなかったし、一回も手伝ったこともない。家の周りの側溝などを、町内会で早朝から掃除をするのだそうだ。父と私はそんなことしなくたっていい、町内会費は払っているじゃあないかと言うが、母は素知らぬ顔をしていた。数年前、隣家の老いた未亡人が、一斉清掃のさなかに脳出血を起こして亡くなったこともあったので、父はそれを恐れているのだった。というものの、父も手伝うことはない。父と私は似たものなので、口でああだこうだいうだけで、実際に何かをするのは母である。

翌朝昼前にどうにか起きて、身支度を整えていると、母がどんより疲れた顔でリビングにやってきた。表情とは反対に身なりはきれいに整えられていたのでどうしたのかと聞くと、一斉清掃でたくさん汗をかいてシャワーを浴びたのだが疲れた、と言っていた。それを聞いて、私は一斉清掃であることを思い出し、そういうところが母には到底及ばないのだよなあと思う。

物心ついて、思春期を迎え、八つ当たりをしたことはあっても母に相談をしたことはほとんどないと思う。よく母親を友達みたいとか、親友とかたとえる人もいるし、いつまでも若々しい母親やアクティブな母親もたくさんいるが、私の母はそういう人ではなかった。別に、相談をすれば相応に乗ってくれたのだろうが、あっけらかんとしているため、相談のしがいがない。結局は時がいつか答えを運んでくれるし、解決をしてくれるのだという。悟りの人だと思う。達観しているわけでもなく、包容力があふれ出すような人でもないが、それでも、母は母なのである。父も私も似たものなので、母がいなくなってしまったら途端に路頭に迷う。
母のことを、同じ女性としては、あまり見ることはできないが、自分もいずれ誰かから母と呼ばれるかもしれない身の者としては、大変に尊敬するし、ずっと及ばない人なのだ。

母の日にはいつも花を贈ると決めている。姉は花なんかもらってもうれしくないというが、母はお花が好きなんだよと嬉々として飾ってくれる。数年前までは連続してアジサイを贈ったら、うまく植え替えをして、庭には3種類のアジサイが大きく育ち、梅雨を彩ってくれる。今年は小ぶりの胡蝶蘭にした。インテリア用のスツールの上に乗せて、やはり母は嬉々としていた。来年も咲かせるように、丁寧に水やりをしないと、と意気込んでいる。
おしゃれでも美人でもないし、スマートでもキャリアウーマンでもないが、母は母。当たり前のことについて、感慨深くなる夜だった。