どうでもよくない人たちへ(小説)

「まごちゃん、肌すべすべなんだね」
一瞬だけ触れた私の肌について、伊多波(いたば)さんはそう評した。車に乗る瞬間、二人のタイミングが合い、座席と座席の真ん中に偏った腕が触れた、その短い間で彼はそう言ったのだから、侮れない。私はふざけて、
「じゃあ触ってみますか」
と言ったら、伊多波さんは素直に腕を伸ばしてきて私の二の腕を柔らかくもむ。以前、平熱が高いのだと言っていた彼の手のひらは温かく、眠いときの幼児のようだった。触れられている間、私は熱いだの子どもだなどと笑っていた。伊多波さんは思う存分触れたのか、ぱっと手を放す。
「うん、やっぱりすべすべ。若いっていいよね」
「おじさん」
「うっさい、まだ39歳です」
普通にしていても残っている笑いじわが、より深くなる。彼が笑うと、タバコとコーヒーの匂いが同時にした。タバコの匂いがする人も、頻繁にコーヒーを飲んで呼気が香ばしい人も、あまり好きではなかったけれど、気にはならなかった。名前も聞いたこともない古い車の、ごうごうと音だけはいいエアコンに前髪を揺らして、私はぐたりと背もたれに倒れる。日中、日に当たりすぎて、コンタクトを入れた目はやけていたし、後頭部からじんじんと頭痛が伝わっていた。私よりも十いくつも年上の伊多波さんはもっと疲れていただろうに(目は私以上に充血していた)、ここからまだ1時間半は運転しなければならない。起きていなくては、と思いつつ、さっき伊多波さんが買っていたペットボトルのストレートティをカップホルダーから取り上げて一口含んだ。眠すぎて味がほとんどわからない。ホルダーに戻そうとすると、彼の腕が伸びてきて、一口含む。法定速度を少し無視して走る車の律動は心地よく、私はぐるりと上を向いた。満月がスポットライトのように煌々と輝いている。なんて明るいのだろう。
「窓大きいですね、この車」
「そうかもね。月、綺麗だな」
「うん。満月だから、暗い道でも怖くないね」
「まごちゃん、眠いなら寝ていいよ」
「いえ、大丈夫」
「大丈夫なもんか、眠そうだよ」
「眠くないよ」
「いいよ、気、使うなって。気を遣われると、俺悲しいよ」
39歳のくせに、と、言い返さなかったのは眠くて頭が回らないのと、ハンドルを握っていない左手で、ふと私の頭を抱き寄せ、彼の肩に載せられたからだ。タバコの匂いと一緒に、Tシャツからは洗剤の匂いがする。うちの洗剤と同じやつだ。
「寝て」
「手、出しちゃだめですよ」
「おっぱい揉んじゃうかも」
「最低。ねえ、でも、私のことだけます?」
伊多波さんはひどく咳き込んで、やめろよ事故っちゃうよ、と言う。
「そりゃ、うん、まごちゃんのこと、かわいいなって思うから、手出せちゃうよ、俺は」
「佐々木さんの方が綺麗じゃないですか、それでも?」
「佐々木ちゃんは、まあ綺麗だって言われてるけど、でも、俺はまごちゃんの方がかわいいと思うけどね」
「ふうん。手、出してもいいよ。もうずっと彼氏いないし」
「じゃ、寝てるときにね」
素直に目を閉じる。顔の力がジワリと抜けていく。でも、頭は冴えていて今日一日のことを思い出す。有給を二人で合わせてとって、車を走らせて二時間の場所にある渓谷に避暑に来た。それでも日中の日差しは強くて日陰以外はまるでオーブンに入れられたみたいに暑かった。でも、楽しかったのだ。馬鹿みたいにはしゃいで喜んだ。目が疲れて眠気がすぐそこまで来ているのに、やっぱり頭は冴えている。たまに伊多波さんがする咳払いだとか、私が持って来た洋楽CDの曲が流れるのだとか、ブレーキを踏むたびに私の頭をやわりと押さえてくれる手のひらだとかが、妙にはっきりと私が現実にいることを伝えてくる。でも、どうして、こんなにも、気持ちが良いのだろう。何度か頭の位置を変え、結局伊多波さんの腕に抱きつくような形になり、彼の左手はずっと私の肩に置かれていた。

「おー、まごちゃん元気かー、眉間にしわ寄ってるよ?」
伊多波さんがこの課に入ってくる前から、廊下に響く彼の声で彼がすぐそこの課にいることは認識済みだったが、できるだけ知らない振りをして、パソコンに気を取られていた風を装っていたので、自然と力んで眉間にしわが寄っていたのだろう。
伊多波さんはいつもどおり私にそう声をかけながら飄々とやってきて、他の同僚とげらげら笑っている。でも、抜け目なく次のプロジェクトの進め方を、自分の色に染めようとしているのもなんとなくわかる。にこにこ笑って、笑いしわを深くして、それでもやっぱり目は鋭い光を携えていた。そういうところが、少し苦手だ。
「伊多波さんて嵐みたいな人だよね。ぐわーっときて、ぐわーっと去っていく感じ。そんでけっこう荒らしていくよね。よくも悪くも」
向かいに座る佐々木さんが、彼が去って行ったあとでぼそりと呟く。確かにそのとおりだ、と思いながら頷くと、私の左に座る澤谷くんが、
「でも真砂(まさご)さん、仲良いですよね、伊多波さんと。結構一緒にご飯行ってません?」
「うーん、そうだね。誘ってくれるし驕ってくれるからね、おじさんは。まあ、伊多波さんは基本的に人たらしだから」
「うわ、ひどいっすね。俺も歳とったらそういうこと言われるようになるのかな……」
「澤谷くんは大丈夫でしょう、驕らなさそうだし人たらしって感じしないよ」
「えー」
「確かに伊多波さんは人たらしだね。人懐っこいからさ。でも、目が笑ってないからね。そういうところに闇を感じるよね」
佐々木さんは伊多波さんに対してマイナスのイメージしかないことがよくわかった。私もおおむね賛成している。特に仕事で酷いことをされたとかそんなことはないのだけれど、佐々木さんはああいう、飄々としたなんでも「意に介さないよ」という笑顔を垂れ流す男が好きじゃないようだった。そういうのを、職場でひるむことなく言える佐々木さんを、私はとても好きだ。
「伊多波さんの奥さんでどういう人なんでしょうね。もともと職場内結婚なんすよね?佐々木さん知ってますか」
「ううん、私が入る前の話だもん。でも、夫婦間も冷え切ってそうじゃない?」
澤谷くんが今度は私に狙いを定めてくる。
「真砂さんはどう思います?仲良いんだから話とか聞いてるんじゃないんすか?」
「そんなの知らないよ、でも、以外に伊多波さんみたいな飄々とした人の奥さんだったら、やっぱり飄々としてるか、もうそういうのを達観してるか、か……神のみぞ知るだよ」
「知ったところ私たちの仕事が減るわけでもないぞ。ほら澤谷、仕事しろ」
「佐々木さんだって面白そうにしてたくせに」
ひとしきり笑って、私たちはパソコンの液晶に戻った。

「今日本当に、まごちゃんの眉間のしわすごかったぞー」
伊多波さんは何気なく私の額に触れてきた。払うこともせず、私はぼんやりしたまま彼の温かな指を額にのせている。彼の指はそのまま私の髪の毛を撫で、肩におりた。佐々木さんの苦言におおむね賛成していても、どうしてか二人でいるとそんな片鱗を微塵も感じないのだ。
お茶をしよう、と、メールがきていたのは夕方で、仕事がひと段落ついたのが午後八時で、断りのメールを送ろうとしたら電話がかかってきて、少しだけなら、と彼が待っていた車に乗り込むと、伊多波さんはそのまま車を30分走らせて、気付けば誰もいない夜の浜辺を、私たちは道路脇から見下ろしていた。相変わらずうるさいエンジンの音で、波の音は聞こえない。
「そう?いつもああだよ。頭悪いからね」
「またそういうこと言う。頭いいの、本当は知ってるよ。あ、ねえ、花火すき?今度、花火大会あるんだけどさ、行かない?」
「そういうのはちゃんとお子さん連れて行ってあげなきゃ」
「いいのいいの、子どもは奥さんと一緒に行くから」
「そこにお父さん不在でいいわけ」
「いいんじゃない、そんな難しいこと考えない、考えるのはまごちゃんの悪いくせですよ」
「考えることは悪いことじゃないよ」
ふとむきになってしまう。ずっとつながれた私の右手と彼の左手か、彼には奥さんと子どもがいるということをふと思い出したからか、そういうのがどうでもよくなっていることか、もうずっと恋人がいない自分の隙に付け入るようにしてくる彼にか、何を考えているのかわからないところにか、何を考えているのかわからないけれど、それでもどうでもいいと思ってしまう自分にか、何にむきになっているのか、さっぱりわからない。けれど、声が荒っぽくなる。
「うん、悪いことじゃないね。ごめん。花火、考えておいて」
「そうだねえ。人ごみ、嫌いだから」
「じゃあ、車から見えるスポットからなら、どう?」
「まあ、それなら考えなくもない」
ふと手が離れて、私の頬に触れる。その手はやはり熱っぽくて、私の思考も飛んでいく気がした。なんとなく、そのまま、目を瞑る。ダメだ、と、思うよりも瞼が落ちていき、私の視界を何かが覆って、唇が重なる。伊多波さんとキスをした。そんなことはわかっていた。胸骨が折れるんじゃないかと心配になるほど心臓がどきどきして、なぜか澤谷くんや佐々木さんの顔が思い浮かび、見たこともない伊多波さんの奥さんや子どもの姿かたちがぼんやり浮かんで、消えて、目を開けたら伊多波さんは平然と運転席に戻っていた。今の一瞬は夢なのかと思うほど、なんともなく、彼はそこにいて、エアコンはうるさいぐらいに聞いていて、私はばすん、と背もたれに身を預けた。何も、感じなかった。

伊多波さんが見つけたという車から花火を見ることができるスポットは、高台にある公園の駐車場だったのだけど、結局うまい具合に花火が見えなくて、上がるたびに聞こえる鏑矢のような音と、どん、という和太鼓のような音と、しゃらしゃらと散っていく音だけが、聞こえた。音だけでも綺麗だと言ったら、伊多波さんは情けないように笑って、ありがとう、となぜか感謝の言葉を口にした。本当にたまに、スターマインのような大きな花火があがるときだけ、木々の間から花火の頭が見える。あとは色とりどりに染まる家々の屋根ばかり。それでも、とても夏の匂いがした。幾度かある花火大会が過ぎ去ると、あっというまに夏が終わってしまうような気がする。このまま、夏が終わっても、私と伊多波さんのこういう関係は、続くのだろうか。まだ、かろうじて男と女の関係になっていないけれど、見ようによってはもうなっているのかもしれないし、職場の人も実は怪しんでいて、こちらに問うてこないだけかもしれない。姿かたちがわからない奥さんだって、本当は伊多波さんと私のことに気付いているかもしれないし、どんなことだってありえる。
「まごちゃん、今いくつだっけ」
「今年で26になりました」
「そっか、若いな」
「まあ、40歳のおじさんに比べたらね」
「うるさいよ。ほんと。今日、まだ、時間ある?」
「あと、二時間ぐらい」
「そう……まごちゃん、俺さ、まごちゃんのこと抱きたいって言ったらどう?」
「どうって、その聞き方は……ずるいですよね」
「俺はいいんだ、まごちゃん次第だ」
「ほんとうに、ずるい」
そういうときに、真剣な顔をするのもずるい。笑いじわが残っている目元が真剣なのもずるい。どうしていいのかわからない。彼は私の頭を優しく抱き寄せてくる。体ごと彼の中に納まる。温かい。彼の全身が温かい。洗剤の匂いがする。

家につくと日付が変わる少し前の時間で、私は急いで風呂に入る。家族はもう寝ていたけれど、顔を見たら罪悪感で胸が張り裂けそうになるから、まるでかまいたちのように私は俊敏に服を脱いで風呂場へ逃げる。シャワーを浴びて、ねばついた汗を流した。腕も脇腹も腿も脛も首筋も、どこもかしこも、シャワーの水が辺りに飛び散るのも構わず、じゃばじゃばと勢いよくこすった。

伊多波さんからのメールは週に一回来るようになり、週末に会いたがった。でも、私は何度も予定があるとか休日出勤だとかでのらりくらりと避け続けた。たまに職場で見かけて、向こうは変わらず話しかけてくるけれど、私は眉間にしわばかり寄せてしまう。それでまた、彼は私をおちょくって、傍でそれを聞く澤谷くんは漫才みたいだと言って笑う。佐々木さんは相変わらず伊多波さんが来ても冷たくて、伊多波さんはそれをやっぱり意に介さないように笑って、挙句、佐々木ちゃん今度ご飯でも行こうよ、などと軽口すら叩く。その間、私と目は合わない。私が反らし続けているからだ。
私に、伊多波さんの家庭を台無しにしてまで、伊多波さんを好きでいる覚悟はない。そもそも、そういう好きではないのだろう。伊多波さんも私も、ただ中途半端に寂しくて中途半端に相手のことを知っていて、中途半端に求めてしまった。
もしも奥さんや子どもにばれたり、職場にばれたとき、それでも私は伊多波さんと一緒にいたいかというと、そんなことはできない。私は、伊多波さんを想うように、佐々木さんや澤谷くんのことも想っている。彼らから、どんなふうに思われるのか、そんなことを考えただけで心が押しつぶされそうになってしまう。みんなのことが大切なのだ。当たり前のことに気付いて、どうしようもなくなる。

誘いを断り続けていたら、とうとう伊多波さんから電話がかかってきて、仕事終わりにちょっとだけお茶をすることになった。何度も何度も会話を思い描いて、彼のペースに飲まれないようにしようと、胸の中で信仰なんてしてもいない十字架をきる。お許しください、と、誰かに祈る。心臓が痛いぐらいに拍動していた。
「最近、まごちゃん冷たいよ。仕事中はまあ、仕様がないとして、誘っても全然、だし」
「……私、ごめんなさい、でも、あの……本当に、伊多波さんとは仕事で良い関係でいたくて、飲み会誘ってもらったりとかいろんなとこ連れてってもらったりとか、してて、すごい楽しかったし嬉しかったけど」
「お前は、本当に、いい子だね。……あれは俺が悪かった。本当にごめんな」
伊多波さんの、あの、手が、私の頭を撫でる。もっと言いくるめられると思っていた私は拍子抜けして、深夜まで営業している喫茶店のこげ茶色のテーブルをじっと見つめていた。伊多波さんが悪いってこともない。でも、私が悪いってこともない、と、思いたい。私たちは中途半端にお互いになすりつけて、中途半端に自分たちを責めている。伊多波さんは、でも、上手だ。初めて飲み会で会ったときから、ずっと、気遣いをさせないようにする気遣いが上手だ。優しくて、愉快で、だからこそ寂しがり屋で、すぐに人を求めてしまうのだろう。目が笑っているように見えないのは、きっと、心の奥底の寂しい光が漏れ出ているからだと、私は思う。

「なあ、でも、ギクシャクするのはなしだよ。俺、本当にまごちゃんのこと好きだから、仕事、上手くやっていきたいし」
「うん、こちらこそ」
「じゃあね、気を付けて」
お互い仕事帰りに待ち合わせたので、別々の車に乗り込む。彼の方が先に駐車場を出ていき、ハザードランプを二回点滅させて出て行った。私も帰ろうとシフトレバーに手をかけた瞬間、どっと涙が押し寄せてきた。

ああ、どうして、世の中は、どうでもいい人ばっかりじゃないのだろう。自分にとってどうでもいい人ばっかりだったら、きっとこんなにも、意味のわからない焦燥や絶望や嫉妬や失望や悲しみに悩まされずに済んだだろうに。

伊多波さんが私にとってどうでもいい人であれば、佐々木さんや澤谷くんが私にとってどうでもいい人であれば、伊多波さんの見知らぬ奥さんや子どもが私にとってどうでもいい人であれば、きっと、全部がどうでもよくなった。私すらも、私にとってどうでもよければよかったのに。
誰かを大切にしたいと願ってしまう。私を大切にしたいと思ってしまう。そんな当たり前のことが枷になって、錘になって、心を押しつぶしていく。こんな苦しくて報われないのは嫌だと、何度も何度も思うのに、なんだって大切にしたくなるのだ。伊多波さんとの関係も、あの手も、心地よかった。佐々木さんの歯に衣着せぬ物言いも、それに笑う澤谷くんも好きだ。そして、伊多波さんの奥さんも子どもも、どうか伊多波さんに大切にされていてほしい。

私の車は最近買い換えたばかりで燃費もいいし、エンジンの音は静かだし、エアコンのききもいい。伊多波さんの、古い、名も知らぬ車とは違う。でも、あの車の助手席は、今まで乗ったどんな車の助手席よりも居心地がよかった。
私もきっと、伊多波さんにとっての、どうでもいい人ではなかったのだろう。そう思うと涙がどうしようもなく止まらなくなって、ハンドルにもたれたまま泣き続けた。

<END>