POISON of LOVE(小説)

愛は怖いです。怖すぎます、つーか毒です。これはもう私史上最高の名言ってことにしておいてください。二つ下の後輩が、四個上の先輩と付き合っていて、ああつまり私の二個上の先輩ってことになるんですけど、その彼氏なんてほんとにひどいもんで、スカート履くな、男がいる飲み会はいくら職場の付き合いであっても参加するな、それより俺様に毎晩電話しろ、とか言うんですって。と思えば急にいじいじしだして泣き出して、夜も寝れないごはんも食べられないとかいう始末で手を焼きつつも、こういう愚痴も広義の意味では惚気なのでしょうね。まあ電話口で泣いてきたらほだされちゃうかも。そうでもないか。ほだされちゃうかも。だからまあ、愛されてるってことじゃんとかいって、それっぽい感じの顔をしてみるんですよ。でも、もはやそれってやっぱ愛じゃないよね、彼氏はもう大爆走してるよね気が狂ってる自分のことしか考えてないじゃないですかそれって。スカート履くなも飲み会行くなも結局自分が嫌な気持ちがするからそう制するわけじゃないですかそれって。今日日スカート履かない二十五歳のOLっているかよ。フツーの、むしろかわいいぐらいの女の子でそれなりにおしゃれも好きだしジルスチュアートのリップとかクロエの香水使っちゃうような子なんですよ。それがスカート履くなってイカれてやがるぜ全く。でも今度結婚するんですって。まじかよ。すげーな。どこに愛があるんだそれは。やっぱりイカれてやがるぜ。
とかいうのを壁の沁みを見つめながら考えている私の方がよっぽどイカれているのはわかっている。他のことを考えなければと思うあまり、大して興味もない先輩後輩カップルのことを考え貶して、他人の挙動に対するざわつきで心を満たしておかなければ、自分の心のざわつきに囚われて発狂してしまうに違いない。私の方がイカれてやがると思いながら壁についた、しょうゆみたいな沁みを眺めているのだ。
アパートの目の前に道路を大きなトラックが通ると、建物全体が大げさに音を立てて揺れる。車が走る音は常に私を威嚇しているそして急に訪れる静寂は、イカれ具合を増長させる。静かにならないでほしい。どうせなら等間隔でトラックが走ってきてほしい。先輩後輩カップルの、どうでもいいイカれ具合では私のイカれ具合はごまかしきれない。あいつらに、しょうゆなのかもしかしたら時間が経ちすぎて茶色っぽくなった血痕かもしれない壁の沁みを眺める私の気持ちはわかるまい。しょうゆじゃないかもしれないし。この茶色い沁み。ちょっと粘着っぽい感じもする。ウスターソースっぽい。そもそもウスターって何。立ち上がり、キッチンへ行ってシンク下の収納からウスターソースを眺める――ってとこまで想像した。別に立ち上がらない。立ち上がったら、そわそわして今度は座れなくなる気がする。テレビはつけない。くだらない知恵を紹介する番組で得する収納ポイントを見せられたところで、自分の気持ちを丁寧に見て見ぬふりをしてこの体の中に収納することなんかできない。「すごい」「明日から絶対やろう」「目からうろこ」だなんだとまくしたてる主婦層のタレントは、どうせお手伝いとか雇ってんだろ。想像の中でテレビを見る私は無表情でテレビを消すのでやっぱりつけない。想像力って大切だ。となると、やっぱり壁の沁みってなんだろう。血痕か。いつの。ケガしたっけ。私が? キッチンで指を切ったことはあるけれど歩き回ったりはしなかったし、ケガをした箇所を振り回したりもしなかった。キッチン以外でケガをした覚えもない。となると、家主である彼か。ああだめだ、結局そこに行きついてしまう。私の恋人。今日も遅い。会う約束をしたのに、仕事が長引くという短い連絡をよこしてから一切連絡がない。考えないようにしていたのに。おかしいだろ。逐一連絡してこいよ。なんだよこの壁の血痕。誰のだ。お前のか。お前ではない誰かのなら、誰だ。女か? どうして。処女膜の血? 女が壁に手をついて後ろから突っ込まれて飛び散ったらこういう血痕になるかもしれない。そんな女殺してやる。イカれてやがるぜ。
「ただいま、ごめん」
声が聞こえ、玄関のドアが閉まり、瞬き一つする間に彼は廊下をかけてきてリビングに飛び込んだ。すぐに体勢を整えて抱きついてくる。首筋に触れる頬はじわっと湿っている。木々が茂り始めた初夏特有の、吐きそうにすらなる青々した香りと、外気を吸ったシャツの香り、そしてわずかに汗と脂の匂いがする。まごうことなき、生きている男の匂いだった。瞬間、壁の沁みはどうでもよくなり、頭が真っ白になって、鼻目いっぱいに吸ったこの匂いを一切吐き出したくなくなる。ずっと吸っていてもいい。
「超特急で帰ってきたんだけど」
彼は、私の首に顔をうずめたまま、もごもご言う。彼が浮気などするはずはない。わかっている。わかっていても、愛に狂わされた私は狂ったように考え続ける。でも、もう、この匂いを嗅げばどうでもいい。なんじゃそれ。でも、もうどうでもいい。
やっぱ愛って麻薬みたいなもんだ。毒みたいなもんだ。この匂いを延々に吸っていたら、どんなことだってまともに考えることができなくなるに決まっている。彼のことを愛するほど、私の頭はイカれてポンコツになる。この匂いを嗅げばイカれた考えさえ消え去ってしまう。真っ白だ。彼のために漂白される私の頭。
やっぱ愛は怖い、っつーか毒っすわ。