見出し画像

ほんの小さな鎌倉物語

 サザンの『希望の轍』がちょうど流れていた。材木座海岸の渋滞を抜け、ポンコツの空色の車が次の渋滞に再び引っ掛かるまでのわずかな間、ちょうど流れていたのだ。

 ふたりはお互い、それぞれの頭の中で、
「あ、この人と結婚する」と直感した。

 彼も彼女もサーファーではなかったし、リッチでもオシャレでもなかった。
 それでも、将来住むなら鎌倉なんて素敵だな、とそれぞれが考えていたことをお互いは知らない。
 
 どちらからともなく、初めてのデートは鎌倉にしようか、と言い出した。

 鎌倉を散策したふたりは、小町通りであまりの人の多さに圧倒された。彼は食べ歩きのドーナツを海岸でトンビにかっさらわれ、彼女は帽子を海風に吹き飛ばされた。
 
 今日は二度目のデートで、二度目の鎌倉デートである。今回は車でのこのこやって来た。

 
 FMヨコハマがちょうどサザン特集をしていたので、R134で車を走らせていた彼らは、そのまま聴くことにした。
 海沿いの風景と楽曲との相性に酔いながら、渋滞に巻き込まれてもさほど苦ではなかった。

 空色の車が逗子方面から短いトンネルを抜け、突如海が現れると、彼女は「わぁっ」と溜め息に似た歓声を上げた。
 彼は、彼女のその表情を見たくて0.7秒、そっと隣を盗み見た。結果、彼女の耳に揺れるピアスしか目に入らなかったのだが、その揺れ具合でワクワクを感じとれたので満足だった。

 波乗りしているサーファー達を見ながら、
「上手、上手!あーあ、ひっくり返っちゃった…」と実況する彼女。いつもより声が可愛く高くなっている自分に気づき、浮かせた腰を再び助手席に落ち着ける。
 男子の前でキャッキャとはしゃぐ女子を軽蔑してきた自分が、こんな仕草をしてしまうなんて。気持わるく映らなかっただろうか。

 つかず離れずの車間距離をブレーキだけで繰りながら、彼が聞く。
「あのトンビ、こないだのトンビかな」
 海辺を走るボーダーコリーを目で追っていた彼女は、由比ヶ浜方向の上空で旋回するトンビに視線を移した。
「だとしたら、あの子はドーナツの美味しさをもう知っているのね」
 なんだか最近、目に映る生きとし生けるすべてのものが愛おしいと感じるふたり。
 トンビに襲われたことさえも大切な思い出のひとつだった。

 
 やがて空色の車はサザンと彼らを乗せ、R134に鎌倉市街へ続く道がつき当たる滑川(なめりかわ)河口付近まで来た。
 ここを抜ければ、渋滞がほんの少し和らぐ。


 
 そして『希望の轍』が流れた。

 稲村ヶ崎を越えて小動岬(こゆるぎみさき)までを江ノ電と並走する海岸沿い。

 彼は隠していたが、鉄道が好き。彼女も特に口にはしなかったが、路面電車が好き。
 江ノ電は鉄道だけど路面を走る区間が存在する。

 “こんな街でこの人と暮らせたら、どんなに幸せだろう”
ほとんど同時にそう思っていたことを、ふたりは知らない。


画像1



 あれから10年の月日が流れた。

 ボーダーコリーを海岸で散歩させている中年の夫婦とすれ違う。

 
 材木座海岸をそぞろ歩きながら、彼は時折腰を屈めて砂に紛れた陶器の欠片を拾っている。
「これは宋の時代の青磁かもしれないぞ」などと興奮気味に話しかけるが、少し後ろで彼女は、「さくら貝の完全体、見っけ!」と、まったく違うものを拾い上げてホクホクの笑顔。

 似ているようで絶妙に噛み合わないところは昔と全然変わらない。

 
 子供は、いない。でも夫婦でいる。
 鎌倉には住んでいない。
 
 鎌倉を訪れるたびに御成通りの不動産屋さんの窓に貼られた物件情報を見るのだが、探しているフリだけで、実際住むことはないのだろうなとふたりは心のどこかで悟っていた。

 けれど、お墓だけはせめて鎌倉がいいな、と彼女は考えているようだ。
 そして彼も彼女も、「自分より相手が一日でも長く生きますように」と願っている。

 あの日とどこか似ている今日。
 サザンの『忘れられた BIG WAVE』が車内に流れている。

 ポンコツの空色の車は、江ノ電と並んで、ふたりの淡い既視感を乗せながら海沿いの道を走ってゆくのだった。






最後まで読んでいただき、ありがとうございました🍀

この記事が参加している募集

一度は行きたいあの場所

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?