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どこかの誰かが聴いた「マリーゴールド」の話

 夏になると聴きたくなる。

 この曲を聴いていて、ふと思った。「麦わらの帽子の君」と「泣きそうな目で見つめる君」は、別の人なんじゃないかと。

 正直言って、「曲名 歌詞」とかを検索エンジンに打ち込んだときに現れる「◯◯の歌詞はどういう意味?徹底解説!」みたいなのは嫌いだ。曲を作った本人が意味を語るならともかく、無関係の人間が「この歌詞はこういう意味です!」と教科書ぶって書いているのはいったいどういう了見なのだ。あんた誰?
 音楽に限らず小説や映画や絵画など、なんでもそうだけど、そこに「本当に作者が伝えたいこと」があったとしても、受け取った人間の心のありかたに左右されて違うかたちで刺さってしまうことはままある。シンプルな事実としてそういうことはある。音楽はそのなかでも特に、そういう性格が強いと思う。

 だから、この「マリーゴールド」の解釈は「マリーゴールドって実はこうなんじゃない?」というわたしの仮説とか提言なんかじゃなく、「マリーゴールド」から生まれた、あるいは生まれそうになっている、たくさんあるうちのひとつの物語みたいなものだ。

麦わらの帽子の君が
揺れたマリーゴールドに似てる
あれは空がまだ青い夏のこと
懐かしいと笑えたあの日の恋

あいみょん 2018年

 思えば最初に聴いたときから、これは終わった恋の話なのか?それとも今も続いている恋の話なのか?とぼんやり思っていた。
「あの日の恋」を「懐かしいと笑えた」なら、それは終わっているような感じがする。でもその後に続く歌詞は、現在形になっている。
 それでなんとなく不思議な感じがしていた。いつの話をしているのかが、どこか曖昧な感じ。それが逆に良いと思っていたんだけど。

「もう離れないで」と
泣きそうな目で見つめる君を
雲のような優しさでそっとぎゅっと
抱きしめて 抱きしめて 離さない

あいみょん 2018年

 もしもこの、抱きしめて離さないと決めた「君」が、「麦わらの帽子の君」と別の人だったなら、とふと思った。

 忘れられない誰かがいる。青い空の下で、揺れたマリーゴールドに似ていたその人の後ろ姿を思い出す。きっと強い憧憬を抱えて、この先もずっと忘れることのない人。
 もう話すこともないのか、手の届かないどこかへ行ったのか、君がこの手を取らなかったのか。あるいは一度握った手を離してしまったのか。
 今、隣には離したくない人がいる。いつか出会った誰かは消えて無かったことになるんじゃなくて、記憶の中に残っている。

私が思うに、記憶というものはゆるやかな螺旋模様を描いている。もうずいぶん歩いたなと思っていても、螺旋階段のように、すぐその足の下に古い時間が存在している。身を乗り出して下に花を投げれば、かつて自分が歩いた影の上に落とすことができるのだ。

恩田陸『麦の海に沈む果実』講談社 2004年


 もう会わなくなった、話さなくなってしまった誰かのことを考える。わたしにもそういう人がたくさんいる。好きだったよ、大切だったよ。
 だけど人とのつながりはいつか終わることもあるから、今はそばにいる人と抱き締めあうよ。

 なんてね