いつだって どこだって なんだってあげる ぜんぶ持って行っていいよ
3月になりました。
わたしは、3月生まれです。
それで、3月が好きです。
なんか3月生まれって、自分っぽいなあと思います。学年の一番最後に誕生日を迎えるので、スタートダッシュに全然間に合わない。でもそれもふくめて、まるっと3月が好きです。
3月って、まだすごく寒い日があったりするのに、日中は陽射しがやわらかくなってきて、それでも油断しないでね、っていう感じがして、よーし、これから春だなあ、という音が、空や地面から聞こえてくるような気がします。3月のゆるやかな陽射しをまぶたにあてて祈れば、どこかに届くのじゃないかというような。神様がそこにいるんじゃないかと思えるような。
4月はもっとパキっと春!新生活!だし、5月に至っては生命力が空気じゅうを駆け巡ります。もちろんそれもうれしいのですけれど。
3月。のんびりとした、でも必ず別れの切なさを内包した世界は、静かだけれど、いつもあたたかいので、わたしは3月が好きで、3月に生まれたことも好きです。
クリスマスも、おおみそかも、お正月もバレンタインも、ずっとひとりで家にいました。何もしませんでした。誕生日もそうなるでしょう。だけど、三十数年前の3月に、この世界にやってこられたことに深く感謝しています。家族や、関わってくださったすべての方々、わたしをかたちづくってくれた音楽や文学などに。そして何より、がんばってくれた自分に。
11月くらいからの記憶がほとんどありません。どうやって働いていたのだろうか……。毎朝軍隊みたいに飛び起きて、早朝ほとんど人のいないオフィスに入って、電気を点けて。東京と大阪を行ったり来たりして。帰ったらスナック菓子とチョコレートを食べてコンタクトも外さずソファで気絶するような生活。よくなかった。本当によくなかった。ごめんね、わたし。ごめんなさい、本当に。11月〜12月半ばまでの、確かに働いてはいたが限界だった時期、の記憶が曖昧です。それで、お休みに入って、もうそれから何ヶ月も経っていて、3月かあ。と。
一生懸命やっていたんです。仕事が好きだったのも本当のことだし、頑張りたい気持ちも本当だし、誰も何も悪くないし、だけど今はもうなんにも思い出せないし、なんにも感じなくなってしまったなあ。
この間、久しぶりにメッセージをやりとりした友人にまだ復職の目処が立たないことを伝えたところ「毎日何してるの?」と聞かれてしまいました。(すごく優しい人で、悪意がないこともこちらは分かっているという前提です)いや、そらそう。そらそう思う。わたしもそう思ってる。何しているのでしょう……。朝から晩まで、みんながんばっているのに。わたしは何をしているのでしょう……。でも、何もしていないんですよね……。よし、靴下を履こう、って思ったら1時間経ってたとか普通にある。この部屋は時空が歪んでいるのでしょうか?うまく眠ることばかり考えています。眠るために起きていて、それなのに眠ることに失敗してばかりです。朝が来るのがこわくて、眠りにつく、意識ごと世界からすとんと抜け落ちる、あの瞬間だけが唯一、少しうれしい瞬間です。
今のところ毎日できているのは「音楽を聴く」だけです。
「音楽が好き」って言うのって、すごくコアなものをたくさん知っていたり、歴史的な背景とか、そのアーティストのプライヴェートなこととか、そういうことを全て知っていないと言えない気がして、なかなか普段は言えません。(同じ理由で、読書が好き、も言えない)
でも自分にとっては、生まれた時から音楽って普通に生きている空間に、家の中にあったもので(父も母も音楽が好きな人だから)それは全然特別なものではないし、J-POPのTOP10を聴いて楽しんでいた子供時代だったけれど、自分にとっては音楽はわざわざ聴く、というよりは、生活の一部、みたいな感じで、でも別に詳しいわけではないし、コアな誰かのファンではないし。でもそれって歯を磨いたり、顔を洗ったりすることと同じように、生活の一部だから、それでいいのかなあ、とも思います。歯磨きはみんなするけど、別に歯ブラシの始祖とか全員が知ってるわけでもないやろうし。(わたしも知らん)
Maxwellの「Whenever Wherever Whatever」を聴いて、歌詞を読んで泣いちゃった。わたしはいい年こいて、恋愛経験が著しく乏しい女なので「恋」のことは何も分からないけど、たぶん「愛」のことの方が、少しは分かるんじゃないかなって、勝手にそう思っています。(傲慢だ)
めちゃくちゃ意訳。( )内とかMaxwell言うてへんやん。でも絶対心の中では言うてるはずやからオーケー。
この感覚、すごく分かる。なんか、こう、恋とかじゃなくて。あなたの欲しいものの中に、わたしにあげられるものがあるなら持って行っていいからね、って、そういう気持ちになることってよくある。誰にでもってわけではないかもしれないけれど、でも、ほとんど誰にでも、かもしれない。わたしという人間に関わってくれたあなたに、わたしがあげられるものがあるとするのならば持って行ってね、それで、あなたが豊かに健やかに、生きて。っていう気持ち。異性とか、恋人とか、性愛とか、そういうことじゃなくて、もっと漠然とした、それでいてシンプルな、なんかこう。人間に対する愛というか。そういうの。この曲ってそういう曲だと思ってわたしは聴いています。(まあラブソングなんだろうけれど)
でも。それをやりすぎると身を滅ぼすこともあるから、わたしはそれをあなたにあげると同時に、自分自身にもそういう考えを向けていけたらなって、そんなことにも気付けた曲です。与えたいと思えることは、与えてもらっていることなんだというのはずっとわたしが大切にしている考え方です。
夜に、散歩をすることがあります。
都会の真ん中に引っ越してきた一番のメリットだとさえ思えます。家の周りはずっと人通りがあり、明るいので散歩ができます。実家の周りも、前に住んでいたところも、まあ田舎ではなかったけれど、夜に散歩するのは少し抵抗がありました。
でも最近は、それができるので、すごくいいなあと思っています。夜の街には、夜の街の音があり、夜の街の事情があります。
UberEatsの配達員さんの四角いリュック。手指を絡めた男女。不機嫌そうにアイコスを吸うスーツの男性。お揃いの洋服(びっくりするくらい寒そうに見えるショートパンツ)に身を包んだ女の子二人組。焼き鳥屋さんの配管ダクトから漏れる鶏皮の脂のにおい。開閉されたドアから漏れるコンビニエンスストアのおでんのにおい。
それぞれの事情があり、それぞれのストーリーがあります。
わたしはそれらの横をただ通り過ぎるだけの人です。彼ら・彼女らからは、見えていないでしょう。少なくとも、わたしが見えているようには見えていない。それはとてもさみしいことでもありますが、でも、それは実は心安らげることでもあります。
わたしは自分で自分のことを、おしゃべり好きだと思っているし、コミュニケーション能力もそんなに低くないと今まで思っていました。でも、全然違ったかも、というのが最近また気が付いたことです。
初対面の人と二人きりになっても会話できると思っていたし、ファシリテーターとかプレゼンテーションのように人前で話すこともそんなに苦じゃないと思っていました。でもとんだ勘違いというか、傲慢というか。
本当は、ただ沈黙がこわかっただけなのだと気付きました。沈黙がこわくて、相手がつまらないと感じていたらどうしようかということが死ぬほどこわかった。だから、何か相手が楽しく話せる話題はなんだろうとか、せっかく一緒に時間を過ごしてくれているのだから、相手の素敵なところをなるべく見つけて伝えたいとか。傲慢で押し付けがましくて、暑苦しい、嫌な人間でした。まあ、薄々気が付いてはいましたが。
だから、心の底では、本当は、自分のことを知ってもらうこと、承認してもらうことを渇望しているのに、自分に質問されるのが苦手で、褒められることも苦手という天邪鬼でした。せっかくの時間に自分の話で時間を割いてもらうのは忍びない、みたいな。でも、そういうのにも、疲れていたなあ、と。思ったり思わなかったり。自業自得です。
だから文章を書くのだろうな。文章は、勝手に書いていても誰にも怒られないし、迷惑をかけなくてすむ。読みたくない人は読まないという選択肢を取れるし、読んでくださるという稀有な存在の方がいらっしゃればこんな幸せなことはない。だから、書いて公開したり、書いて作品にしたりしたかったのだと考えます。なので、読んでくださるだけでもじゅうぶんすぎるほど幸せなのに、その感想をわたしに伝えてくださる方々は、わたしにとっては神様です。宝物で、神様で、命の恩人です。
わたしはSNSで自撮りや生活をアップロードするような感じの感覚は自分にはなくて(否定していません、あくまで自分基準)でも、自分にとってのそれが、こういうふうに文章を書くことなんだなと、腑に落ちました。うれしいよね、承認してもらえたら。
今まで作品を書くときは、人間や労働を賛歌したい、優しくありたい、という気持ちがすごく強かった。この世界中のモノやコトは、必ず誰かの仕事でできている、ということを、いつもいつも褒め称えたくて、応援したくて、あなたはかっこいい、あなたは素敵、だという気持ちを、会ったことのない全ての人たちへ込めていました。
もちろんその気持ちに変わりはないし、きっとこれはずっとわたしが生きていく上で、書いていく上でのテーマなのだと思います。
でも、最近は、自分を愛する・自分を慈しむ、ということをもっとしっかり考えて、作品に落とし込めたらいいなと考えてもいます。どこかの誰かを応援し、褒め称え、愛するように。自分自身を愛して慈しむことを忘れたくないなと思いました。そうして、それをまた、どこかの誰かに更に返せるようになれたらもっといいな、と思います。
自分を愛すること・自分を慈しむことは恥ずかしいことなんかでは絶対になくて、むしろ自分を蔑ろにすることのほうがずっと悲しいことだったのです。大好きだよわたし、愛してるよわたし。そういうふうに、自分を大切にするための方法を身につけて、そしてそれを多くの人へお返しできますように。
ああ、誕生日が来てしまうね。
わたしは、もっと、ちゃんとした大人になっていたかったなと思って、それはやっぱりすごく悔しくて恥ずかしいです。もっと親孝行して、仕事もどんどんこなして、家庭を持って、子どもを産んで、そういう、〝ちゃんとした大人〟になっていたかった。でも欲張りだったのかな、とも思う。どれもちっとも叶わなかった。どれもちっともうまくできなかった。笑っちゃうくらい、何ひとつ持っていない今のわたしには、あなたにあげられるものは何もないかもしれない。
それでも
いつだって どこだって なんだって
あなたが(わたしが)欲しいものなら
ぜんぶあげる
持って行っていいんだからね
いつだって どこだって なんだって
あなたが欲しいものなら ぜんぶあげる
(わたしがあげられるものだったらいいな)
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すみません、最後にお断りを。
(別に著名人でもインフルエンサーでもないし拡散力も影響力もないのだから勝手に書けよ、という話なのですが、念のため、念のため)
あの、少し、社会復帰までにはまだ少々時間がかかるとのことです。自分としては焦って焦って、と思っていたのですが、いろいろな人といろいろな相談を重ねた上の結果です。(最終的にはもちろん医師の診断ですが)ショックではありますが、今は受け入れています。本当はずいぶん前には決まっていたのですが、受け入れて、ここに書くまでに時間がかかりました。なので、しばらくはそういう感じのことしか書けないかもしれません。
わたしは本当に嘘がつけず、思ったことをそのまま書くnoteになってしまうと思います。だけど、書くからにはあまり陰鬱な空気にはしたくないし、自己憐憫まみれにしたいとも思っていません。ただ、自分にとって書くことが一番心が落ち着くことで、整理できることで、自分らしくいられることだとも分かったので、どうかこの場でだけは、ありのままの自分でいようと思います。なので、苦手だな、いい加減めんどくさいな、となった方はそっとミュートやフォロー解除をしてください…!
(いちいちそんなこと言わなくていいのも分かってるのだけど、読んでくださっている方々がいらっしゃるのに、なんだか申し訳ない気持ちがあるので一応書き記しておきます)
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