ゆるせなさを胸に抱いて たゆたう
生きていれば、腹の立つことはあるだろうと思う。理解できないことも、分かり合えないことも、分かってもらえないかなしみも。
とんでもなく意地悪なことを言われたり、理不尽なことを言われたとする。だけど立場上自分はそれを言い返せなかったり、飲み込まなければならなかったとする。
そしてその相手がふと見るとお昼休みにのり弁当を食べていたとする。
すると、何故だかほんの少し、許せてしまう。
「うん、のり弁うまいよな、わかる」という気持ちになり、のり弁にどん兵衛天ぷらそば(ミニ)を配置していたりなんかすると、ますますその人を憎めなくなってしまう。「うん、わかるよ」と、心のどこかからそういう気持ちが湧いてくる。それまで胸を支配されていた憎しみの輪郭が、曖昧になる。
自分にはそういうところがあるなあと思う。
それは決していい人ぶっているとかそういうわけではなくて、うまく言えないのだけれど。
こっぴどい振られ方をした恋人に子供が生まれたと聞けば「ああ、元気に育って欲しいな」と思う。どんな振られ方をしたって、わたしは今生きてるしね。あなたも今を生きているならまあいいかと思う。心からの幸せを願う!とかまでは思わないとしても、新しい命が誕生するのならば、それはそれとして元気でいてほしいな、と思う。
別れたばっかりなのに、相談して話し合って、お互いの未来のために(少なくともわたしは)別れたはずなのに、調子のいい時だけ連絡をしてきて、わたしに優しくしてもらいたがる元恋人がいたとする。優しくしてもらいたくて、甘えたくて、だけど責任は取りたくなくて、腹は括れなくて、でも弱った時にだけ優しくしてもらいたがるなんて、許せないなと思う。それはともすれば、肉体的な快楽の搾取よりももっと根深い搾取のような気がする。だからひどいと思う。思うけど、思っていたけど、いつの間にか、まあでもいいか、となる。まあ、この人にはこの人なりに葛藤があったりもしたのだろうし、自分のしていることがほんとうは情けないことだとどこかではわかっているのだろうな、と思うから。わたしはわたしのペースで前を向くので、あなたもあなたのペースで前を向こうね、と思うから。
「許せない」と思う間はまだ「渦中」にいるんだろうな。
コンプライアンスを根底から無視したような発言をしまくる人に傷つけられることだって当たり前だけどある。全然ある。なんなら昨日だって今日だってある。生きているだけである。
でもまあ、この世の中はわたしだけのために存在するわけじゃなくて、誰かが「こうしましょう」と決めたルールなんて、そうそう守られるはずがない。それはでもさ、諦念ではない。ちゃんと「ああ、この言葉は傷つくな」と思っていればいいと思う。自分が何に傷ついて、何を許せないと感じて、何に腹が立ったのかをちゃんと自分で見て、覚えておく。それが諦念ではない、理解と成長に繋がる、ような気がする。自分だって、誰のことも傷つけずに生きることなど不可能だということを絶対に忘れないようにするためにも。
でもそれと同時に、ゆるせなさをずっと抱いて生きていく人のことも、わたしはそれでいいと思う。
なんでもかんでもゆるさなくてもいい。ゆるせなさが、あなたの心の寄る辺となっているのならば、それはそれを抱いていけばいい、と思う。
わたしは若い人たちが好きだ。
自分が歳を重ねて、若手社員と呼ばれる人たちがたくさん増えてきて、えらそうなことは言わないけど、一応「後輩」みたいな人たちが好きだ。
でも別に豪快にごちそうするから飲みに行こうぜ!とか、連絡先教えて!とかぐいぐいいくタイプの先輩ではもちろんない。
「基本口出しはしませんが、何かあったら力になりたいので言ってください。でも、わたしもそこまで人間ができているわけでも頭がいいわけでも人格者でもないので頼りになるかどうかは別ですが寄り添う意思はあります」のスタンスで関わっている。(つもり)
仕事で最低限の関わりを持つくらいだけれど、なんか、存在してくれているだけで「ありがとう」と思う。
時代なのか、風潮なのかなんなのか分からないけれど、最近の若い人たちは本当にものすごく優秀で、みんな入ってきていきなり仕事ができる。あれは何故なのでしょうか。(物理的にデジタルネイティブ世代であるということは大きいだろうし、吸収が早い、そして高学歴)そしてみんなすごく優しい。性別問わず、みんな本当に優しい。
権威のある男性社員が茶化して「このオネエサンには気に入られといたほうがいいよ(笑)」みたいなことを、わたしを指し、若手社員に言ったりするのが少しかなしかったりする。相手の態度でわたしは一緒に仕事をする人に対する対応を変えたりはしないのにな。
そして何より、その若手社員たちはそんな変なゴマスリみたいなのをしない。みんな優秀なので、ただただその仕事の姿勢にわたしは尊敬の念を抱いてしまう。
そしてわたしはいちいちそれに感動し、いちいちめちゃくちゃ褒めてしまうのだけれど、彼ら彼女らは「そういうのいいんで」みたいなことを言ってくる。でもわたしのいないところで、褒められてうれしかったですって言ってたの、知ってるよ、となると、彼ら彼女らのことを更に好きになるし、大切にしたくなる。
わたしは、彼ら彼女らが失望しないような会社生活を送ってくれるといいなと思う。まあ、末端平社員のわたしにはどうすることもできないのですが。でも、素敵だなと思ったらそれを口に出して(或いはメールやチャットで)伝えるようにしている。別にそれが本人が意図したことでも意図しなかったことだったとしても。褒められるって、うれしいことだから。歳を重ねるごとに褒められることは減っていくけれど、過去に誰かのくれた褒め言葉がのちのちの自分を支えてくれることだってきっとあるだろうから。あと、単純に、すごいなと思って伝えずにはいられない。あなたはすごいんだよ、ありがとう、さすがだね、と勝手に言ってしまう。褒め言葉って、言われるのもうれしいけど、言う方もうれしいから。褒めさせてくれてありがとう、って思う。
「おじさん」や「おばさん」になると、生きているだけで嫌われる機会が増えるなあとも思う。嫌われるから嫌なことを言うのか、嫌なことを言うから嫌われるのか分からないけれど、まあとにかくそういうことを見聞きする機会もある。
「どうしてこの人はこんな意地悪なことを言うのだろうか」と思う人に、思い切って近付いてみることがある。そして話を聞いてみる。そうすると、土足で心の中に入ってくるし、コンプライアンス無視するし、傷つけることも言われたりする。だけど、よくよくそれに耳を傾けてみると、ああこの人さみしいのかもしれないな、と思う。だからそういうときは、自分についた傷のことは一旦置いておいて「あなたの感じてるさみしさを共有したいです」という姿勢で話を聞こうとする。そうすると、その人の意外な一面が見えたりする。些細なことで感動したり、感極まって泣いたり、夜中にカップ焼きそばをどか食いしたり、推しのライブに行くためにエステに通ったり。そういうことが見えてくると、もうわたしはその人を憎めなくなってしまう。人間だなあと思ってしまう。
生きていてわたしがゆるせないのは、傷つけてくる他者でもなく、寛容さのない社会でもなく、自分自身だなと気付く。
どうして人のことは、なんだかんだと言ってゆるせるのに、自分のことはいつまでもゆるせないのだろうなと、そう思う。
ゆるせないからこそ努力をするのかもしれないし、がんばろうと思うのかもしれない。そして何より、ゆるせないからこそ文章を書こうと思う。書いたところで、それがなんになるわけでもないのだけれど。でもこうして心の中を分解して、点検して、ああやっぱりまだゆるせないなと思う。
ゆるせないなと思うことをゆるす、というところまではきたのかもしれない。
ゆるせなさを胸に抱いて たゆたう
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