フラットシューズの わたしを愛して

「昔はお局さんがこわかったのに、年を重ねるごとに自分も気がきつくなっている」という旨のツイートを見かけた。これは自分が常々思ってきたことで、考えてきたことだったので、激しく同意してしまった。

だからと言って、若者をいびったり、同僚にきつくあたったり、
そういうことは当然だけどしない。若いとき、そういうことをしている人たちを見てとてもこわかったし、こうはなりたくないなと思っていたから。

でも、自分がそういう年齢になってみると、だんだん今まで溜め込んできたものが発酵して、次第にそれが腐敗し、腐臭を放つのではないかという恐怖に陥るときがある。

だから、どんなときも謙虚であらねばならぬ、ということを、もういっそ額にでも彫りたい。額だけでは日中確認ができないので、両腕に彫りたい。そのくらいに気にしている。

気がきつくなってしまわないように、イライラしても絶対に態度に出さぬように、もう本当にありえないほど気を遣って、神経をすり減らして生きている、ような気がする。

そしてそれが正しいことなのかもわからない。

ほんとうに仕事のできる人は、おそらく額にも腕にもそんなものを彫らずに、自然体でふるまって、自然体で人に好かれたり、仕事をしたりできるのだろうなと思う。

そういうことをしすぎた結果、ほんとうに、ほんとうに、一人でしか暮らせないし過ごせない人間になりつつある。とにかく自分の呼吸する範囲の屋根の下に人がいるということが、とてつもなくストレスになる。

まだまだだぜ、自分。

少なからずわたしに好意めいた(だいそれたことを言って申し訳ないです)ものを抱いてくれる男性が言うのは「自立した女性って素敵だと思う」という言葉。

それは、彼らから見てわたしが「自立した女性」に映っており、そこを評価してくれて、わたしが喜ぶだろうと思って言ってくれている言葉なのだ、ということくらいわたしにも分かる。

でも実は、正直言ってもうそういうことを言われることすらとても重苦しいし、つかれている。やめてくれ、そこを評価しないでくれ。

「自立したあなたが素敵」と言われるということは、自立していないわたしには価値を見出してくれないんだろうなと思うレベルにわたしはこじらせている。(すまぬ)

言われなくても自立してるし、言われなくても仕事は辞めない。言われなくても誰かに依存する気はない。精神的にも、もちろん経済的にも。

だけど最初からそこを全面的に期待されているアプローチって、なんかしんどいな、と最近気付いた。

なんだ、貴様、オレの財産目当てか?労働力目当てか?という猜疑心にさえ苛まれる。こんなのちっとも正しくない。

そりゃあ、若さというアドバンテージで戦えない女の評価ポイントなんて経済力とか生活力になるのは当然なのだけれど。そんなことはわかっているのだけれど。この「なんかしんどい」は何なんだろう。

そういうものを評価している人にアプローチされると、猛烈に逃げ出したくなる。(こじらせすぎやん)

もう、もう、わたしは虫の息なので、これ以上、わたしに、過度な……期待を、しな…いで……になる。

思い返せば、わたしは、塾も習い事も、アルバイトも部活も、大学の授業も、途中で辞めたりサボったりしたことがない。全て「任期満了」でのみ終わらせている。

うちの両親は特に教育やらなんやらに全然厳しくないのんびりした人たちで「辞めるな」とか「もっと頑張れ」と言われたことがなく、だからこそわたしものんびりした心持ちで任期満了していたのだろうなと思う。(実際に妹はわたしと真逆の性格で合わないものはどんどん辞めて、新しいものをどんどん吸収していくタイプだった)

わたしが「任期満了」タイプなのは、我慢強いからでも勤勉なのでもなんでもなく、ただ「そういうもの」だと捉えていたからだと思う。辞める理由がなければ辞めない、というだけ。だから実際は妹のようにいろいろ新しいことを試すタイプの人の方が社会では活躍してるなあ、というイメージもある。

だから「任期満了癖」があるだけで、決して努力家なわけでも優秀なわけでもない。過度な……期待を、しな…いで……マジで……。


潔く「きみのおっぱいが好きだ!触らせてくれ!」の方がぜんぜんマシまである、とすら思える。(いや、うそです)

この「なんかしんどい」の理由を考えてみると、社会生活においてはまだまだ「女性だから」というものが多くあるからかもなと思う。

「女性だから諦める」ことが多い、やっぱり、どうしても。でもそれは悪ではなくて、もうわたしの中では理解や、うーん、諦念、レベルにまでは消化できていることで(たまに猛烈に悔しいこともあるけれど)

性差によってできることもできないこともあることは当たり前だし、それは差別ではない。ただ、性別だけでチャンスが奪われたりすることが男性より多いと感じることが悔しいだけで、なんでもかんでも平等にすればいいとなんて思っていない。

それで、社会においてはそういういろいろな事情や流れや大人のルールを全部飲み込み、どうにかこうにか折り合いをつけて生きている。

だからこそ、プライベートで、それこそ恋人になる人との間に「平等だ!」「自立!」というのを突きつけられると「なんかしんど」になる。

彼らは「だって君たちが男女平等って言ってるんだから!僕は君を恋人としても男女平等のスタンスで扱うよ!」ということなのだと思う。

じゃあ賃金格差は?機会損失は?女性管理職は?
解決されていないことが山積されているジェンダー問題の中で、どうにかこうにか折り合いをつけているのに、恋人にまでそういうものを求められるのは「なんかしんど」なんだな。

別に奢っていらないし、エスコートしていらない、車道側を歩いてもらわなくてもいいし、ソファー席を譲ってくれなくてもいい。

ただ、もう、過度な自立を期待しないでほしい。

わたしも人間だから、自立はする、努力もする、金も稼ぐ、だけど、たまには甘えたいこともある、頼りたいこともある、それを、過度に自立を期待されると言い出せない人がいるということも知ってほしい。いや、別に知っていらんか。

わたしが何も言わずにフェードアウトしていくのはそういう理由です。て、こんなところに書いても仕方ないけど。

自立しなくても、バキバキの目で働いていなくても、まあそういう日もあるよな、ってなまぬるく受け入れてほしい。ていうことを上手に言える子がほんとはいいんだろうけど、わたしは言えない。ああ、この人の期待を壊してはいけないな、と思うから、自分が破裂する寸前までは期待に応え続ける、でも、ある日ふと、あ、もう無理、となればそこで無理になる。ある日突然わたしがいなくなるのは、そういう理由です。

もちろん、だから、その「自立」に性差なんてないと思っている。
男だから男らしくあってほしいとか、ずっとわたしを守ってほしいとか、そういうことなんて一切思わない。

あなたがダメになったらわたしが養うから、あなたはのびのびやってくれ!と思う。だから、そのかわり、あなたもわたしに過度な自立を求めないでくれ、なのだ。

幸せにしてくれそう、な人ではなく、わたしが幸せにしたい人、でなければ一緒にはいられない。


あ、うそつきました。いいかっこしました。
やっぱ、庇護されたいです。だって、甘やかし合うことさえできないなら、そんな関係いらないと思う。社会生活だけで、もう十分。


ずっと全力疾走はできない、ずっとピンヒールでは暮らせない。

ずっとスーツじゃなくていいし、無精髭だらけでもいい。


フラットシューズの自分を愛したいし、フラットシューズの自分を愛してほしい。わたしもそうありたいから。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?